医療ガバナンス学会 (2013年2月22日 06:00)
以前より私たちは、トリプル災害によって家と家族と仕事とを奪われ、応急仮設住宅での生活を余儀なくされている人たちの動向が気になっていた。仮設住宅の 集会所でイベント活動をしたり、ラジオ体操やお茶会、ハイキングなどを催したりしても、顔を出してくれる人の割合は女性の方が圧倒的に高かった。
一方、男性は……、参加者は少ない。
男のなかには、特に熱心に仕事をしていた人ほどそれをなくしたショックが大きく、人生の方向性を見出せず、将来の展望を描けないものがいる。新たなコミュ ニティを築けないそうしたシニア世代の男たちは、自宅に引きこもりがちになり、結果として孤独となり、アルコールに依存したり、パチンコで少ない賠償金を 浪費したり、最悪のケースには孤独死や、孤独自殺といったことが社会問題になるのは、もはや明らかだった。
当院の在宅診療部で定例的に開かれるミーティングにおいて、これらの将来を問題視する声が高まり、「私たちもできるだけのことをしたい」という機運が生まれた。
そこで、活動の候補として話題にのぼったのが、”木工教室”だった。中高年男性の興味といったら、これはもう手作業である。かつて一次産業に従事していた人たち、あるいは製造業に就いていた人たちがたくさんいる。彼らの願いは「土いじり」であり、「創作」であった。
私とて、かつては工作やら木工やら日曜大工やらに凝ったこともあるし、そうでなくとも少年時代にプラモデルを作らなかった男がいるであろうか。
早速、協力してくれそうな関係者への声かけ作業を試みようとした。が、しかし、何をどうしていいのか、まったく算段が立たなかった。ちょうどその時、幸運 にも私の受け持ち患者のなかに大工がいた。彼は手足のしびれを訴えて精密検査を目的に入院していたのだが、しびれ以外の部分では、とりあえず元気だった (後に、無理をし過ぎたための腱鞘炎であることが分かり、重篤な疾患ではないことが判明した)。
「仕事を奪われ、目標を失っているお父さんたちのために”木工教室”のようなものを始めたいのだけれど、誰か相談できるような人はいませんか?」と、病棟 回診のついでに尋ねてみた。彼は、少し考えてから「全建総連原町の委員長は川崎博祐さんというのだけれど、その人に相談してみたらいいよ」とアドバイスを くれた。
“全建総連”の正称は『全国建設労働組合総連合』というのだが、それは、住宅建設に従事する建設労働者や職人の各県組織を全国的に統合して結成された、日本最大の建設労働組合である。
私は、自分の受け持ち患者であることをいいことに、「では、その川崎さんにそれとなく打診してくれないか」とお願いしてみた。彼は、難なくそれを引き受け てくれた。数日後、伝えられた返答は、「やってもいい」とのことであった。プロの工務店からの協力が得られる目鼻がついたことで、私たちは俄然活気づい た。
それは、昨年の11月初旬のことであった。この瞬間、在宅診療科の鈴木良平医師をプロジェクトリーダーとする、”Team HOHP”が誕生した。
川崎社長に会うために有限会社『川崎工務店』に出向き、改めて本計画の主旨を説明した。「仕事を失い引きこもっている男たちに今一度、物造りの愉しさを味 わってもらい、働く意欲を取り戻してもらいたい。メンタルヘルスのためにも有効だし、やがては産業にして街の復興に貢献したい」と私たちの想いを伝えた。
社長は、気持ちよくそれに応じてくれた。さらにその場で、「たとえば、机や本棚のようなものをしっかり造るには…」ということで、「金槌やノコギリやカン ナやバールはもちろんだが、”電気丸鋸”、”インパクトドライバー”、”自動カンナ”、”ジグソー”などが必要である」と、木工に要する物品を挙げてくれ た。
「それは一体どのようなものだろうか?」
聞いたこともないような工具名に対して、備えなければならない器具のハードルの高さに、一瞬怯んだ。
「市内に”日立工機原町”があるので、そこに頼んでみましょう」と提案してくれたのが、医事課係長の鈴木善典さんであった。
「ダメでもともと」、私たちは人脈を総動員して、道具の収集に東奔西走した。建築関係の友人を頼って貸与のお願いをするとともに、工具を扱うメーカーに次々と相談メールやファックス、電話をかけていった。
これまでの経験で言えることだが、プロジェクトの立ち上げは、必死にそれを願えばどのような形にせよ可能であろう。しかし、運営ともなると、きっとボラン ティアだけでは長続きしない。震災の復興には長い時間がかかる。無償で行う支援というのは、提供する側の負担が増えることで、間もなく息切れしてしまう。 継続していくためには”仕事”、あるいは”自立”としての仕組みが必要である。
その第一歩として重要なことは、製品のクオリティを高水準に設定することだろう。被災地で造ったものとわかれば多少できが悪くても、もしかしたら売れるか もしれない。しかし、ずっとは続かない。一般の雑貨店やインテリアショップに置いてあったとしても、手に取ってもらえるものを造らなければならない。
私たちは、そう考えていた。
次の懸案事項は、アトリエの選定であった。言われれば当たり前なのだが、作業をするスペースがあればそれで済む問題ではなく、電気、水道、トイレが完備され、ある程度の防寒と防暑を維持できる空調が必要で、騒音対策も欠かせなかった。
