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Vol.69 日本の胃がん予防の「失われた10年」

医療ガバナンス学会 (2013年3月15日 06:00)


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ピロリ菌感染胃炎の保険適用がようやく決定

※このコラムはグローバルメディア日本ビジネスプレス(JBpress)に掲載されたものを転載したものです。

http://jbpress.ismedia.jp/

武蔵浦和メディカルセンター
ただともひろ胃腸科肛門科
多田 智裕
2013年3月15日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp


厚生労働省は2月22日 ヘリコバクターピロリ感染胃炎に対するピロリ菌除菌療法を健康保険診療で行うことを認可しました。
ピロリ菌は1994年に、世界保健機関(WHO)によって胃がんの確実発癌因子として認定されました。強力な発がん性で知られるアスベストと同じ最高の危険性を示す「グループ1」として認定されています。
胃の中に住みつくこの細菌は、胃がんだけでなく、その前段階として慢性胃炎および胃潰瘍や十二指腸潰瘍を引き起こします。2000年から日本においても、「胃潰瘍、十二指腸潰瘍を発症した人に限り」健康保険でのピロリ菌の感染診断および治療が認可されていました。
今回は胃潰瘍、十二指腸潰瘍のみならず、慢性胃炎にまでピロリ菌治療の保険適応が拡大されました。
これにより、アメリカと比べて発症率が10倍も多く、年間10万人以上が発症する、日本のがんの罹患率第1位である胃がんの大幅な減少が見込まれ ます。ピロリ菌は胃がんの原因の9割を占めるとされています。ピロリ菌治療適応の大幅拡大により、胃がんの発症数が4分の1程度にまで減少するという試算 もあるくらいです。
これを受けてメディアは、「胃がん予防が進む」「胃がん予防元年」といった趣旨の報道をしています。
もちろん、この決定に至るまでに各分野の方々の並々ならぬ努力があったことは、痛いくらい分かります。しかし、臨床現場で胃がんの方々を診療する私としては、この決定はあまりにも遅かったと感じざるを得ません。日本には「胃がん予防の失われた10年」があったのです。

●胃炎の段階でのピロリ菌除菌治療はほぼ不可能だった
日本ではこれまでの10年あまり、胃潰瘍および十二指腸潰瘍にしかピロリ菌の除菌治療が認められていなかったと述べました。
これは現場の医師にとっては、出血や粘液の付着を伴うような強い胃炎でピロリ菌が強く疑われる場合でも、潰瘍や胃がんに進行するまで治療ができなかった、ということを意味します。
もちろん、保険適応外ということで全額自費で、胃炎の段階でピロリ菌治療を行うことことは可能でした。
しかし、混合診療(保険診療と自費診療を組み合わせて行うこと)が厳しく制限されている日本においては、自費でピロリ菌治療を行う場合には、保険診療のカルテとは全く別の新しいカルテを作成しなければなりません。
また、ピロリ菌の治療を行う日に他の保険診療の薬を処方することも、保険診療の診察を行うこともできません。患者さん側からすると、ピロリ菌治療のためだけに、別の日に改めて通院する必要がある上、費用も全額自費で1万8000円ほどかかります。
これらの事情から、自費でのピロリ菌治療はほとんどの病院で事実上不可能でした。
診療所レベルでは、胃潰瘍がない場合に”胃潰瘍瘢痕”(胃潰瘍にかかったような傷跡)を内視鏡で確認して、保険診療を行っていた施設もあったとは思います。しかし、これも厳密には保険医剥奪のリスクを伴う行為でした。
このように、「10年余りの間、ピロリ菌除菌の必要性は認識されながらも、治療がほぼ不可能であった」ということです。

●医療費削減政策がピロリ菌の除菌治療を封じ込めた
それよりも私がもっと問題だと思うことがあります。
胃炎の段階でのピロリ菌の除菌がこれまで10年以上にわたり認められなかったのは、決して医学的な理由からではありません。主として”医療費”という経済的な問題であり、そのことが一般の方にほとんど知らされていなかったことが問題なのです。
ピロリ菌が発ガン危険因子であることに議論の余地はありません。しかし、「ピロリ菌を除菌することにより胃がんの発生率が下がるというエビデンス(証拠)がない」という理由で、胃炎への保険適応は見送られていました。
でも、ピロリ菌退治により胃がんの発生率が下がることを証明するためには、ピロリ菌の退治を禁じた集団を作成して胃がんの発生率をカウントし、ピ ロリ菌を退治した集団と胃がん発生率を比較しなければなりません。しかし、現実問題としてそのような研究データを収集するのは、倫理上まず無理です。
では、”医療費”の面から保険適応が見送られた理由を考えてみましょう。
2000年の胃潰瘍、十二指腸潰瘍の保険適応の際の医療費増加額は約300億円とされていました。もし、2000年の時点で胃炎にまで適応を拡大していたらとすると、おそらく医療費の増加額はそのおよそ40~50倍の1兆円を超える金額となっていたでしょう。
日本では当時、医療費削減政策が強力に推進されていました。いくら日本のがんの中で胃がんが第1位とはいえ、それほどの金額を予算として確保することは、誰が担当者でも難しかったでしょう。
このような状況の中、「必要性のある医療は全て保険診療として収載する」という建前のもと、逆に「保険適応になっていないのだから有用性が確立していない治療なのだ」と誤解され、「ピロリ菌治療は受けると害がある」などと説明されることもあったのです。
例えば「ピロリ菌除菌治療薬による副作用が多い」などと説明されることがありました。確かに蕁麻疹や下痢を起こすことは時にはあります。けれども重症化することはなく、服用中止でほぼ全例において症状は消失します。
また、「ピロリ菌を除菌してもまたすぐに再感染するから意味がない」という説明もありました。しかし、現在の日本のように上下水道が完備された衛生環境のもとでは、再感染率は2%以下とされています。

●失われた10年を繰り返さないために
ようやく日本で、慢性胃炎の段階でのピロリ菌除菌が可能になりました。時間はかかりましたが良い方向に変わってきたことは、素直に評価したいと思います。
それでも、幼少期に感染したピロリ菌が胃がんの確実発癌因子であるのであれば、今回の「胃内視鏡を受けて胃炎がある人」に対してのみ治療を行うの では、胃がん対策として万全ではありません。18歳から20歳の時点で、一度ピロリ菌の有無の検査が受けられようにする施策が、一番有効な策のはずです。
今回の決定で、今年が「胃がん予防元年」となることは間違いないでしょう。でも、そこに至るまでに「失われた10年」があったことをきちんと振り返って、さらに良い方向に変わることを切に願います。

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