医療ガバナンス学会 (2012年12月7日 14:00)
「国土交通省が高速道路会社の点検手法の確認や完成検査時の耐久性チェックを実施せず、維持管理を各社に丸投げしていることが分かった。」
「維持管理の基準を民営化前の旧日本道路公団や現在の高速道路会社6社に通達。同省の他、有識者や6社が参加する日本道路協会が指針である維持管理や補修の「便覧」をまとめ、各社がこれに基づいて点検マニュアルを作成している。」
「同省によると、マニュアルをチェックしていないのは、高速道路の維持管理は道路整備特別措置法で高速道路各社の責任とされているためだ。新設に当たって の建設許可の権限は持っているが、計画申請時の耐久性などの確認は必要なく、完成検査でも規格に沿っているか大まかな確認だけ。構造上のチェックはしてい ない。」
桐野記者の論理は以下のようなものと思われる。国交省が管理体制、基準、マニュアルを高速道路会社に押し付けていれば、事故は予防できたはずである。この点を突いて国交省を叩けば、安全性がその分高まる。
山梨県警も規範を根拠に誰かを非難するという論理を採用している。怠慢があったから事故が起きたに違いない。安全管理の担当者に刑罰を科すと、社会はその 分安全になるという論理である。警察による事故の解明とは、誰かを犯罪者に仕立てる努力に他ならない。日本の警察・検察は、伝統的に、暴力を背景に被疑者 を監禁して、精神的拷問ともいえるような長時間の取り調べで自白を強要してきた。世界では人権侵害と思われている方法で得られた自白を、法廷における正当 な証拠としている。
中日本高速道路株式会社は事故への対応で多忙を極めていたはずである。警察は現実より規範を重視するので、道路状況の改善より、悪を懲らしめる努力が優先 された。警察の捜査が被害回復の阻害要因になったと想像される。よく言われることだが、警察は迷惑を考えずに、あらゆるものを持ち去る。関係書類には、事 故への対応に不可欠なものが含まれていたに違いない。
●過失犯罪
刑法は、個人、社会、国家にとって有用な価値を守るために、あるいは応報のために、個人を、その責任ゆえに罰する体系である。1908年に施行された古めかしいもので、本格的な改正は行われていない。
専門領域の安全を守るために、刑法は211条の業務上過失致死傷罪で対処してきた。「業務上必要な注意を怠り、よって人を死傷させた者」を罰する規定であ る。「業務上必要な注意」を怠ったことを証明するには、予見義務違反、結果回避義務違反を証明すればそれでよい。医療や交通における事故は傷害や死に結び つく。事故の後で、予見義務違反、結果回避義務違反を言い立てることはたやすい。
そもそも、刑罰を科すことに目的はあるのであろうか。応報刑論は、カントなどのドイツの哲学者が主張したものである。「刑罰は、犯人の人格においてであ れ、人間社会においてであれ、決して他の目的の手段として加えられるべきではなく、ただ彼が犯罪を犯したという理由だけで犯人に科されなければならない。 (大塚仁『刑法概説(総論)有斐閣』)」この論理は、犯人が自由意思に基づいて犯罪を犯すという前提があり、過失犯罪にはなじまない。
これに対し目的刑論は社会にとって有用な価値を守るために科される。刑法211条業務上過失致死傷罪による刑罰は、明らかに目的刑に属する。トンネル事故で犯人をあげようとするのならば、それが社会の安全を高めなければ意味はない。
以下、拙著『医療崩壊 立ち去り型サボタージュとは何か』から引用する。
「過失犯に対する警察の調書の文面は、おおざっぱに言って『被疑者○○○は、○○○を予見すべきところ、漫然と○○○を継続したことにより、○○○を発生 させた過失があった』という形式で作成される。警察の捜査は、事実上”○○○”を埋める材料集めの作業であって、『事実そのものを調査している訳ではな い』ことを世間は意外に知らない。」(日本乗員組合連絡会議篇 東京工業大学講義テキスト「航空機事故調査の立場から見る社会と安全」2004)
「暴力犯罪を扱っている警察官に対処できること、できないことをよく考える必要がある。警察の論理があらゆる場所で通用する訳ではない。警察の論理で対処できるのは世界のごく一部にすぎない。」
「石油関係の安全管理専門家から直接聞いたことだが、ある石油精製工場で事故が起きた。捜査のために工場が封鎖された。警察は事故原因の調査能力を持たな い。また、再発防止に関心はなく、誰かを罰する可能性を追求するだけである。安全管理の専門家は警察が現場を封鎖したまま長時間おくと、事故原因が究明で きなくなると判断した。数名の専門家が深夜、工場に忍び込んで事故現場を調査した。この調査結果をもとに再発防止の対策をたてた。こうした事故で犯人探し を安全対策に優先させることは、社会に何の寄与もしない。少なくとも、この事件については、警察の活動は安全対策に有用な情報をもたらさなかった。それど ころか、捜査そのものが安全対策の阻害要因になっていた。」