これに関して一次的に活躍してくれたのが、在宅診療科の原澤慶太郎医師であった。市会議員の但野謙介さんに話しを通してもらい、市でも場所を探してもらった。
最終的には、民間による株式会社『トラストワン』という、店舗内装などのディスプレイ業を営む工場の一角を間借りすることが決定した。代表取締役の森雄太 さんと飲み屋で話しをさせてもらったが、「うちの工場を自由に使っていいですよ」と、酔った勢いとはいえ、もうまったく一切の不安のない計らいであった。
やがて、大工道具に関しては、東京から当院に支援に来ている看護師の太田久土さんと、元衆議院議員の玉木朝子さんとから、中古品を譲り受けることができ た。『学研』からはDIYに関するガイド本を、株式会社『ゼット販売』と『土牛産業』、『小山金属工業所』からも新品の金槌、ノコギリ、バール、カンナ、 ノミを、『日立工機』から電動工具を供与された。
人員、工具、場所に一定の目処がついた。これまではツール的なものに目が向いていたが、「では何を作って、用途はどうしたものか」という、単純にして根本的な問題が残されていた。
世の中、回るときは回るものである。障害者の就労支援をしているNPO法人『ほっと悠』が、これまた、いい話を持ってきた。われわれのプロジェクトの噂を 聞きつけた理事長の村田純子さんが、「うちが小高区役所から頼まれていることなのだけれど、先生たちそういう活動をするなら、買い上げるから造ってよ」 と、いきなり注文が舞い込んだ。
昨年の4月に警戒区域を解かれたものの、まったく復興の見通しの立たないのが、南相馬市小高区である。現在この区役所では、業務再開には至っていないもの の、市の職員がここを拠点に作業を進めている。頑張っている職員たちの憩いの場として、区役所内にカフェテラスのような空間を準備したいとの願いがあっ た。つまり、テーブルとチェアーとが急遽必要となったのである。
私たちの計画は、「走る前から販売として成立する」という、願ってもない条件に格上げされた。すべてのメンバーの士気が、一気に上昇した瞬間であった。
機は熟した。
残る作業は実際の参加者の募集である。これは、もう人海戦術を繰り返した。社会福祉協議会の協力による各世帯へのビラ配り、私がパーソナリティーを務める『南相馬ひばりエフエム』を通じての告知、広報誌を用いてのアナウンス、Facebookによる拡散作業を行った。
それぞれの支援者のところへ何度も足を運び、打ち合わせを重ねた。そして、正月返上で準備したTeam HOHPによる”男の木工”が、1月の第3日曜日、雪の止んだ快晴の午後、第1回目が開催された。”HOHP娘”として、当院でもっとも愛らしい医師事務 補助の荒友美さんを携えて。
参加者は2人だった……。まあ、最初はこんなものだろう。
私は、”便利化”について考えた。生活も仕事も便利になったことで、考えずにできる物事が増えた。それは、マニュアル化の進んだひとつの弊害であろう。予 め用意されたガイドに則れば、個人の能力にそれほど依存せずとも、誰でも一定の業務を遂行できる。すなわち、「代替可能な仕事が増えた」ということであ る。医療も、きっとそうである。私たちは与えられた場所で、与えられた仕事をこなし、与えられた結果を出すことを求められてきた。
ここでの取り組みは、そんな単純なものではなかった。プロジェクトを立ち上げるということは、それほど容易なことではなかった。ましてや、軌道に乗せ持続させるには、さらなる工夫と協力と知恵とが必要であろう。
用意されたことではなく、新たなシステムを構築していくことの醍醐味とは一体何だろう。
ふつふつと沸き上がる高い希求と、理由はどうあれ一度始めた新しい挙動とを、豊かとは言わないまでも己の才覚を頼りに時間をかけて、ゆっくりと自分の創作 システムとして足元から築き上げ、さらに掘り下げ、発展させていく。そういうことを無理せず、しかし、粘り強く繰り返していく、そんな”知的・好奇的継続 作業”である。――そして、翌週の参加者は4人に増えた。
私たちは、ひとつひとつの課題を乗り越えていくような、そんな可能性のある活動に参画している気がする。
こういう一連の作業というのはとても創造的で、挑戦的なことである。少なくとも私にとっては、とても刺激的なことだ。最初にあった自分の考えを整理し、そ こに新たな何かを導入し、試み、工夫し、更新して学ぶことができる。そういうことを何度も続けていくと、自分という人間の思考や世の中の仕組みや、延いて は自分の存在そのものが、いかに一時的なものであり、過渡的なものであるということがよくわかる。
私たちは、さまざまな協力者や市民のことを考えながら、このプロジェクトを続けていくつもりである。世の中というのは、きっとそういうものなのだろう。そ の行動の向こう側にいる人物の姿がきちんと見えていれば、大抵のことは頑張れるし、愉しい。逆に、まずまず上手くいっていたとしても、人の姿が見えなけれ ば、やる気は失せるし、居心地も悪い。
私たちのプロジェクトを裏で支えてくれた人たちのために、そして、何よりもこの街に住む”元気をなくした男たち”のために、来週もまた工場へ行く。