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臨時 vol155 「小児科医が見た神大震災 1」

医療ガバナンス学会 (2009年7月4日 09:22)


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          【1月17日】混乱の中央市民病院
          神戸市立中央市民病院・元修練医
          濱畑 啓悟

 1月17日朝
 その日は病院までジョギングするつもりでAM7時に目覚ましをセットしてい
た。目覚めてみるとAM5時30分、トイレに行った後もう一眠りするつもりで床
の中でおきていたときだった。
 突然、グラグラグラグラと数秒間の激しい横揺れを感じた。
 「地震だ。こんなに激しい揺れはめずらしいな。」 と思いながらそのままの
姿勢で身構えていると、数秒の後に再びグラグラグラグラと、同じような激しい
横揺れがきた。しかし決して多くの人が証言するような「縦揺れ」はなかった。
寝ていたベッドがしっかりしており、また目覚めていたせいもあり、決して強が
りではなくその時は比較的冷静だった。またこの時は満月に近く南向きの部屋で
月明かりが入ったせいか、多くの人が証言するような「漆黒の闇」ではなかった。
目を凝らしてみると、本棚、テレビ台、オーディオ、電子レンジなどがことごと
く倒れ、足の踏み場もない状態だった。幸いそれらはベッドから離れていたおか
げで難を逃れたようだ。
 「これはすごいぞ、今日のジョギングはどうしよう。」
 実際その程度の認識だったし、僕が感じたのはその程度の揺れでしかなかった
のだった。
その時はよもや神戸市全体がこれほどの壊滅状態に陥ることになろうとは、予想だにしなかった。
 僕が住んでいるのは兵庫区にあるワンルームマンションの3階。起きあがって
ベランダのサッシを開けてみた。妙に埃っぽかったのと、かすかにガスの臭いが
したのを覚えている。しばらくして、「おう、ごっつい地震やな」 などと下で
人の声がする。
 「さて、どうしたものか」 と思っていたところに電話が鳴った。何とか探し
出して受話器を取ると、垂水にある実家の母からだった。
 「淡路島震源、震度6」 これが最初の具体的な情報だった。
 「これは大変やぞ。さて、どうしようかな。」
 まず心配なのは病院の患者、特に新生児が気になり電話をしようと思ったが、
どうせまだ混乱のさなかで電話どころじゃないだろう。とにかく着替えて外に出
てみた。
 「家がない!」 裏にあった木造の大きな二階屋が、跡形もなく見事なまでに
ぺっしゃんこになっていた。
 「ここは空家やったはずや。」 下で誰かが話しているが本当だろうか。
 同じ階に住む同僚たちの無事を確認した。一人は戸が開かなかったため、ベラ
ンダから鍵を渡して外から開けた。
 「今日の予定オペ、中止かなあ。神戸大橋通れんかったら、むっちゃラッキー
や。」
などと呑気なことをいっている。
 下に降りて車に積んであったヘッドランプを取り出した。
 「あのビル、かたむいとんちゃう?」 まさかと思ってみると、朝靄の中で一
筋向こうの建設会社の鉄筋の立派なビルが、確かにわずかに傾いて見える。
 「生き埋めや! ここの一階に2人寝とったんや。」 20メートル程離れた木
造の二階屋が、これもまた見事なまでにぺっしゃんこにつぶれている。
 もはやためらっている場合ではない。ヘッドランプの明かりを頼りに、同僚の
Dr.有吉と共に近所の人に混じって、瓦の一枚一枚をのける作業から始めた。勿
論軍手もなく素手のまま、革靴のままだった。
 自力でのけられるものは自力で、太い梁や柱は力を合わせて除き、二階の床ま
で見えたがなかなか埒があかない。周りが白みはじめ、人手も増えてきたところ
