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Vol.132 躁的防衛(manic defense)の概念とその両義性について、およびその被災地における心理状況の理解への応用について

医療ガバナンス学会 (2013年5月31日 06:00)


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躁的防衛(manic defense)の概念とその両義性について、およびその被災地における心理状況の理解への応用について

雲雀ヶ丘病院
堀 有伸
2013年5月31日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp


「躁的防衛」は、専門家以外には馴染みのない用語であると思う。力動的な心理学では、人間はみずからの心の安定を保つために、抑圧や否認などのさまざまな 心理的な防衛機制を用いると考える。「躁的防衛」は、精神分析家のM.クラインによって記述された防衛機制の一つで、幼児的・万能的な心性が関与してい る。

平成23年の原子力発電所の事故では、私たち日本の国土の多くが汚染された。豊かだった動植物の生態系にも甚大な影響があった。その近辺で暮らしていた、たくさんの人々の生活も破壊されてしまった。
原子力発電のもたらす生活の豊かさを享受し続けたいという貪欲さが、激しく国土と海洋を汚したのであるが、この事実に向かい合うことは強い心理的な苦痛をひき起こす。
そこで、心理的な防衛機制が作動する。今回の事故後に、もっとも頻繁に出現しているように思われるのが「躁的防衛」である。本当の悲しみや罪悪感と、それがもたらす抑うつを体験することは、往々にして妨げられる。

「躁的防衛」においては、自分が傷つけた対象、喪失した対象が、価値の無いものと見なされる。「下らない対象」であるから、それを傷つけたことや失ったこ とを、苦しむ必要はないと考えることができる。震災後に一部に認められた福島の人々への差別や風評被害には、この心性の関与が疑われる。
事故で起きた被害を、小さいものであると感じることができれば、再発予防のための安全対策や事故の責任の追及などをあいまいにしたまま、原子力発電所の運転再開の決断も容易に行えるであろう。
「震災からの復興」を急ぐ傾向の中にも、この喪失の事実に向き合うことを避けたい心理が影響を与えている。ある被災者は、震災後の社会の対応について、 「処理をされているように感じる」と語っていた。自分にも相手にも豊かな内面生活があるという事実は否認され、事故の処理が外面的に進むことがただひたす らに急がれるような印象を、事故後の一連の経過のなかで感じることがある。福島第一原子力発電所事故の「収束宣言」や警戒区域の解除が、それらの事態に巻 き込まれている人々の内面への影響を考慮しつつ行われたと判断することは困難である。
躁的防衛の一種に、「躁的償い」と呼ばれる空想や活動がある。あくまで空想のなかで、自分が対象を癒す力が万能的に働き、自分の償いの行為が早急に完璧に 達成されたと考えることで、自分が対象を傷つけたことや失ったことの苦しみを体験することを、早く終わらせようとする心理状態である。「躁的防衛」では、 無意識的な空想のなかで、対象に対して「征服感」「勝利感」「軽蔑」の3種類の感情が働いているとされている。

私はこれまで、安全で豊かな(少なくとも物質的には)場所に暮らしている人々が、「躁的防衛」を用いて被災地の問題に真剣に向かい合わないことに対して は、厳しい態度を示してきた。しかし一方で、生活の再建も不十分な状況にあり、痛烈な喪失を体験した被災地の人々については、この「躁的防衛」の持つ積極 的な側面が十分に評価され、それが支えられるべきであるという意見を持っている。
「こころのケア」などというものが、現地の人々に見下されることは、そのような状況では適切なことであるとすら思える。内面の世界にひきこもるよりも、現実的な外側の活動に関わるようにうながされるのは、現実の困難が大きい状況では必要なことであろう。

震災後、二年が経過した現在の状況で、被災地に生活する人々がこの「躁的防衛」を多用しているとするのならば、その事態をどのように評価するべきであろう か。「躁的防衛」の使用が長期化した場合には、それが「考える」能力を制限してしまうという深刻な精神機能への影響が存在する。そこでは、不快をもたらす 事実の過小評価のような重大な現実の歪曲が行われているのである。そこからさらに、何らかの活動に没頭して、疲弊から体調を崩すような事態が起きることが ある。個人の健康や生活は省みる価値のないものとなっている。
それでも私は、そのようにして人々が直面することが避けている内容が、深刻な喪失であったり、震災のトラウマの体験であったりするのならば、その「防衛」は尊重されて守られるべきであると考える。

「防衛」によって向き合うことが避けられている事実が、集団からの個人の分離という内容である可能性もある。分離は、時に強い不安をひき起こす。
今回のような広範囲での放射能汚染が起きた後の状況では、「低線量被爆の長期的影響についての評価」という、権威による正解が事前には与えられない問題に 対して、それぞれの個人が自分で考えることを求められる場面が多数出現している。そのことの心理的な重圧に耐えかねて、さまざまな病理的な退行現象が現れ ることがある。放射能をめぐるさまざまな議論が行われているが、「適切に考えられるようになる」ことよりも、「自分と同じ意見の仲間を増やす」ことを目的 にしてしまっている言説を眼にすることは、残念ながら珍しいことではない。
平成23年の原子力発電所の事故とその後の一連の経過では、日本社会の集団主義的な傾向の弱点が露呈した。そのことを踏まえるのならば、国内の諸機関の独 立性の確認や健全な相互監視の機会が強めるための議論が必要であろう。しかし現状ではそれとは逆の、「全体への合致」を求めるような風潮が強まっていると 考えられる。このような「全体への一体感」を求めることで万能感を抱いて不安を否認する現象を、私は「日本的ナルシシズム」と呼んで病理的なものであると 論じてきた。それは真の「日本的な誇り」とは異なるものである。抑うつを感じることを避けて、好景気による気分の躁的な高揚を求めることだけで、私たちの 心は救われるのだろうか。
このような「躁的防衛」については、私は必ずしも肯定的に考えることができない。

