医療ガバナンス学会 (2013年7月2日 06:00)
最近の土曜日でしたが、老健施設からの入院依頼を断らざるを得ませんでした。協力病院の渡辺病院が、まだ新地に新病院が完成しないので入院を受け入れてい ないのが一番の原因ですが、小野田病院も土曜の診療を止めてしまい、土曜の診療をやっている本院などに患者が集中してきているのも一因かと思われます。家 族を東京や仙台に置いて単身赴任で病院に勤めている先生が多い市立病院や小野田病院が土日の救急から後退せざるを得ないのも分からないわけではありません が、患者の譲り合いは避けなければなりません。(その患者さんは入院せずに良くなったようです)
群馬県からの患者さんの帰還はまだ続いています。病棟でノロウイルスが蔓延した時やゴールデンウイークは休みましたが、ほぼ毎週日曜日に迎えに行き、今まで12名を戻しました。
1名はこちらに来て約2ヶ月で亡くなりました。96歳と高齢であったため、2番目に戻した方で、転院当初は食欲もあったのですが、食欲が無くなってきたた め、CT写真を撮ったら多発性の肝転移と分かりました。平成14年に大腸癌の手術を受けており、その転移と思われ、(点滴確保が難しいのでCVは入れまし たが)何もせず、療養型病床で亡くなりました。異郷ではなく子供たちに見守られての最期は本人にとっても幸せだったのではないかと思っています。
帰還を果たせずに亡くなった方も2名います。もっと早く戻して上げれば良かったかと思う反面、移動がもとで亡くなったと言われなくて良かったと思う一面もあります。
今となっては震災関連死の指定も受けられず、亡くなったのは年のせいと諦めざるを得ないのでしょうか。
昨日も前橋市にある老人保健施設陽光苑から1人の患者さんをお連れしました。この方は脳出血後遺症で右片麻痺となり、在宅医療を受けられていましたが、津 波で自宅が流され、3月14日に家族が避難所から自車で連れて来られた方でした。同じ日の11時に3号機が爆発し、退院できそうな患者さんは家族に迎えに 来てもらい退院させ始めた頃でしたが、この患者さんは入院を受け入れました。しかし、翌15日の屋内退避命令、職員減少の流れで、止むなく群馬県にバスで 移送(3月19日)、前橋脳神経外科病院に約1ヶ月入院後、陽光苑に移られ(4月25日)、本日まで元気でいることができました。
我々の要請で退院(3月15日)、家族が自車で別な病院を探そうとして、移動途中に脳梗塞再発し、福島市の病院に入院後、南相馬の自宅に戻り、在宅医療のまま亡くなった方もいます。この方の家族はこの度東京電力を相手取り、訴訟を起こされました。
確かに5.7m以上の大津波は来ないと津波対策を疎かにし、起こっていた僅かな放射能漏れの事実を隠し続けた結果、爆発事故を起こした東京電力の責任は重いと思われます。
それ以上に、事故後に大野病院や双葉厚生病院には50人乗りの自衛隊ヘリを派遣しながら双葉病院や20~30km圏内の病院にはバスや自衛隊護送車(床に 近い患者は火あぶりだった)しか派遣しなかった国や、福島県内の病院に1人ずつ受け入れを要請していた福島県災害対策本部の無策さは仕方がなかったでは済 まされない問題だと思います。
表題の『救えた命』は2012年1月22日放送、映像’12『救える命』をもじったものです。
毎日放送の番組で、関西地方でしか報道されなかった番組ですが、番組で本院の搬送の様子を取り上げてくれた上田耕蔵先生の著書『東日本大震災、医療と介護 に何が起こったのかー震災関連死を減らすために』にもその一部が取り上げられています。同じような悲劇を繰り返さないために、是非ご一読下さい。