5月19日現在、国内の新型インフルエンザ感染患者数は178人に達し、その数は
急増加しています。新型インフルエンザは、阪神地区に留まらず、既に全国に蔓
延してしまっているのかもしれません。5月15日に神戸市で最初の患者が発見さ
れて、わずか数日で、患者数は世界4位となった訳ですから、これまでに診断さ
れた患者は氷山の一角と考えるのが妥当でしょう。
現に、新型インフルエンザの爆発を示唆する所見は多数あります。例えば、厚
労省は全国の学級閉鎖をモニターした「インフルエンザ様疾患発生報告」を、毎
週発表していますが、5月3-9日の患者児童数は879人。昨年の同時期はゼロです
から、季節性インフルエンザが遷延しているだけなのか疑問です。また、関西で
の患者の分布は豊岡、姫路、神戸、茨城、八尾と広範です。特に八尾市の患者は
小学生で、生活圏は狭いと考えられますから、複数の経路で新型インフルエンザ
が伝染し、近畿圏にはすでに広く拡散したと考えるのが合理的です。
つい先日まで、厚労省は水際対策に成功したと主張し、多くのマスメディアが
厚労省の主張に追随してきました。ところが、実態は全く違った訳です。なぜ、
こんなことになってしまったのでしょうか。
○厚労省の誤ったプロパガンダが新型インフルエンザの蔓延を助長した
まず、議論しなければならないことは、厚労省の誤ったプロパガンダが新型イ
ンフルエンザの蔓延を助長した可能性があることです。
新型インフルエンザが社会的問題になって以降、厚労省は「新型インフルエン
ザは弱毒性」「水際対策は有効」と主張し続けました。水際対策の問題点は後述
しますが、厚労省発表は連日のようにマスメディアで報道されたため、多くの国
民が「新型インフルエンザは日本に上陸していない」と安心したのはないでしょ
うか。このような気持ちのゆるみが、感染予防行動の不徹底を招き、潜伏期の患
者を通じて、新型インフルエンザを広めてしまった可能性は否定できません。
一方、成田空港で見つかった新型インフルエンザ感染者や濃厚接触者が、強制
的に入院、あるいはホテルで隔離されていることも繰り返し報道されました。一
連の報道は新型インフルエンザ感染のリスクが高い人を、かえって医療機関や保
健所から遠ざけた可能性があります。放置すれば数日で治る病気を、わざわざ医
療機関にかかり新型インフルエンザと診断されてしまったら、10日間も隔離され
てしまいます。自営業者には死活問題です。
そもそも今回の新型インフルエンザは「弱毒性」です。しかしながら、厚労省、
とくに医系技官幹部は、強毒性のトリインフルエンザを念頭に作成した検疫重視
の行動計画、および検疫法の執行に拘りました。これは、彼らの責任逃れの側面
もあるでしょう。不幸だったのは、厚労省記者クラブを中心に検疫風景が大々的
に報道されたことです。このような報道が、国民、官邸、さらに厚労官僚自身に
検疫が有効であるという錯覚をもたらし、軌道修正の機会を奪ったのではないで
しょうか。
新型インフルエンザ騒動をめぐる厚労省の迷走の真相については、将来の検証
を待つしかありませんが、政府、メディア、学者が一体となって暴走する姿は、
戦前の我が国を彷彿させます。
○水際対策
では、水際対策について考えてみましょう。前回も触れましたが、水際対策が
何の効果もなかったことは明らかです。大量の労働力を投入し、旅行者を強制隔
離までして、見つけることができたのはわずか4人です。しかも、大阪府立高校
のグループを隔離した5月8日には、すでに神戸で感染が始まっていました。
これは、川の水を浄化するために、水源池から流れ出る水を、集落総出で「ざ
る」ですくい続けているようなものです。一生懸命やりましたが、引っかかった
のは砂4粒だけ。昨今の状況を見るに、「ざる」をすり抜けたか、別の流れから
運ばれたか下流で見つかった砂が何百粒に達しています。この状況で、「ざるす
くい」が一定の効果を上げたという人はいないでしょう。
そもそも、インフルエンザは潜伏期間にも周囲に感染するため、水際対策が無
意味なことは、世界の常識です。WHOやCDC、さらに国内の専門家が一貫して反対
し続けたにもかかわらず、厚労省は強引に水際対策を推し進めました。
この様子は世界に紹介され、多くの批判を浴びました。前回の配信でご紹介さ
せていただきましたBBC放送やNew York Times以外に、今週のNewsweekでは以下
のように紹介されました。
「アジアにはSARS発生時に使ったサーモグラフィーを引っ張り出して、空港で
の水際対策に使っている国がある」「あのウイルス(SARS)が感染するのは、もっ
ぱら患者が熱があるときに限られるからだ。だがインフルエンザは違う。何の症
状も出ていない段階から強い感染力を持つ」(Newsweek, 2009.5.20)
更に、成田空港の検疫で停留された米国人の様子は、彼の出身地カンザス州の
地元新聞でも報道されました。その論調は国内紙の報道とは異なり、以下のよう
に締めくくられています。
“I see out my window that police are maintaining a presence on the hotel grounds,” he concluded.
