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Vol.263 “在宅診療科ミーティング”への想い

医療ガバナンス学会 (2013年10月24日 06:00)


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南相馬市立総合病院・神経内科
小鷹 昌明
2013年10月24日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp


私がこの地に来て1年半が経過した。その間、さまざまな活動をさせてもらい、詳細を本メルマガで紹介し続けてきた。”診療”という医師の仕事から大きく逸 脱する内容も含まれていたであろうし、このメルマガには相応しくない記述もあったと思う。しかし、そうした活動がなぜ企画され、さらには実行できたのか を、いま一度述べておきたい。

それは、”放射線問題”や”高齢者の仮設住宅での孤立”、”被災による精神的ストレス”など、この地特有の問題が常に横たわり、市民の切迫した暮らしに対 して少しでも役に立ちたいという個人的な気持ちはもちろん根底にあったが、冷静に考えると――いや、考えるまでもなく確信を持って言えることは――、実は 何を隠そう”同僚の2人に恵まれた”ということが最大の理由である。震災前から当院に勤務していた根本剛医師と、私が赴任する半年前にこの地に入った原澤 慶太郎医師である。共に”在宅診療科”医師だ。
この2人の先輩医師がいなかったら、私は、きっと現在のスタンスでの私ではなかったと思うし、被災地支援という幅は、いまよりずっと少なかったであろう。 要するに、それはそれで別に普通のことなのだが、単なる勤務医として、バイト感覚で診療行為だけをしていたということである。

昨年の4月に私が勤務をはじめたちょうどその頃から、”在宅診療部のミーティング”が立ち上がった。
わかっていたことなのだが、私は神経難病を扱うことから、在宅医療とは切っても切れない立場にあった。そして、右も左もわからないマンパワーの不足するこ の地で、最初の壁にぶつかっていた。急性期治療が終わった後の患者や、筋力低下や運動失調が徐々に進んでいく患者に対して、自宅療養を促していくことに難 渋していたのである。
ここはやはり、「先輩たちと相談できるシステムが必要だろう」と、彼らのミーティングに参加させてもらうことにした。そして、それが活動のはじまりだった。
そこでは、私にとって未経験な領域の話しが交わされていた。それはつまり、被災地におけるこれからの地域医療を担うための議論が展開されていたのである。 在宅診療をどう充実させていくか、訪看さん(訪問看護ステーション)との連携をどう構築していくか、見守りのシステムをどう浸透させていくか、そして、地 域住民の安心と安全、さらには被災からの生きがいや雇用や立ち直りをどう支援していくかなど、まさに「”医療者”としてばかりでなく、”一般住民”として できることは何でもやろう」という雰囲気の感じられる集まりだった。
その先導役を務めていたのが原澤医師であり、彼のアイディアと、以前から勤務を重ねていた根本医師の経験とが融合され、それは実に意欲のそそられるミー ティングだった。当院の看護師、事務職員、ソーシャルワーカーを中心に、地元の行政職員や保健師、訪問看護師、歯科医師などの医療関係者、そして、根強く 活動しているNPOやボランティア団体代表などを招き入れ、意見をうかがうことによって、できるだけそうしたところからも問題を浮き彫りにするよう努めて いた。私のこれまでの職場での会議とは、明らかに一線を画するテーマであり、やり方であった。

その後の私の行動は、「毎週行われるこの小さな会議室で創られた」と言っても過言ではない。
このミーティングのなかで、往診システムも確立していったし、市民活動としての”HOHP”も誕生したし、”地域医療枠”での研修システムも築かれていっ た。(どんな業界でも、会議が楽しみということはあまりないと思うのだが)私自身はこのミーティングが毎週待ち遠しかったし、市立病院における地域医療の “心臓部”と言っても言い過ぎではないように思えた。

