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Vol.22 バルサルタン論文不正問題、結局のところ、日医の時代遅れの「医の倫理」の問題

医療ガバナンス学会 (2014年1月29日 06:00)


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バルサルタン論文不正問題、結局のところ、日医の時代遅れの「医の倫理」の問題

健保連大阪中央病院顧問
平岡 諦
2014年1月29日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp


バルサルタン問題に関する日本医学会の対応を、「極めて異例」(日経メディカル、11月7日)、「異例の厳しい対応」(毎日新聞、同)などとメディアは報 じています。なぜ、日本医学会はこのような対応をするのでしょうか。それは論文の主任研究者たちが、高久史麿・第6代日本医学会長の「顔に泥を塗った」か らでしょう。118の分科会を束ねる日本医学会は、「医学に関する科学および研究促進を図り、医学および医療の水準の向上に寄与する」ことを目的にする と、「会長挨拶」で述べておられます。しかし泥のついた顔では、これからは世界の医学者と対等に話ができなくなってしまいました。怒るのも当然です。
しかし待ってください。そもそもこの泥はどこから来たのでしょうか。それは「先の戦争」の時、日本医学会が行った731医学ではないでしょうか。731医 学を隠したい日本医学会が、日本医師会(日医)に時代遅れの「医の倫理」を作らせ、世界医師会(WMA)からはヘルシンキ宣言だけを受け入れて蓋をし、こ れまで何とか泥を隠してきたと言うことではないでしょうか。「臭いものには蓋」の対応と言うことでしょう。蓋の下の臭いものに気づかなかった、それほど鈍 感になった主任研究者たち(日本医学会の会員たち)が泥を撥ね、会長の逆鱗に触れたと言うことでしょう。しかし、日本医学会の会員を鈍感にしているのは WMAのジュネーブ宣言を受け入れていないからではないでしょうか。

高久会長は日本医学会の目的に沿うよう、いろいろな努力を行ってこられました。日本の医学界の顔として世界的にも行動されてきました。しかし、目的に反す る会員達の行動の結果、今後の努力、行動は空しいものになってしまいました。「ボツボツ引退か」とも考えられておられるかも知れません。しかし引退の前に 是非、行って頂きたいことがあります。それは「臭いものには蓋」の対応ではなく、日本医学会としての731医学の検証です。少なくとも検証への道筋をつけ て頂きたいのです。そして日医が時代遅れの「医の倫理」を変更できるようにして頂きたいのです。そうすれば第6代会長としての歴史的評価も変わってくるの ではないでしょうか。

「医師が『患者の人権を尊重する』のは時代遅れで世界の非常識;日本の医の倫理の欠点、その歴史的背景」、これは拙著(ロハス・メディカル、2013)の タイトルです。「患者の人権を尊重する」と謳っているのが日医の医の倫理です。日医は「患者の人権を擁護する」と言わずに、「患者の人権を尊重する(が、 時には第三者の意向を優先することもある)」という、含みを残した言いかたをしています(「医の倫理綱領」、「医師の職業倫理指針」、「日本医師会綱領」 ともに)。731医学を隠したい日本医学会の意向という「歴史的背景」があって、日医は含みを残した言い方しかできない、と言った方が妥当だろうと思いま す(拙著、参照)。
日本の医師を代表するのは日医です。「時には第三者の意向を優先することもある」という含みを残した医の倫理の下では、「患者第一」を考えずに、「第三 者の意向を優先させる(あるいは、黙認する)」医師ができてくるのも当然の結果でしょう。それがバルサルタン問題での主任研究者という医師たちです。「一 人」ではなく「複数」の主任研究者の倫理的問題が起きたのは、まさしく「日本の医の倫理の欠点」を示しているのでしょう。この欠点を無くさない限り同様の 倫理問題が起き、そして、医療不信、医学不信をますます増悪させていくことでしょう。

バルサルタン問題の構造は、「製薬企業の意向が、医師を介して、医療に大きく影響を与えた」ということになります。製薬企業の意向は社員を通して現れま す。営業成績を挙げたいという社員の意向と、シェアの拡大を図りたいという製薬企業の意向が一致して、企業からの金が研究者たちに流れたと考えられます。 その意向を見抜けなかった(あるいは、判っていて目をつぶった?)教授や学会の幹部という肩書を持つ主任研究者(医師)を介して、日本の臨床研究のレベル の低さを世界的に知らしめることになりました。
製薬企業の意向を見抜けなかった主任研究者に対する倫理的批判が、日本医学会、日医より出されました。主任研究者たちが属する分科会を束ねる日本医学会として、また、日本の医師を代表し、「医道の高揚」を設立目的の第一に掲げる日医としては当然のことでしょう。

「第三者(国や企業)の意向が、医師を介して、医療問題になる(時に患者の人権問題となる)」ことが多くなりました。「医療の社会化」です。世界医師会 (WMA)は次のように述べています。■Medicine is today, than ever before, a social rather than a strictly individual activity.  今日の医療は、かつてないほど、厳密に個人的というよりも社会的な活動となっています(WMA Medical Ethics Manual 2005, p.65)。■

「医療の社会化」に世界が気づいたのはナチのホロコーストを経験したからです。法や命令という国の意向が、医師を介して、大量虐殺という(患者の)人権問 題をひき起こしたからです。遵法を旨とする医師たちは、「悪法でも法、だから守っただけ」という弁明(「悪法問題」)にも拘わらず、「人道に反する 罪;Crime against humanity」で死刑が言い渡されました。医師には、「悪法には不服従」という倫理性が求められたのです(もちろん、悪法であることを見抜く能力も求 められています)。WMAは次のように述べています。■The Hippocratic tradition of medical ethics has little guidance to offer with regard to relationships with society. To supplement this tradition, present-day medical ethics addresses the issues that arise beyond the individual patient-physician relationship and provides criteria and processes for dealing with these issues. ヒポクラテスの誓いなどの伝統的な医の倫理は、社会との関係については、ほとんど参考になりません。この伝統的倫理を補完するために、今日の医の倫理は、 個々の患者・医師関係を超えて生じる問題に焦点を当て、これらの問題に対処するための基準と手順を示しています(同上、p65)。■
今回のバルサルタン論文不正問題は、患者の人権に直接関わることが無さそうで良かったのですが、日本の臨床研究への国際的な不信感や、医療費の高騰など、社会との関係が問題となっています。