http://www.cjonline.com/news/local/2009-05-09/former_topekan_quarantined
ちなみに、WHOは隔離や停留のような人権侵害を伴う水際対策を実施する国は、
その根拠を示すべきだと言っています。これが中国や日本を指しているのは明ら
かです。
○医学的に無茶苦茶な新型インフルエンザ診断基準
新型インフルエンザの流行状況の把握には、正確な診断が必須です。しかしな
がら、厚労省の提唱した診断法はお粗末でした。
最大の問題は、新型インフルエンザ感染を疑う対象を、「新型インフルエンザ
患者との濃厚接触歴を有する」、あるいは「新型インフルエンザが蔓延している
国に滞在した」人に限定したことです。海外で新型インフルエンザにかかった人
が潜伏期の間に空港検疫を通り抜け、知らない間に治癒したが、周囲の友人にう
つしてしまったというようなケースを全く想定していないのです。
ちなみに、普通の医者なら、このようには考えません。それは日常診療で遭遇
する感染症の大部分は、感染ルートがわからないため、何でも一応は疑ってみる
からです。今回、神戸市の高校生の感染が判明したのは、地元の開業医が渡航歴
も接触歴もないのに、新型インフルエンザを疑い、神戸市環境保健研究所に遺伝
子検査を依頼したことがきっかけです。いわば、開業医の機転によるものです。
このあたり、医系技官と開業医の臨床経験の差が出たのでしょう。臨床経験の乏
しい素人が描いた机上の空論に従って危機管理を行うことは危険です。
ついで、厚労省は遺伝子検査(PCR)の取り扱い方を間違えています。新型イ
ンフルエンザの確定診断は遺伝子検査で、この検査なしでは診断できません。し
かしながら、これまで厚労省が遺伝子検査を薦めてきたのは、「渡航歴」、「接
触歴」がある疑い患者で、インフルエンザ迅速診断キットで陽性の場合、あるい
は新型インフルエンザ感染が「強く」疑われる場合だけです。このような基準を
設けたら、多数の患者を見逃すことになります。例えば、インフルエンザ迅速診
断キットは感度が悪く、少なくとも10-20%程度は見逃すことが分かっています。
また、新型インフルエンザの一部は発熱しませんから、「強く」疑うことはあり
ません。
もし、国内での新型インフルエンザ感染を早期に検出したいのであれば、「少
しでも」新型インフルエンザを疑ったら、遺伝子検査をすべきなのです。実際、
米国のCDCは遺伝子診断キットの米国内への配布を進めていますが、診断キット
が各施設に配布されて、米国内患者数は見せかけ上、増加したと主張しています。
そもそも、新型インフルエンザの診断で遺伝子診断を使うか否かの判断は、実際
に患者を診察している医師に任せるべきで、医療の素人の医系技官が口出しすべ
きではないでしょう。
このように新型インフルエンザ診断に遺伝子検査は必須なのですが、我が国の
現状はお寒い限りです。知人の病院長から聞いた話では、厚労省が各地域に割り
当てている遺伝子診断キットの数が少なく、医師は検査を控えざるを得ないよう
です。こうやって、新型インフルエンザ患者が見逃され、あたかも検疫が成功し
たかのように見えます。また、遺伝子診断キットの値段は、1回あたり数千円で
す。医学界では無効と評価が決まった空港検疫に膨大な費用をかけていることと
は対照的です。
○我が国には健全な権力批判が存在しない
今回の騒動を通じ、我が国には健全な権力批判が存在しないことを痛感します。
権力批判と言えば、ジャーナリズムとアカデミズムが双璧です。しかしながら、
その何れもが十分に機能しているとは言えません。むしろ、国家権力と共鳴して
暴走した感があります。
