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Vol.22 開沼博『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』についての精神分析的読解

医療ガバナンス学会 (2013年1月23日 06:00)


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福島県立医科大学災害医療支援講座/雲雀ヶ丘病院
堀 有伸
2013年1月23日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp


構造主義という立場がある。精神医学の分野ではJ・ラカンの業績が大きい。私たちは通常、自分たちが言語や社会制度を利用していると感じている。しかし ひょっとしたら、個人に先行する言語や社会制度の構造が、私たちの無意識を規定して、こちらが私たちのことを躍らせているのかもしれない。
極北の雪に囲まれた地に暮らす人々が、私たちが「白」と呼ぶ色を何通りにも分別して名付けていたとする。その民族が生んだ哲学者が行う「白」についての考察は、私たちが行うものよりも数段も深く広いものだろう。

平成23年3月に福島第一原子力発電所の事故が起きた後に、私は社会学者の開沼博が書いて話題となった『「フクシマ」論』を読もうとして、なぜか読めな かった。今ではその理由が分かる。この著作の語る内容は、私の無意識の構造を解釈してそれを私の意識につきつけるものだったのであり、私はそれを受けいれ ることに抵抗したのだ。
私は自分のことを、社会的な地位や名誉・収入にこだわらない、反権威的な、純粋な正義の人のように思いたかった。しかしそれならば何故、私は日本の社会や文化の問題点にこれほどまでに深く執着して、それに批判や攻撃を向けているのだろうか。

開沼が語るのは、「いかに原発が人々から愛されていたか」ということだ。そして、原子力発電所のもたらす負の側面からは目を逸らし、それのもたらす豊かさ や快適さを渇望し、強い愛着を向けてその近くにありたいと思う私の心、それは、昨年のような事故が起きた後では、全力で否定して忘却したいものだった。
何回か書いてきたが、私は平成24年4月から福島県南相馬市に暮らして精神科医として働いている。そこで、現地で被災した人々と接する中で、「私は本当は 何者なのだろう?」という問いかけを、逃げ場のない形で受けているように感じることがあった。そのような体験を何回か経て、開沼博の『「フクシマ」論』を 読めるように変わっていった。

開沼は「原子力ムラ」が成立した背景を、国家を単一の価値観でまとめあげて総力戦体制を作り上げ、戦争や経済発展を求め続けた日本という国家の近代の問題と結びつけている。

その閉鎖的な国家の理念の実現を支える要となる原子力発電所の問題、その問題の中枢近くに無意識に近づいて行った私の欲望は、「日本という社会の中でより影響力のある上位の位置を占めたい」という無意識の欲望とつながっていたはずである。
私は「日本的ナルシシズム」という概念を提唱している。日本社会の価値観と一体化し、それから離れることに強い恐怖と絶望を覚え、その社会の中で高い位置 を占めている名誉を他者から確認されることに強い満足を感じる、そういう精神構造のことである。このように語る自分がとてもナルシシスティックであること を私は自覚しており、このような語りをすることでそれを乗り越えることを切望している。

日本社会における「自己犠牲」の道徳的な価値は高い。そして、近代という時代は植民地主義の時代であり、支配/被支配の関係が鮮明な時代であった。そのために、「日本的ナルシシズム」は容易にマゾヒズムへと転換されてしまう。
開沼はこの支配/被支配の問題を、「統治システムの高度化」と呼び、3つの段階を区別した。(1)が、「外へのコロナイゼーション(植民地化)」で、戦前 の1895年から1945年までを割り当てている。(2)が、1945年から1995年までの「内へのコロナイゼーション」であった。外国に植民地を求め る活動は太平洋戦争における敗戦によって終焉した。しかし、「植民地」を求めて止まない社会構造は、日本国内の沖縄などの地方に、それまで外地の植民地が 担ってきた機能を求めるようになった。原子力発電所の設置も、この問題と結びついていた。(3)が、1995年以降の「自動化・自発化されたコロナイゼー ション」である。

私は平成9年に東京大学医学部を卒業した。そして平成24年に福島県南相馬市に移住した。どちらもそれなりに大変な部分を乗り越えることを求められた。し かしその割には、それを行った私の動機が、私にもあいまいなのである。ひょっとしたら、周囲の人が「優秀」であるとか、「立派な人」とか言ってくれるのが 嬉しかった、それを求めていたのかもしれない。そういった評価を失うことが恐ろしかったという気持ちもある。とにかく、日本社会の中でより高い評判を得た いばかりに、個人としての幸せを追求する時間や労力を切り捨て、社会で話題となる価値に献身する私のマゾヒズムを理解するのに、「自動化・自発化されたコ ロナイゼーション」という言葉は、痛烈であったが正鵠を得ているように感じた。