原澤医師は、心臓外科に見切りをつけて地域医療の世界に飛び込んだ新進気鋭の家庭医である。この病院で在宅診療科を立ち上げ、冬の間は仮設住宅を回ってイ ンフルエンザ・ワクチンを接種していた。オムロンとタイアップして、3G回線を用いた自動血圧計を仮設集会場に設置することで、モニタリングシステムを導 入した。ICチップの入ったカードを住民に持たせることで、新たな検診システムの導入を手掛けていた。
実のところ、彼がどのような仕事をして、何を残そうとしているのか、あまりに複雑、かつ巧妙で私はよくわかっていない。一緒にやった仕事はわかるが、やっていない仕事に関しては、そばで見ていても理解できない。ただ、そのマインドだけが伝わってくるだけである。
原澤医師に触発されて、見よう見まねで、私は私のやり方を築いていったような気がする。彼が行政や企業を相手とする立ち回りがうまいとしたら、私は、街の 工務店や商店など、もう少しローカルなところから協力を仰ぐ。彼が仮設住宅を中心に人海戦術を繰り返すとしたら、私はラジオ局から一気呵成を目指す。その ような”構えを変える”というか、”別のルートで同じ頂を目指す”というか、そういう棲み分けで活動を分担していった。そしてそれは、切磋琢磨というより は、意識の共有に根付いたものであり、お互いのこの街における想いだった。

一方、根本医師は、7年前からこの病院に勤務する、もと消化器外科医である。震災をきっかけにメスを下ろし、在宅診療科に転向した。
本人は何というかわからないが、私から見れば実に穏やかな臨床医である。おそらくは、私と原澤医師の活動の尻ぬぐいを、さまざまな局面で強いられてきたの ではないか。失礼を承知で言えば、私は彼がいるから勝手な行動を取れてきたように思う。そういう妙な安心感を与えてくれる。「だって根本先生が『いい』っ て言ったもん」というような。だから、おそらくは、いや絶対に、いろいろな知人に「小鷹先生、口は悪いけど根はいい人だから・・・」と言い回っていたので はないか。
そんななかでも、消化器外科としての経験を活かして、私の患者のすべての胃瘻造設や気管切開などを施してもらった。

私たち3人はチームとしてよく機能したと思う。
この1年の間にさまざまな事業を展開し、試行錯誤を繰り返してきた。間違いなく私たちには勢いがあり、ノっていた。誰からどう後ろ指を指されるかわからな いが、少なくともこの動きによって往診システムは順調に滑り出したし、いまだ志半ばではあるが、街の復興のきっかけ作りに貢献できた。さまざまな再建を目 指す人たちに、「こういうやり方もある」という影響を与えた。

思い出話なら私個人の日記帳にでも書きつければいいのだが、あえて、ここで何を伝えなければならないかというと、職場の成り立ちに関してである。
気持ちの良い職場にいれば、気持ちの良い仕事ができる。もっと言うなら、良い仕事は、良い環境からしか生まれない。組織の規模とか、社会的影響力は関係ない。当たり前のことかもしれないが、はたしてそういう職場がいくつあるだろうか(もちろん、いくつもあるとは思うが)。
自分の考えが発言できて、何をするにも前向きに支持されて(ときに行き過ぎを、注意されることもあるにはあるが)、ダメもとが許されて、失敗を反省として活かせる、そんな環境がここにはあった。
以前にも指摘したことだが、医師が、――もっと言うなら人間が――、より高いパフォーマンスを発揮するための原動力は、その行動が”楽しいか否か”にかかっている。
病院に限らないかもしれないが、仕事場などというところは、責任を引き受ける人がいて、「これまでやっていないのだから、やるだけでも価値があるじゃない か」と背中を押され、意識を共有できる仲間がいれば、どんな場所で何をやっても楽しい。逆に、無責任な人ばかりで、「やっても無駄じゃないの」という雰囲 気に流され、感じの悪い同僚に囲まれていれば、どれほどエグゼクティブで、リーディングで、ソフィスティケイトされた仕事をしていても、全然楽しくない。
ただ、勘違いしてはいけないことは、そういう職場なんてものは予め用意されているものではない。自分たちで創っていくものである。被災地には、こういう組織作りが必要なのである。

根本医師と原澤医師の2人によって、私はここまで導かれてきた。私に影響を与えた人物「ベスト5」に入る。
残念だが、今月を以てして原澤医師は以前の職場に戻る。どんなものにも終わりはある。栄枯盛衰、一定の役目を終えて、ひとつの”時代”というと大袈裟だ が、復興のきっかけを築いた在宅診療科ミーティングは終焉を迎えつつある。それはそれで、新たな時代の幕開けへとつながれていくであろう。導かれる方向 へ、私は、もう少しこの地で新たな希望を見出していくつもりである。

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