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Vol.16 「言わない善意」より、「言動する偽善」

医療ガバナンス学会 (2013年1月18日 06:00)


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南相馬市立総合病院・神経内科
小鷹  昌明
2013年1月18日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp


寒さと乾燥の厳しい冬に入り、多少は忙しくなってきた。この地でも呼吸器感染症が増え、脳卒中や虚血性心疾患が運び込まれ、ノロウイルス疑いもちらほら現れ、飲酒や積雪による転倒事故もみられるようになってきた。

寒さと関連する疾患が増加するのは、どこの地域でも同じであろうが、私のかかりつけ患者(60歳台、マチャド・ジョセフ病)が、低体温と意識不明とで搬送されてきた。身体は冷め切っており、血圧も微弱で、呼びかけに対する反応もなくなっていた。
また、40歳台の”症候性てんかん”の重積患者が、日曜日の朝方、運良く(?)私の当直が明ける寸前に運ばれてきたり、70歳台のレビ―小体病という患者が、”悪性症候群”を呈して、全身硬直と40℃の発熱を伴って転院してきたりした。
治療そのものも厄介だったが、夜間譫妄や不穏等で、介護にはもっと手を焼いた。

もちろん、そのような病態はそれほど珍しいことではなく、いつの頃も、どこの地域でも同様な症例は経験する。しかし、この土地で、この時期に具合の悪くなる患者で共通していたことは、「皆、介護者は1人で、とてもひとりでは診きれていない」ということであった。
老夫婦二人暮らしで、片方が障害者という”老障介護”のご家庭では、相手が気付いてあげなければ、障害者はずっと気付かれないままである。結果として、転 倒したまま寒い一夜を動けない状態で過ごし、すっかり衰弱して低体温症状で搬送されてきたり、いつから”けいれん”が持続していたか分からず、いつから服 薬できていなかったかも分からなかったりして、運び込まれる。

「老々介護のなれの果てだ」と言えばそれまでだし、「何も福島に限ったことではない」と指摘してしまえば、それも正論である。でも、だから済ませられる問 題ではない。”社会的な正論”は”個人的には不誠実”であり、言説は、大抵の場合正論である。正論はいつも合理的で効率的であるが、矛盾をはらんだ福島の 人たちの辛い心情に寄り添うことはない。

確かに私は、この頃、何か難しいことを言い始めているかもしれない。しかし、最近の主張は、「こんなこと言っても仕方ないかな」になってきている。
物書きとして、このようなことを言うのは失格かもしれないが、私の論述には「”夢”や”希望”や”打開策”がない」と言われるその前に、「何が言いたいのかよく分からない」になってしまっているのではないかと思う。
たとえば”南相馬市”と”大震災”という問いを立てた場合、それに答えるならば、「今回の”大震災”がいかなるもので、そして、そもそも”南相馬市”と は、どのような街で、どういう歴史を経て、市民がどういう生き様をしたいのか」を、延々と説かなければ気が済まなくなってきている。そして、私の文章に触 れた人が、「”我が身のあり方”を、そこに重ねるためにはどうしたらいいのか」ということまでも考えてしまい、実際おそらくは、それを永遠とやっているの ではないか。
が、しかし、突き詰めていけば、おそらく言いたいことはそんな難しいことではなく、「夢や希望や打開策がないから生きていけない」というのは、むしろ贅沢 な悩みで、この地では、「それらがあろうとなかろうと、生きていかなければならない」ということを遠回しに伝えたいだけなのである。それを面と向かって言 えないために、相変わらず、話しは回りくどく、喩えは抽象的で、論は散漫なのである。
もう少し具体的に述べるならば、「診療して、治ろうが治るまいが、私にできることは患者をとりあえず家で療養できるレベルにしてお返しする」という現実を、何とかして考えていきたいというだけなのである。

震災から1年9ヵ月が過ぎた。
東京あたりは衆院選一色で、福島のことなど口の端にも上らないであろう(自民党が圧勝だった)。「解散」だ、「選挙」だとかいう、そういう打ち上げ花火的 なイベントを見るにつけ、私はいつも不安な気持ちになる。今後の方針を決められない現況の中で、その日の”お祭り”に精を出しているかのように見える。 「今日が楽しければ、それでいい」というような。
街頭演説などを眺めていると、市民のためというよりは、「理想を語ることで、人間の無意識下で働く安定した現実の中に存在する不安」をねじ伏せるために、先手を打って叫んでいるのではないかという気になる。
選挙は”民主主義”ということになっていて、どうもそれは、「多数決で決着をつける」ということのようである。だから多くの日本人は、”民主主義=(イ コール)多数決”という短絡したロジックをすり込まれ、政治的な判断は、何かというと「国民に真を問う」という決めゼリフによって動かされている。民主主 義というのは、「その決着の前に、まず現場を見て、人の話をよく聞いて、深く考えること」なのではないのか。