何年か前から「空気を読む」ことの重要さが強調される機会が増えたようだ。これは個人に対して、全体の雰囲気に敏感な関心を寄せ続け、自発的にそれに沿っ て動くことを要請している。漠然とした空気の示す「内容」は問題とならない。どの内容が選択されるべきかという葛藤そのものが真剣な形では起こらない。内 容は空虚なのに空気に対して敏感であることを求められる度合いはますます強くなっている。ここに、コロナイゼーションの「自動化」の兆候を読みこむことは 不可能ではないだろう。
数年前から、東京で精神科医をしていて、奇妙な感触を持っていた。残念ながら、精神科医には患者の自殺を経験することがある。そして、自殺者にはいずれも 背負ってきた葛藤に満ちた人生の物語があった。ところが、本当にこの数年、「日本の社会で年齢に見合った名声や生活・収入を維持できなくなった」だけで、 あっさりと死ぬことを選んで葛藤を感じないように見える、そういう自殺者が散見されるようになっていたのである。
1967年の中根千枝の『タテ社会の人間関係』からの引用を行いたい。「日本の「タテ」の上向きの運動の激しい社会では、「下積み」という言葉に含まれて いるように、下層にとどまるということは、非常に心理的に負担となる。なぜならば、上へのルートがあればあるだけに、下にいるということは、競争に負けた もの、あるいは没落者であるという含みがはいってくるからである」、この事態のもたらす心理的な苦痛を和らげる社会の豊かさが、だんだんと損なわれている ような感覚がある。

なぜ「ナルシシズム」「マゾヒズム」は問題視されるのだろうか。
私は、この傾向が過度になると、個人と個人のあいだでの愛情が成立しにくくなってしまうことが、最大の問題であると考えている。
「サド・マゾ」関係は、基本的に「支配/被支配」の関係なのだ。そして同胞が、心ならずも日本社会における優位性を主張し合う競争相手となってしまう。中 根の前掲書から、もう一度引用を行う。「このようなモビリティは必然的に同類を敵とする。これはまたいっそう「タテ」の機能を強くさせ、一方「ヨコ」の関 係は弱くなるばかりでなく、邪魔な存在にまでなろう。同僚に「足を引っ張られる」とか「出る杭は打たれる」などというのは、この作用をよく象徴している。 これが集団の場合になると、同じような種類と実力をもったものが敵となる。(中略)そして、こうした競争はきわめて現実的な表現となってあらわれ、競争を とおして、そしてその結果「格付け」ができてくる」。この「格付け」が与えられていないという意識のもたらす苦痛が、「日本的ナルシシズム」の構造を持つ 個人の心を苦しめる。開沼の著書では、福島県内の各都市が、それぞれ独立に中央との関係を持っていて、お互いが中央との関係でより上位を目指すライバル関 係に入ってしまっていることも指摘された。
たくさんのお金を東京電力から受け取っていた地域に対する、福島県内の他の地域の感情には難しいものも存在する。また、同一の地域内でも、近隣の他者がど の程度「賠償金」を受け取っているかが、何よりも気になってしまう人も存在する。さらに、被災地における医療者の不足を訴える病院などを、県などが問題視 して干渉するような現象も、こういった心理から理解できるだろう。「中央に対して面倒なことを言わないよい部下」のように思われていたい県の面子を、個人 の行動がつぶすことになるからだ。このような流れの中では、より多く中央のために「身を削ること」の競争が始まることもありうるだろう。これは、経済にお けるデフレの問題とも関係があるかもしれない。
他にも、「復興」の予算が組まれた時には、日本中の自治体などで「遅れを取らずに予算を取ってくる」ことに向けて、競争し合うような意識が生まれていたのではないだろうか。

ここで私は、自分が10代から20代の若者だった頃のことを、どうしても想起してしまう。その頃はまだ、「受験戦争」という言葉が使われていた。人と人が 触れ合う中で、潜在的な競争関係を脱却できず、個人と個人が真の愛情に支えられた信頼関係を築けないことは、空しく寂しいことだ。「どこかで相手のことを 出し抜いてより上位に行きたい」という欲望に、引きずりまわされる人生になってしまう。

私はある時から、「原子力ムラ」を批判する言説を控えるようになった。それは、その内容が間違っていると思ったからではなく、「原子力ムラ」を批判する私 の欲望の中に、「原子力ムラ」を推進してきた人々と同根の、「日本社会におけるより上位の格付けを求める欲望」を見出してしまったからだ。この心理構造を 脱却できないのならば、理屈で反対を述べているだけの人々よりも、現実社会で実際的な機構の運用をしている人々の方が結局は勝利するであろう。

私が福島に来たのは、東京で劣勢だった競走者に勝利するために、より道義的に優勢な地位を占めたいという無意識の欲望が働いていたからかもしれない。

ここまで述べて来て、何だか自分で自分のことがかわいそうになってきた。いくら何でも、そこまで厳しいことを言わなくてもよいのではないか、私にも良いところがあるよ、と自分で自分を弁護したい気持ちもある。
同時に、このことを語った私の中に、新たな欲望が強まっているのを感じている。やはり「日本的ナルシシズム」の精神性を乗り越えたい。その構造の外に出た い。そして、その上で個人として、今の状況における倫理的なふるまいのあり方について考えてみたい。そして、たくさんの人々と、競争関係を超えた、愛情に 裏打ちされた信頼関係を築いていきたいのである。

堀有伸:うつ病と日本的ナルシシズムについて.臨床精神病理,32:95‐117,2011
堀有伸:現代うつの語りを聞くこと.ナラティブとケア,3:14-21,2012
開沼博:「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか.青土社,東京,2011
中根千枝:タテ社会の人間関係 単一社会の理論.講談社,東京,1967

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