トンネルの安全についての知見は日々積み重ねられている。警察官や法律家がトンネルを掘ったり、維持管理ができたりするわけではない。ある時点での技術水 準で基準を設けてそれを強制すれば進歩がなくなる。基準が事故後に設定されて責任を追及されるとすれば、危険性を伴う業務を担当する専門家がいなくなる。
法律、すなわち、規範に縛られる監督官庁は、現実の改善より、責任逃れを重視する。医療では、厚労省が厳しい基準を作り、最終責任を現場に押し付ける。現場は常に何らかの違反をしていることになる。
トンネルの安全についての議論に刑罰の恐怖が影響を及ぼすとどうなるのか。新たな対処しにくいリスクを発見しても、それを議論すると自分の安全が脅かされるとなれば、誰も議論しなくなる。
過失犯罪についての最大の問題は、警察・検察がメディアの報道、社会の雰囲気に影響されることである。警察・検察は、事実をそのまま受け取ることをせず、 常に善し悪しの色を付けるので、善し悪しを言い募るメディアの動向が気になって仕方がない。刑法学者の町野朔氏は以下のような警告を発している。
「責任も外から見た責任になっています。世論が責任が重いんだという時に、責任が重いんです。従来の考え方は違うんです。認識があったから重いというのが徐々になくなってきたというのは、責任に実態がなくなってきたということです。
刑法はもともと本当に個人の責任が重いという場合になんとかしようというものでした。今のような世論がそのまま突っ走ることを認めろということになると、リンチを認めるということになるでしょう。」(「身近な社会の刑法哲学」『ロゴスドン』31号、1999年)
●科学と法
東日本大震災では行政が科学を抑圧し、被害の拡大を招いた(文献1)。従来、原子力発電所について、細かな想定と対応の体系があった。その想定を超える津 波について議論することは許されなかった。行政が想定の正しさを権威づけたからである。行政は法律に基づく統治機構である。法は過去に固定された正しさで ある。原子力ムラの科学者は、自律性に乏しいため、行政にとって使いやすい。この集団が科学に必須の批判精神を排除した。同様に、反原発側もしばしば規範 を振りかざす。双方が科学的な言語と批判精神を欠いたため、意味ある議論が不足した。規範で原子力発電の正しさを固定させたことが、原子力発電所の安全性 についての多様な議論を抑圧し、結果として安全性を阻害した。
原発近隣の自治体の首長は、さらに厳格な統制を要求している。創設が準備されている原子力規制庁も、行政機関であるかぎり、法規範を行動原理とする。権威 を持てば持つほど科学に基づく対応の迅速性、柔軟性を奪い、逆に安全性を損ねるのではないか。私は、福島の原発事故は、厳格な統制故に生じたことだと認識 している。
同様の問題が医療にも存在する。日本は行政官である医系技官が医療行政を支配している。医系技官の多くは、医師としての本格的なトレーニングを受けていな い。しかも、行政官であり医学より法(規範)を優先しなければならない。科学的に実情を認識して現実的な対策を考えるより、法令に縛られる。医師としての 科学的認識や良心より、法律が優先される。ハンセン病患者の生涯隔離政策が、科学的正当性を失った後も長年にわたって継続された事実が示すように、行政官 は過去の法令に科学的合理性があるかどうか、その法令を現状に適用することが適切かどうかを判断しない。
WHOやCDC(アメリカ疾病予防管理センター)では、ペーパードクター行政官ではなく、本物の医師が疾病の被害の軽減に取り組んでいる。本物の医師でなければ、刻々と集まる情報を読み解いて、適切な対応をすることは不可能である。
科学上の正しさはとりあえずの真理であり、日々更新される。ゆえに議論や研究が続く。新たな知見が加わり進歩がある。科学や医学上の正しさは、規範とは無縁のものである。地動説に対する宗教裁判は、規範による学問の進歩の阻害の最も知られた例である。
