世界保健機関(WHO)は6月11日に豚インフルエンザの警戒レベルを「世界的大流行」
のフェーズ6にレベルアップしました。このニュースは主要紙の一面に翌日掲載されま
したが、ワイドショウをはじめとして今までかなりの勢いでインフルエンザ報道をし
ていた各局テレビ番組では、この件にそれほど多くの時間を割くことはなかったよう
に思われます。食品偽装問題や、閣僚の不祥事、日本人選手の世界レベルでの活躍や
芸能人のスキャンダルなど、大衆向け番組のトップニュースはまさに日替わり。そし
て、それらの「ニュース」はある一定期間騒ぎたてられた挙げ句に、ものの数日間で
すっかり忘れ去られたように、新聞の番組欄からも視聴者の記憶の中からも消えてゆ
きます。しかしこれらの「使い捨ての情報」が後々大きな問題を残してしまうのだと
いう危険性を、果たして番組制作担当者はどれほど認識しているのでありましょう
か?
このような「使い捨て情報番組」では、いわゆるコメンテーターと称する人々が次々
に根拠のない「私見」を声高に発信します。今回のインフルエンザについても、医療
にどれだけお詳しいのかわかりませんが、作家やタレント、経済ジャーナリストや政
治評論家までもが、自らの「インフルエンザ論」をまことしやかに論じておられまし
た。医療ジャーナリストや感染症の専門家を名乗る医師らもゲストとして登場し、よ
り視聴者に説得力のある専門的立場から「私見」を発信するわけですが、これらの人々
も果たして本当に現場でインフルエンザ治療に関わったことがあるのか、疑問を抱か
ずにはいられない発言をされていました。これらの無責任な「使い捨て情報」が視聴
者の記憶のなかに残留することが、今後確実に到来が予測される秋以降の「第2波」で
パニックを引き起こすことに繋がるのではないかと私は強く危惧しています。
私が診療に携わっているクリニックは、年齢性別、診療科を問わず年中無休で夜
間9時まで診療している便利さから、毎日多くの患者さんが訪れます。特に冬のインフ
ルエンザシーズンになると、それこそ「発熱外来」の様相を呈し、ピーク時には一週
間に数百人ペースでの新規インフルエンザ患者の診断と治療を実際に行うことになり
ます。毎年このような状況で診療している私たちの間では、インフルエンザの早期診
断は非常に難しいという見解で一致しています。いわゆるインフルエンザ様症状を呈
していても、発症間もない場合は迅速検査をしても、まず陰性となります。しかし、
だからといって熱発から○時間経過していれば必ず陽転する、とも言い切れません。特
に今年は、熱発して二日目にやっと二度目の検査で陽性に出たケースも多くありまし
た。シーズン終盤に流行したB型では、発熱初日に陰性、翌日一旦自然解熱し来院され
ず、三日目に再度の熱発で再診され、そこで初めて陽性反応が出るという特徴があり
ました。逆に、ほとんど症状なく来院、体温も36度前半(解熱剤の服薬なし)で、患者
さん希望により念のため、渋々検査をしたところ陽性になった、というケースもあり
ます。つまり、インフルエンザの早期診断は、われわれのような「インフルエンザ治
療のエキスパート集団」の熟練した(?)診断能力をもってしても、かなり困難といえま
す。検査の不確実性は、現場で十分に説明していますが、おそらく多くのB型患者さん
は一旦解熱した二日目には学校や職場に出かけたと思われます。従って、「発熱した
らすぐ病院で検査を受けて確実に診断を」などと報道するのは流行拡大防止の観点か
らは大変危険であるということがわかります。すべての医療行為に共通のことですが、
この「医療の不確実性」についてひろく国民に周知する必要性があるでしょう。
もう一つ、インフルエンザ診療を通して流行拡大の危険性を感じるのは、危機的状
況から脱した(つまりタミフルが効いて解熱した)あとの患者さんの行動についてです。
多くの場合、タミフル、リレンザは著効するため、咳などの上気道炎症状は残るもの
の、数時間から二日くらいのうちに熱は下がります。すると熱の下がった患者さんた
ちは、多くの場合、「熱も下がったのにそんなに長期間休んでいられない」とすぐに
社会活動に復帰してしまうのです。子供たちの場合は、出席停止の措置がとられるの
で、大きな問題にならないようにも思われますが、それでも「熱が下がって元気にし
ているからすぐにでも登校させたい」という自己中心的な考え方の親御さんもかなり
いらっしゃいます。「熱は悪者、すぐに下げるべし。解熱すれば治癒」という発熱に
ついての誤った一般的な認識がこういった行動の根底にあるのでしょう。これらの意
識改革も重要です。そもそも、学校保健法による「解熱後二日を経過するまで登校停
止」という基準はタミフルなどの抗ウイルス剤が使用されることを前提とはしていな
いと思われます。抗ウイルス剤を使用すると、最短で発症してから三日目に登校許可
の基準をクリアしてしまう症例もあるのです。日本医事新報(6月6日号)の質疑応答欄
では、「インフルエンザの出席停止期間」について東大医科研の田村大輔先生が回答
者として執筆されておられますが、そこでは、抗ウイルス剤治療後のウイルス排泄の
可能性が指摘されており、解熱後患者さんの適切な行動についても、広く周知するこ
とが大切です。
人間は、不安や恐怖など身辺に危険が及ぶと、防衛反応からか、自己中心的になり
ます。映画「タワーリング・インフェルノ」ではわれ先に非常口に殺到するという群
衆の行動が、さらに一層の悲劇を生むということを表現していたと記憶していますが、
これは人間の本能であり、変えられない仕方のないものなのかもしれません。しかし、
インフルエンザ治療の現場に疎い素人さんたちが発信する「使い捨ての情報」を無責
任に垂れ流すことで不安と恐怖だけを煽れば、いっそう自己中心的な群衆を増やし、
さらに感染被害を広げてしまうのは自明です。番組制作には、視聴率増加などのいろ
いろな数値目標や、関係省庁や政府からの要請などがあり、われわれ医療現場の生の
意見がその意向に沿わない事情もあるのかもしれませんが、国民全体でインフルエン
ザ流行拡大に真剣に取り組まなくてはならない現状なのですから、今こそマスコミは
その影響力を存分に発揮し、実際にインフルエンザ治療に携わっている現場医師たち
が情報発信できる場を提供しなければならないのではないでしょうか。