まず、ジャーナリズムですが、その象徴は5月17日の読売新聞社説です。その
中で、「水際対策に力を注いできた。これにより新型の国内侵入を遅らせること
はできた」と主張しています。これは、朝日新聞の「数日間の潜伏期間もあり、
検疫をすり抜けても不思議はない。国内に入ってくるのは時間の問題だろう」
(5月9日社説)とは対照的です。誤解を恐れずに言えば、読売新聞の医療取材チー
ムは質・量とも随一で、現場取材に基づく記事の多くは素晴らしいものです。我
が国の医療界にもっとも影響力があるメディアと言って過言ではないでしょう。
しかしながら、政府が絡むと「御用記事」が多くなります。まさに、今回はその
典型で、社説の主張に何の科学的根拠もなく、政府発表を垂れ流したと言われて
も反論できないでしょう。
一方、アカデミズムはジャーナリズムより悲惨です。感染症の権威とされる国
立感染症研究所や日本感染症学会に所属する多くの専門家は一貫して沈黙を守っ
ています。また、日本医師会は厚労省の伝書鳩です。これらの組織は、厚労省が
暴走するのを止めるのに全く役に立ちませんでした。
国立感染症研究所や日本感染症学会については、厚労省の医系技官が人事権や
予算配分権、審議会委員の人選権を握っているため、反論したくても出来ないの
でしょう。厚労省は、これまで反抗する者に人事や予算で報復してきました。一
方、診療報酬問題では極めて戦闘的な日本医師会が、インフルエンザ問題には独
自の見解を述べないのは、基本的に関心がないからでしょう。私は、日本医師会
の潜在力に大きな期待を寄せていますが、今回の対応には本当に失望しました。
これでは、国民の信頼を得ることは出来ません。
プロフェッショナルがきっちりと発言しないことは、国民にとって不幸なこと
です。アカデミズムやジャーナリズムと国家権力の関係についてもっと議論が必
要です。
○勇気ある個人の出現
ところで、今回の事件では、アカデミズム、ジャーナリズムの何れにも明るい
兆しもありました。それは、国立感染症研究所 感染症情報センター長の岡部信
彦氏や現職の医系技官である木村盛世氏が検疫体制の問題点を個人として訴えた
ことです。一部のメディアが問題の本質に気づいたのは、彼らの発言があったか
らです。体制内のしがらみ、そして人事での報復を恐れず、科学的な正しさを主
張したことに対し、心から敬意を払います。
特に、木村盛世氏は新型インフルエンザが問題となる以前の、本年3月に『厚
生労働省崩壊 「天然痘テロ」に日本が襲われる日』(講談社)を出版し、検疫
体制の問題点を予言していました。この予言は、今回の新型インフルエンザ騒動
でほぼ適中しています。しかしながら、著書のタイトルが刺激的であったためか、
関係者の反応はエキセントリックで、AMAZONの書評には多くの中傷が記載されま
した。これを読んだ、読者の感想は以下です。「危機感と感動と様々な感情が交
錯する中星1つの個人攻撃とも思えるレビューをみて 怒りを通り越して違和感を
感じた。おそらくこのレビューをした人は厚生労働省の中でぬくぬくと天下りを
夢見ている 一人なのであろう。」
ジャーナリズムについては、厚労省発表を受け売りする全国紙を尻目に、週刊
誌が独自の記事を出し続けています。週刊朝日、週刊文春のようなやや固い雑誌
から、プレイボーイやフライデーに至るまで、その記載は全国紙より遙かに的を
得ています。新聞と週刊誌がチェック&バランスの関係であることがわかります。
また、週刊誌が正確な医療記事を書けば、国民の医療リテラシーは大きく向上す
ることが期待できます。
○今後、必要な対策
新型インフルエンザの蔓延が目前に迫った現在、私たちがとるべき対策は何で
しょうか?