私が、最近何を思っているかというと、「考えなかったツケが回ってきた」ということである。考えてこなかったことについて、考えている。
私は自分の人生において、「”災害”とは何か?」とか、「”原発”とはどういうものなのか?」とか、そして、「”被災”するとはどういうことなのか?」と いう問いを立ててこなかった。はっきり言えば、無視してきた。その結果として、考えない私がいた。平凡に暮らすだけの自分がいた。大災害の前に立ちすくむ 人々が大勢いるというのに、この地に来る前の私は、あるいは来た当初においても、周囲の声に煽られて浮き足立つだけであった。
何かをしなければならないような気分になり、とりあえずは被災現場に行き、”被災地便り”のような原稿を書き、自分の身の丈を越えて、人のためにできるこ とを探そうとしたり、そして、大して役に立っていない自分に自己嫌悪したり、ときには少しだけ手伝ったことを、ことさら自分がしたことのように仕向け、そ の結果偉くなったような気がして、もっと大きな救済のために動こうとしたり、そうかと思うと、受け売りの情報を振りまいて解ったようなことを言い、権威あ る人のコメントを拾い読みして情報通ぶったり、さらには自分の意思で人を動かせるのではないかと勘違いしたり、誰かが発表する新しい情報に動揺したり、恐 れたり、嫉妬したりしていた。

すなわち空回りしていたのだ。考えが上滑りしていた。その結果、同様な社会問題に対しても、何をどう解釈していいのか分からなかったし、どのように考えを 落ち着かせたらいいのかで、対処に困っていた。”尖閣諸島問題”や”沖縄基地問題”も、何が正しい道なのか分からないし、私なりの意見を言うこともできな い。
ただ、ここへきて何となく確信めいて分かってきたことは、それでも放射線の降り注いだ被災地医療のことなら9ヵ月間、住んで、働いて、経験して、考えた分のことだけは言える。
「偽善」と言われようと、きっと、そういうものなのだろう。皆、実際に考えた分だけのことを言えばいいのだ。それを”立場”だとか、”役割”だとか、そう いうことで、考えていない分のことまでを言おうとするから、あるいは言わなければならないから、事態がおかしくなるのである。

話しを医療に戻す。
震災の数日前に母親を脳梗塞が襲い、そのまま震災に巻き込まれて、自宅でその母親を看取った娘がいた。震災と同時進行で肉親が倒れ、半身麻痺となり、言葉 を失い、次第に衰弱して亡くなっていく様子を見ていた娘は、震災と病気という二つの現実の間でバランスを失っていった。地球規模の大惨事を目の前に、世界 と家族という二つの軸の間で揺れ動き、母親の死というリアルを前に、地震や津波や原発事故を乗り越えることができなかった。
今も一家は離散し、残された家族は、それぞれがそれぞれの状況に合わせて単独で暮らしている。
避難しなかった人には、避難させなかったことへの自責があり、避難した人には、避難しなかった人への負い目がある。どちらを選んだにしても、質のそう違わ ない。言ってみれば”しこり”がある。それなら、「そのときの極限状態で下した選択を後悔しても仕方がないのではないか」と他人は思うが、単純に割り切れ る問題ではけっしてない。
“時間”である、何よりも時間が必要である。

私は、自分の思考を整理するために、”私自身の世界”で南相馬市の現況を語っている。しかし、そうすることで、たとえ答えらしきものが見つかったとして も、それが何になるというのか。ここで私に何が起ころうとも、何を言おうとも、自分は結局”世界の外側”にいる人間なのではないのか。
いや、それ以前に、その世界がどこで、どういう場所なのかもわからないし、そもそも解答などというものもないのではないか。そんな想いが、思いを巡る。
でもだからこそ、「世界の内側には入れない」という疎外感と徒労感がある限り、私は内側に入ろうとして、永遠に「こんなことを言っても仕方ないかな」と言 いつつ、「福島」を語ることになるかもしれない。「考えなかったツケが回ってこないように」と願いつつ、「福島」を経験することになるかもしれない。
「言わない善意」より、「言動する偽善」というのも、福島に対するひとつの答えなのではないだろうか。

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