戦後、この大量虐殺に多くのまじめな医師が関与していた反省の下、WMAは「医療の社会化」、すなわち「第三者の意向」に対応できる医の倫理を形成してき ました。「患者の人権を擁護する」ための医の倫理です。その第一がジュネーブ宣言(1948)です。個々の医師が宣誓する形式で、特にその強い意志を第 10項の「even under threat」に込めています。■I will not use my medical knowledge to violate human rights and civil liberties, even under threat. 私は、たとえ脅迫の下であっても、人権や国民の自由を犯すために、自分の医学的知識を利用することはしない。■

「第三者の意向」が強い時、個々の医師だけでは弱いものです。そのような医師を支える「医師会の在り方」を示したのがマドリッド宣言です。WMAはそのよ うな「医師会の在り方」をProfessional autonomy(医師会としての自律)と呼んでいます。患者の人権を守ろうとする個々の医師を支援する、そのための医師会の在り方です。それがマドリッ ド宣言(2009)の前文で次のように述べられています。主語に当たる部分が医師会の在り方、目的語に当たる部分が個々の医師の在り方を示し、そのような 医師会の在り方が個々の医師の在り方を「enhance and assure;補完し、確実にする」と述べています(日医のホームページ「医の倫理の基礎知識」にある、参与・手塚一男弁護士による「医師とプロフェッ ショナルオートノミー」の問題点については別稿で述べます)。■The collective action by the medical profession seeking for the benefit of patients, in assuming responsibility for implementing a system of professionally-led regulation will enhance and assure the individual physician’s right to treat patients without interference, based on his or her best clinical judgment. 患者の利益を第一に考えている医師集団としての行動は、「自浄システム」の設立の責任を果たす中で、個々の医師が外部からの干渉を受けずに、自らの最良と 思われる判断に基づいて患者の治療を行うことのできる権利を、強化し、確実なものとするだろう。■

WMAの「第三者の意向」に対応できる医の倫理をまとめると次のようになります。「個々の医師の在り方」としては、「外部からの干渉を受けずに (independence)、自らの最良と思われる判断に基づいて(self-regulation)患者の治療をおこなうこと」、すなわち「患者第 一」の医療行為が求められています。「医師会の在り方」としては、「患者の利益を第一に考える医師会」であることを宣言し(independence、こ れが「個々の医師の在り方」をenhanceすることになります)、そして「自浄システム(相互評価のシステム)を構築すること(self- regulation、これが「個々の医師の在り方」が「患者第一」を守っているかどうかをassureすることになります)」が求められているのです。
このような「個々の医師の在り方」、「医師会の在り方」はカントの自律(autonomy)の概念に相当します。そこでWMAはそれぞれの在り方を clinical autonomy(個々の医師としての自律)、professional autonomy(医師会としての自律)と呼んでいるのです。「clinical」は「臨床現場の」、「professional」は「the medical professionのprofession」を意味しています。なお、「個々の医師の在り方」としては特にindependenceが重要であるので、 clinical autonomyよりclinical independenceを同義語として多用しています。

日医の医の倫理はどうなっているでしょうか。個々の医師に対してジュネーブ宣言の第10項の在り方を求めているでしょうか。答えは否です。「患者の人権を 尊重する」ことだけを求めているに過ぎません。これでは「第三者の意向」に鈍感な医師を作ってしまいます。バルサルタン問題の複数の主任研究者たちがその 例です。日医は「自浄システム」を持っていません。これでは、「第三者の意向を優先し(あるいは、目をつぶり)、(患者の人権を犯さないまでも)、医療問 題を起こした」医師に対して自浄作用を働かせることができません。その結果が、医療不信、医学不信です。結局のところ、日医の時代遅れの「医の倫理」がバ ルサルタン論文不正問題を起こすべくして起こしたと言うことになります。

「バルサルタン論文不正問題疑惑に対する日本医師会の見解」(2013年5月29日)が発表されました。その中で、ノバルティスファーマ株式会社に対して は説明責任を、厚労省に対しては関係企業などに対する適切な指導・監督を、関係各大学及び各学会に対しては「自浄作用の下に第三者の参画も得て対応するこ とを、そして、臨床研究に携わる医師に対して「高い倫理性の下で、厚労省の示している『臨床研究に関する倫理指針』の更なる遵守」を求めています。しかし この見解には日医の矛盾があります。それは、臨床研究に携わる医師に対して、時代遅れで世界の非常識となっている、低レベルの「医の倫理」を与えているの が日医自身だからです。低レベルの「医の倫理」を標榜しながら高い倫理性を要求する、これが日医の矛盾です。

日医はまず、自身の「医の倫理」を、「医療の社会化」に対応でき、「第三者の意向」に敏感な医師を作るための、時代に即した「医の倫理」に改めるべきでは ないでしょうか。また、日本医学会は法人として日医から離れるのではなく、現在の日医の医の倫理の歴史的背景(731医学を隠したいと言う日本医学会の意 向)を検証し、公表すべきではないでしょうか。そうして初めて、日医と日本医学会が車の両輪となって、あるべき医療・医学を牽引できるようになるのです。

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