現代社会は機能分化の進んだ社会である。世界社会は世界横断的な巨大な社会システムの集合体からなっている。それぞれの社会システムは独自に正しさを形成 し、日々更新している。ニクラス・ルーマンはこのような社会システムを大きく二つに分類した。規範的予期類型(法、政治、メディア)は物事がうまく運ばな いとき、自ら学習せずに、規範や制裁を振りかざして相手を変えようとする。これに対し認知的予期類型(科学、テクノロジー、医療など)は物事がうまく運ば ないとき、自ら学習して、自らを変えようとする。認識を深め、知識・技術を進歩させる。
●山梨県警
真家悟氏は2012年8月7日付けで山梨県警本部長に就任した。
2012年9月26日の毎日新聞地方版にインタビュー記事が掲載された。
目指す県警像として、「まずは犯罪や事故、災害の予防、防止に全力を尽くして被害者を出さない、被害者を一人でも少なくすること。次に、発生後には、犯人検挙、被害者救出、被害拡大防止、被害回復」と語った。
警察官を志したきっかけは「『悪いやつを捕まえたい』という思いから」であり、「自分が警察官になり、悪いやつを捕まえるようになったら両親も喜ぶだろうし、少しは世の中に貢献できるのでは」と思ったという。
山梨県警がトンネル事故で犯罪者に仕立てようと探し求めている個人は、「悪いやつ」なのだろうか。山梨県警の活動は再発防止に役立つのだろうか。
少なくとも、県警の活動が事故対応を阻害したり、事故原因の調査の邪魔をしたりしてはならない。実際、警察も空気を読んで行動している。原発事故直後、福 島原発の免震棟に乗りこんで、傍若無人な捜査を行う勇気はなかった。英雄である吉田昌郎前福島第一原発所長を逮捕したり、送検したりすることもないだろ う。町野朔氏の言うように、メディアの報道や社会の雰囲気が過失犯罪の成否を決めている。これは警察の認識能力不足に原因がある。そもそも、規範的予期類 型である警察は、規範に基づいて行動しており、規範を排した科学的認識を苦手とする。
山梨県警は、国土交通省の委員会による調査の邪魔はしないと思われるが、中日本高速道路株式会社の調査の邪魔をする可能性がある。中日本高速道路株式会社 は、何としても、独自の調査を行わなければならない。官庁が設立した委員会の委員は、原子力ムラの学者と同様、批判精神に乏しい学者が選ばれがちである。 彼らが、その後の高速道路の運営に責任を負う訳ではない。事故原因を最も適格に把握し、最も適切な対策を立てうるのは、中日本高速道路会社をおいて他にな い。
事故後2日目の12月4日には、山梨県で県民生活や経済活動に影響が出始めた。横内山梨県知事は昼夜を問わない作業で早期に復旧させることを求めている。県の予算で運営されている県警が復旧を阻害したり、安全性を損ねたりしてはならない。
●これからの問題
2012年12月3日の日本経済新聞電子版は、首都高速道路は、中央道よりはるかに老朽化していると伝えた。築40年以上たった区間が97キロメートル (32%)あり、築30年以上を含めれば145キロメートルとほぼ半分に達する。補修を必要とする損傷は全体で9万7000カ所にのぼるという。
首都高で事故が起きる確率は年々上昇する。建設後、年数が経過するほど事故の確率が上昇するのは当たり前のことである。財政逼迫の中で、安全対策は優先順 位を決めて実施されているはずである。100%の安全対策という発想を科学は持たない。所与の条件の中で事故の確率を減らす努力をするだけである。
予算がないのなら、どこかの時点で首都高を閉鎖することも検討する必要がある。機能している高速道路を閉鎖するのは簡単ではない。閉鎖しようとすれば、様々な理由で反対される。首都高を閉鎖することによって、間接的に命が奪われることも生じうる。
事故が起きたときに「悪いやつ」を犯罪者にしたてることで安全性が高まるとするのなら、事故前に対応してみてはどうか。実際に、首都高で条件を多少厳しく すれば、様々なところで、事故の予見可能性が見いだせるに違いない。予見可能性があるのなら、「悪いやつ」に警告して、事故を防止できるのではないか。漫 然と放置して事故が起きれば、警視総監には予見義務違反、結果回避義務違反が生じることになるのではないか。
どう考えても、過失犯罪の論理には無理がある。運用を間違えると、社会の活動を止めかねない。
実際に、過失について刑罰が必要な場面があるかもしれない。しかし、現状の警察の乱暴な捜査に何らかの抑制が必要なことは間違いない。制度で決めるのか、 医療で行ったように、議論で押しこんで運用を変えさせるのか。過失犯罪の定義と実務上の扱い方について、幅広い議論が望まれる。
文献
1.小松秀樹:行政から科学を守る. MRIC by 医療ガバナンス学会. メールマガジン; Vol.408, 2012年2月20日. http://medg.jp/mt/2012/02/vol408.html