私は大きく分けて4つだと考えています。それは、患者への情報提供(啓蒙)、
専門家への情報公開、国内医療機関の体制整備、検疫法・行動計画の改定です。
今回は、「検疫法・行動計画の改定」以外の3つを考えましょう。
○患者への情報提供(啓蒙)
新型インフルエンザから身を守るには、感染予防についての正確な知識を身に
つけなければなりません。現在、厚労省は、マスク・手洗い・うがいの励行、不
要な外出の回避などを推奨しています
(http://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/k
ekkaku-kansenshou04/inful_what.html)。しかしながら、マスク・手洗い・う
がいも、なかなか奥が深く、きちんとするのは大変です。
例えば、マスクは使い方次第で凶器にもなります。もし、新型インフルエンザ
に感染した人が、自分のマスクを触った手で周囲のものに触れたり、握手したり
すると、大量のインフルエンザウイルスが飛散しかねません。本来、マスクは
「汚染物」として扱うべきなのですが、国民の間に周知徹底されていません。よ
く、ポケットから使い古しのマスクを出す人がいますが、あの行為はかなり危険
なものと認識すべきでしょう。
手洗い・うがいは、しばしばセットで推奨されますが、実は感染予防の有効性
がはっきりしているのは手洗いだけです。うがいの効果は研究によって異なりま
す。極端に言えば、インフルエンザ蔓延を防ぐためは手洗いを徹底するだけでも、
かなりの効果が期待できます。
では、このような情報を、どのようにして国民に伝えるべきでしょうか?厚労
省は、今回の騒動で県への通知や自らの
HP(http://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou
/kekkaku-kansenshou04/inful_what.html)などで呼びかけましたが、どの程度
の国民にリーチできたかは不明です。おそらく、多くの国民は厚労省や自治体の
HPなど見ないでしょう。本気で、国民への情報提供を考えるなら、テレビCMや新
聞の一面広告を活用すべきです。しかしながら、そのためにはお金がかかります。
厚労省は新型インフルエンザ対策予算を確保し、広報に重点を置くべきです。
オバマ大統領は1000億円以上の予算を議会に求めたのに対し、麻生総理は特別な
予算措置をしていません。これが、厚労省や医療現場の手足を縛り、選択肢を狭
めています。
○専門家への情報公開体制
新型インフルエンザ対策の基本は正確な状況把握です。そのためには、国民と
官庁・専門家が情報を共有する事が必須です。しかしながら、これに関しても心
許ない状況です。
例えば、国立感染症研究所の感染症情報センターの
HP(http://idsc.nih.go.jp/index-j.html)には国内の感染症情報が集約されて
いますが、5月19日現在、新型インフルエンザに関する疫学情報(どの地区で、
どのような症状の患者が何人くらい発症したか)は一切記載されていません。厚
生労働省も「新型インフルエンザ対策関連情報」
(http://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/kekkaku-kansenshou04/index.html)と
いうHPを立ち上げていますが、この中にも記載はありません。このような状況は
WHOのHPがリアルタイムに更新されるのとは対照的です
(http://www.who.int/csr/don/2009_05_18/en/index.html)。
新型インフルエンザを診断した保健所や医療機関は厚労省への届け出が義務化
されていますから、新型インフルエンザに関する情報は厚労省に集約されていま
す。しかしながら、厚労省は、このような情報を一切公開していません。聞くと
ころによれば、国立感染症研究所の感染症情報センターにすら伝えていないよう
です。厚労省は医療現場に大きな負担をかけながら情報を集めても、何ら活用す
ることなく、省内に積んでいるだけのようです。これでは、対策が後手に回るの
は当然です。
○国内医療機関の体制整備
前回の配信で、国内医療機関の体制整備が急務であることを訴えました。この
問題は様々なメディアでも議論されていますが、厚労省は「地域の医療体制の整
備は都道府県の役割であり、国としての補助は考えていない」という従来の方針
を変更していません。勿論、現状把握のための調査研究も行っていません。
腰の重い厚労省に痺れを切らしたのか、朝日新聞は地域の医療体制に関する独
自調査を行い、5月18日朝刊の1面で公表しました。その結果は驚くべきもので、
東海3県の40%以上の病院が陰圧病床や隔離病棟を持っていませんでした。これで
は、新型インフルエンザの流行が本格化すれば、病院は院内感染の巣窟となり、
多数の死者が出ます。
多くの病院経営者は最悪の事態を避けるべく、病院の体制整備に努めています。
しかしながら、大部分の病院は赤字経営で、公的資金の投入なしには実効性のあ
る対策はとれそうにありません。厚労省は、発熱外来の設置などの通知を濫発し
ていますが、発熱外来を作っても、予算措置がなければ機能しません。医療現場
が求めているのは、通知ではなく、予算措置なのです。しかしながら、補正予算
編成では、この問題は十分に取り上げられず、解決の目処はたっていません。
次回、検疫法と行動計画の見直しについて考えてみたいと思います。