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Vol.105  支援者に求められる禁欲についての一考察

医療ガバナンス学会 (2013年4月30日 06:00)


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雲雀ヶ丘病院
堀 有伸
2013年4月30日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp


なぜ、被災地で活動する支援者たちの一部は地元の方々から疎まれてしまうのだろうか。

「支援者」は無意識のうちに、被災者の心の中に自分の美しい姿が映し出されていることを望んでしまうことがある。この甘美な瞬間に慰められる支援者の数は少なくはない。そしてこれは、支援者に与えられる正当な報酬である。
しかし私たちが相手のために良かれと思って行ったことであっても、相手の心の中に感謝や賞賛ではなく、戸惑いや不満、さらには拒絶を見出すことがある。
この事実がもたらす欲求不満に耐えることは、時にとても難しい。
これは、その支援者のナルシシズム(自己愛)のありようが問われる瞬間である。

福島第一原子力発電所の事故と、その後に必ずしも適切とは言い難い対応が行われたこと、その問題の多くが2年の時を経ても未解決なままにとどまっているこ とは、日本人のナルシシズムを大きく傷つける出来事である。私たちのナルシシズムの未成熟な部分は、この問題をなかったことかのように扱うことを望むだろ う。今までの歴史の失敗を振り返ることを避けてきたことと同じように。しかしその傷跡は間違いなく開いたまま残されており、世界中の注目を今でも集めてい る。これを「見ない」で済ますことは不可能である。つまり、今回の原子力発電所の事故という出来事は、日本人のナルシシズムの変容のための特権的な出来事 となる可能性がある。

独自の「文学」観から日本の通史を紐解いた加藤周一は、『古今集』の撰者にして代表的な歌人である紀貫之について説明する中で「思うに『日本的な自然愛』 には注意をする必要がある」と述べている。「彼が春・秋の歌のなかでうたった花は、おどろくなかれ、六種類しかない(さくら、梅、山吹、おみなえし、ふじ ばかま、菊)。小鳥に到っては、二種類(うぐいすとほととぎす)。貫之が花を愛し、小鳥を愛していたとは考えにくい。彼は何を愛していたのだろうか。」と いうのが、加藤の指摘である。
この問いに対する私の答えは、辛辣すぎるかもしれないが、次のようなものである。紀貫之が欲望していたことの一部は、「歌人の仲間たちの間で、自然を深く知り愛する人だと認められること」であった。
同書の別のところで加藤は次のような指摘も行っている。「日本文学史の社会学的特徴は、作家がその属する集団によく組み込まれていたということであり、そ の集団が外部に対しては閉鎖的な傾向をもっていたということである」「社会に、その社会が小さくても、大きくても、よく組みこまれた作家は、その社会の価 値の体系を、批判することはできないし、批判を通じて超越することはできない。しかし与えられた価値を前提としながら、感覚をとぎすまし、表現を洗練する ことはできる」
つまり、紀貫之が真に欲望していたのは、本来の花そのものや鳥そのものではなく、自らが組み込まれている閉鎖的な歌人の集団の中で、自らの美意識と表現を高めることで、「自然を愛する人」「花や鳥を愛する人」と見なされることであった。

「ナルシシズム」という言葉は、自らの美貌に見とれて身を滅ぼしたナルキッソスという美少年の逸話に由来するという。人は他人のまなざしの中に自らの姿が 映し出されていることを見出す。日本人という閉鎖的な集団の中で、「日本」と強く結びついた価値を重んじる人物であると他者からみなされることへの欲望を 涵養する形で、私たちの文化や社会は営まれてきた。ここで重んじられる内容は、その時代によって節操がないほどに入れ替わってきた。そして往々にして、そ の内容が指し示す対象そのものよりも、集団の中で共有されている、その時代が崇拝する内容のイメージに一致することの方が優先されるという倒錯的な逆転も 起きてしまう。ある意味でその内容は、常に空虚なのである。この構造を私は「日本的ナルシシズム」と呼びたい。

しばしば、日本社会が重んじるべき「内容」が何であるべきかについての議論が熱心に行われる。しかし、その「内容」が何であるのかは実は問題ではない。ど のような「内容」であっても、その内容よりも「集団の中で共有されているその内容についてのイメージ」を優先させてしまう、その精神構造が問題なのであ る。権力者が現場を美化することは、必ずしも現場の人間を守らない。現実とは、常に出会い損なってしまう。

「被災地支援」についても、同じことが起こり得る。
「被災地」そのものよりも、自分が属する閉鎖的な所属集団の中で「被災地のために苦悩して献身する人物」とみなされることの方が重要になってしまうような 精神性が生じ得るのである。その精神性はどのような活動を行うのだろうか。自分たちの中だけで共有されている「被災者」のイメージから構築した活動を、現 地で押し付けることになるのではないだろうか。「被災地」そのものよりも、自分の所属している集団の中で「被災地のためにこれだけ貢献した」と主張するこ とに熱心になる人も現れ得るだろう。

しかし私は、必ずしもこの過程を否定はしない。むしろ、私たちが他者と出会おうとする時に不可避の出来事であると考えている。問題は、その次である。
ナルシシズムの発達が未熟な精神は他者からの拒絶に耐える力が弱い。そのような拒絶があったことそのものを否認するのが最も低質な現実の否認であり、その 次に水準が低いのは対象に悪を投影して怒りを向けて攻撃することである。現実よりも、自分が理想としている現実についてのイメージを守ることの方が重要な のだ。

それでも敢えて言うのならば、それも他者と出会うためには避けることができない葛藤に満ちた事態である。問題は、その痛みに耐えて、踏みとどまって「他者」と「現実」とに関わり続けることができるのかということである。

関わりが継続する中で、単一に見えた他者の持つ多様性や複雑さを見られるようになってくる。そして、一方的に自分が「世話をする」のでも「世話をされる」のでもなく、ある領域では相手に依存し、他の領域では自分が相手のために献身するような複雑な関係性が育まれてくる。
これがナルシシズムの成熟であり、私たちが現実と関わる力を強めてくれるのである。

ここを越えてようやく、私たちは問題解決への希望を見出せるのだろう。

<参考文献>
加藤周一:日本文学史序説 上・下.筑摩書房,東京,1999
堀有伸:うつ病と日本的ナルシシズムについて.臨床精神病理,32:95‐117,2011

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