クライン派では「躁的防衛」からさらに進んで、「自己愛構造体」や「病理構造体」という概念が用いられることがある。自己愛的な対象関係が、心のなかで恒 久的に組織化されてしまう現象である。個人の心の中は分裂してしまっている。ここでは、心の中に出現した万能的にふるまう自己愛構造体が、心の他の部分で ある不安に苦しむ健康な人格部分に、即座の倒錯的な満足と脅しを与えることで、自己愛構造体が人格全体を巻き込んでいくような事態が起きてしまっている。 日本社会はある側面において、一人一人の個人の内面や、集団の目的などの内容を問うことなく、「ただ結びつくことだけ」を強力に求める心的かつ社会的な構 造があり、これはこのような「自己愛構造体」や「病理構造体」の性質を帯びることがある。例えば、かつて福島県知事だった佐藤栄佐久は、その原子力発電に ついての書物のなかの一章を「『日本病』と原発政策」と名づけ、「責任者の顔が見えず、誰も責任を取らない日本型社会の中で、お互いの顔を見合わせなが ら、レミングのように破局に向かって全力で走っていく、という決意でも固めているように私には見える。大義も勝ち目もない戦争で、最後の破局、そして敗戦 を私たち日本人が迎えてからまだ七〇年たっていない。これこそが、『日本病』なのだと思う」と述べた。
精神分析家の土居はかつて、「人間は弱さや恐怖を感ずるよりも、むしろ、自分は悪いが強いんだと感ずるほうを好む」と論じた。「自己愛構造体」への心理的 な融合が生じている場合には、その代償として個人の独立は極めて困難となってしまう。不安と向き合う自我の機能が個人として育っていないために、現実に目 を向ける苦痛に耐えることができない。そこで、社会や所属集団との心理的な同一化を果たすことで、その不安から免れることが求められるが、ここには嗜癖的 とも呼べるような依存性が働いている。この「日本的ナルシシズム」の構造に同一化した部分が、他の人格全体を絶え間なく見張り、それに恫喝を与え続けるこ とで行動へと駆り立て、このことが強力な実行力を発揮させる。そして、日本社会と自分がそこで占めている位置に満足をしている場合には、社会と同一化した 価値を獲得することによる短期的な満足は与えられるが、これによる慰めは長く続くものではなく、常に次の刺激を追い求めることとなってしまう。
一部の慢性化したうつ病者や、自殺を試みる者の心理構造は、次のようになっている。社会が個人にもたらす欲求不満が強いために、もはやそれに同一化を続け ることは困難となっている。しかし、健全な自我が育つだけの心理的な援助は与えられない。社会に向けた敵意は、自分の心の中の社会と同一化した部分に反映 されてしまう。今度は、自分の心の中の社会と同一化した部分が、自分が社会に向けた敵意の報復を、自分に対して行うようになる。もはや「自己愛構造体」と の円満な一致は不可能になっているにも関わらず、そこへの倒錯的な依存を脱却することもできない。自分の心の中に、常に軽蔑や支配をめぐる葛藤が刺激され る状況となる。

ここまでが、私が平成24年の4月に被災地に実際に来るまでに考えていたこととその延長である。しかし、現実に福島県南相馬市に引っ越してから後に経験したことのために、私の心に変化が生じたことを、今は感じている。
私は自分の受けてきたトレーニングの経緯などから、「躁的防衛」とみなされる現象に過度に厳しい視線を向けてきた。その「全体への一体感を求めること」や 「内面を軽んじて活動に没頭すること」の否定的な面ばかりを強調して考えていたのかもしれない。今ではそのような自分のことを反省している。
私は被災地に来て、それまでは「躁的防衛」としか理解できなかった活発な行動への没頭が、多くの人を巻き込みつつ成果を挙げて、その活動の当事者と周囲の 人々に、豊かな時間をもたらしていることを何回も体験したのである。そして、放射能の問題についても、安易な反応をしてしまう人々がいる一方で、よく学 び、計測し、記録し、その上で考える健全な自我の機能を十二分に発揮しているような個人も、現地には多数出現している。

安易な集団迎合を諒とはできない。しかし、一見そのように見える状況のなかでも、経験を通じて個人は鍛えられる。ゆっくりと間接的にかもしれないが、自ら の喪失の悲しみや罪悪感に耐え、ひき起こしてしまった損害に償いの思いを向け、個人として考える力を強めていくことは可能であろう。痛みをもたらす現実に 向かい合う力が強まり、躁的防衛に代わって真の償いをなす力が育つのは、時間のかかるプロセスである。そのような心理的な達成を果たして独立した一人一人 の個人が尊重されつつ、強く全体として結びついた日本という社会が、将来において取り戻されることを夢見ていることを告白して、この文章を終わりたいと思 う。

<参考文献>
土居健郎::うつ病の精神力学.精神医学,8;978-981,1966
R.D.Hinshelwood(著)、福本修他(訳):クリニカル・クライン,誠信書房,東京,1999
堀有伸:うつ病と日本的ナルシシズムについて.臨床精神病理,32:95‐117,2011
堀有伸:現代うつの語りを聞くこと.ナラティブとケア,3:14-21,2012
佐藤栄佐久:福島原発の真実.平凡社,東京,2011
H.Segal(著)、岩崎徹也(訳):メラニー・クライン入門 ,岩崎学術出版,東京,2000

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