医療ガバナンス学会 (2013年11月19日 06:00)
ここに来る数年前から、私は何かにつけてエッセイの執筆を続けてきた。昨年の春に、この南相馬の市立病院に赴任してからもそれは変わらず、来た早々、「自 分のことだから、福島での”春夏秋冬”を経験したらまとめて本にします」と公言していた。だから、診療の傍ら気が付いたことを書き留め、それをインター ネットや雑誌に投稿することも日々の課題としてきたし、そのためのリサーチというか、取材のようなこともしてきた。
だから、「先生、忙しい合間によく文章書いていますよね」とか、「よほど本が好きなのですね」と言われることがままあるのだが、改めて考えてみて、私は本当に文章を書くのが好きなのだろうか?
略歴なんかにも(名刺にも)、”エッセイスト”と書いてあったり、「趣味は文筆」などと言ってはばからなかったりするので、そう思われても仕方のない部分 は確かにある。でも本当のことを言えば、「自分がものを書いているのだ」という強い自覚はほとんどなく、いや私はむしろ文筆というものをあまり好まないと 言ってもいいくらいなのだ。
その証拠に多くの場合、少し書き出すとすぐに「書いても意味がないかな」という気持ちになり、それが高じてくると書くことを投げ出したくなる。書きたいこ とが特別あるわけではなく、書いた内容にもすぐに飽きてしまう。本を出版したといっても、年に1冊というペースの物書きが、胸を張って「文章が生計の足し になっています」とは間違っても言えない。
では、ものを書くことがそれほど得意でない人間が、凝りもせずどうして文字を書き連ねているかというと、それはいささか逆説的なロジックになるのだが、結 局のところ私は「この街の出来事で、書きたいことを得るために書いている」ということになる。さらに別の要素からもっと言うなら、「書くという行為を通じ て自分を立ち上げ、自我を維持している」ということになる。
もし仮に、そういうような意義が”書く”以外から得られるなら(たとえば”座禅”とか、”音楽”とか、”彫刻”なんかでもいいのだが)、それはそれでそう いうものでも構わないのである。だから、「書く行為が好き」というのとは少し違って、「書く行為でしか自分を表現できないし、自分を見つめ直す方法を知ら ない」と言った方が、私の執筆の理由の事実を、より正確に伝えているような気がする。そして、「書くことで己を追い込み、そこから導き出される結論から新 たな自分を腑分けしている」ということである。
エッセイを書いていて、いつも思うのだが(というか、当たり前のことなのだが)、いったい自分の本がどの程度の人に読まれ、どのくらいの人に影響を与えているかということである。
それは、あらゆる芸術作品に共通することかもしれないが、文筆家が文章を書く理由は、自分の文章によっていくらかでも読者の人生を豊かとまではいかないにしても、何らかの示唆をもたらし、生きていくうえでのちょっとしたスパイスを与えられればいいと思っている。
そういう意味で、私は私のエッセイを読んだ人に”文章の良し悪し”ということもさることながら、「書くことによって私という人間が正気を保ち、人生を考察することで、いくらかでも暮らし振りを向上させている」ということに気がついてもらいたいということがある。
また、自分の気持ちを文字に落し込むことによって、いま自分は何を考えていて、どうしたいのかということを、とてもピュアな気持ちで追求することができ る。文章の中味の面白さや充実さも、書籍の価値としてはもちろん大切なのだが、「書くという行為が、私という人間形成には欠かせない要素となっている」と いうことを感じてもらいたいのである。随分都合のいいお願いだけど。
今回の私のエッセイに対して、出版元からは、――『医者になってどうする!』(中外医学社)から4年。大学病院准教授の職を辞し、南相馬市立総合病院に勤 務する著者が、福島での春夏秋冬を綴る。未だ事故収束への道筋すら見えない福島第一原子力発電所にもっとも近い病院で、診療に励む医師の目に映る風景。被 災地の人々とのかかわりの中で、熱い思いを抱いて彼(か)の地に赴いた医師の心中におこる変化。淡々と語られるそれらを通じて、未だ続く被災地の苦悩,そ こに生きる人々の息遣いを伝える。」――などと紹介されている。
正直を言えば、ちょっと照れくさい。
確かに私は、1人でも多くに震災からの立ち直りを熱望しているし、そうした人たちにできるだけの支援をしたいとは思っている。だが、そうした想いと、書く という行為とは必ずしも同一マインドで語れるものではない。変なことを言うようだが、行動したことが直接文章に反映されるわけではないし、文章が力強いか らといって活動に勢いがあるとも限らない(もちろん、だからといって嘘を書いたわけではないし、書いてきたことに対する強い思い入れはある)。
つまり何が言いたいかというと、できあがった書籍は、あくまで既成事実であって、意思の表明ではない。書くトーンと行動するトーンとは別物であり、活動は、言うならば市民のためであり、著作は市民というよりは県外に向けた一般読者のためである。
これまた、都合のいいことを言うようだが、つまり文章が面白くないからといって、活動が充実していないとは限らないし、逆に、文章が面白いからといって、行動が優れているとも限らないのである。当たり前だけど。
「じゃあ、なんで書くんだ?」ということに、再びなると思うのだが、今一度シンプルに答えるなら、「書いていた方が、おそらくは”偽善”とか”きれい事” とかいう態度が減り、その分”正直”な気持ちが生まれ、素直な活動(仕事も含めて)へと進むような気がする」ということである。
エッセイ執筆というのは、自己表現という意味では芸術のひとつとして捉えていいのかもしれない。しかし、他の芸術作品と比較して、表現の仕方が”文字”と いう媒体なので、他人への伝わり方は、どうしたってストレートなものになる。「私の言いたいことはこんな感じだけど、後は憶測してくれて構わないし、いか ようにでも解釈してくれ」という部分の極めて少ない表現方法である。そういう意味では絵画や音楽、写真や彫刻などよりは気を遣うし、内容によっては批判に も晒される。
現在のところ、この新刊において、被災地から批判を受けたことはないのだが、では何か大きな反響があったかといえば、そういうことも残念ながら今のところない。
ただ、献本させていただいた南相馬市の友人から、「小池簡易郵便局の待合に置かせていただいておりますが、売り物と勘違いされて窓口でお会計をしようとす るお客さんが相次いでいる」というような知らせを受けたり、「原発事故のレポートでこれほどのレポートは読んだことがない。強く、激しく人を賛歌してい る。これを読んでようやく原発事故がモノクロからカラーになった気がする」というようなことをつぶやかれたりもした。
それは、まあ嬉しいというより光栄なことである。
書き散らかしてきたエッセイをまとめて本にするという作業には、やはりメリットがあるようだ。文章を綴じ込むことによって、手に取り易くなり、まとまって 読んでくれる人が出てくる可能性がある。ネットだけの情報発信では高齢者の手には渡らない。ネットと書籍とでは、明らかに読者層が違うからである。
また、本を出すだけで、「文章を書ける人」という形で信頼されるなんていうメリットもあるし、「私はこんなことを考えている人間です。理解していただくのに2~3日を要するかもしれませんが」と、書籍を名刺代わりに差し出すこともできる(値段的にはだいぶ張るけど)。
なんだかんだ言いつつも、でもやはり、私はエッセイを書かないではいられないのだろう。「多くの人に福島の現状を知ってもらいたい」ということもさることながら、きっとそれが自分を支えるツールだからである。
来春あたりに、『原発に一番近い病院2』という本の発刊を、今から密かに狙っている。