で、Dr.有吉と申し合わせて病院に向かうことにした。泥だらけになったが、洗
う水は勿論出ない。着替えを済ませ、マンションの窓から見ると、あまり遠くな
い所に煙の柱が4つあがっていた。
 車で病院に向かう途中、橋桁の落ちた阪神高速や、アスファルトの道路がひび
割れ、めくれているのを目の当たりにした。道路は渋滞し、一部は迂回路となっ
ていた。車で出たことを後悔した。旧居留地あたりの古いビルはかなり壊れ、大
きく傾いているものもある。
 「これはただごとではないぞ。」 これから起こりうることをつぎつぎに思い
浮かべ、覚悟を決めた。
 神戸大橋までたどり着くと、通行規制で緊急車両しか通れないという。またポー
トアイランドは水道管が壊れ、水浸しだという。(この時はまだ、「液状化現象」
という言葉は知らなかった。)そこで取りあえず車をおいて歩いて渡ることにし
た。神戸大橋は橋脚が壊れ、橋桁が大きくずれて段差になっていた。本土の方に
は、幾つもの煙があがっていた。
 AM7半時頃ポートアイランドに着くと、道路一面茶色の沼地であった。非常に
滑りやすいのに気をつけながら、比較的泥の浅いところを選んで、靴やズボンが
汚れるのもかまわず歩き、病院にたどり着いてみて驚いた。いつも救急車がつけ
られるように平らに舗装された救急入口が、見事に50センチ以上の段差になって
いる。中の救急部は電気が切れ、暗闇の中騒然とした様子だ。と、そのとたん普
通ワゴン車が入ってきた。
 「生き埋めなんです。助けてください、お願いします。」
 すぐに段差になった入口に降ろしてみると、比較的若い女性でパジャマ姿のま
ま、まだ体温は暖かいが、心拍はなく瞳孔も散大している。一見してこれはダメ
だと思ったが、すぐにその場でCPR(心肺蘇生)を開始し、集まったドクター
に挿管、点滴を用意させた。
 しばらくして心マッサージを交代してもらい中の様子をみると、真っ暗な救急
室の中でも、数人のドクターが集まってCPRをしている。これから次々にこの
ような状態の患者が来るに違いないことは、車で見てきた町の様子から容易に想
像できた。これは通常の状況ではない。いつもと同じ、型どおりの蘇生をやって
いたのでは、これから次々に来るであろうDOA   ( Dead on arrival、病院到
着時心肺停止 )に対応できない。必死に蘇生を続ける研修医たちに言って回っ
た。
 「いつもと同じ事やっとったんではあかんで。そこそこで見切りをつけんと。」
 救急外来では暗闇の中、懐中電灯の明かりを頼りに傷の縫合をしていたが、廊
下にも未処置の患者があふれ、混乱を極めている。カルテはまともに記載されて
いない。暗闇の中での縫合では埒があかず、外も明るくなっていたので、縫合処
置はまとめて外の明かりが入る廊下に出てすることにした。受け付けた救急カル
テは2、30枚束になっている。暗闇の中多くの患者がいて、呼んでも患者が見つか
らない。すでに受け付けたカルテの患者は順番に呼び続け、一方でカルテを持っ
た患者は順番に関係なく診ることにした。ほとんどは切創、打撲の軽症患者だっ
た。
 小児科の研修医に会い、気になっていた小児科の患者は全員無事で、新生児も
大丈夫だと聞いた。そこでしばらくは救急部で研修医の縫合処置の指揮をとるこ
とにした。予想されたDOAは、最初の2件の後は来なかった。やがて2階の一
般外来が開けられ、縫合処置はそこでまとめて行うようになった。多数のマンパ
ワーを得て、混乱を極めた救急部に少しずつ秩序が戻ってきた。
 そこでエレベーターは動かないため、暗い階段を手探りで7階の小児病棟にあ
がってみた。病棟はすべての棚がひっくり返り、割れたガラスやコンピューター
などの機械やカルテや哺乳ビンなど、ありとあらゆるものがめちゃめちゃに撒き
散らされ、病棟の激しい揺れを物語っていた。看護婦さんたちが片付けを始めて
いたが、どこから手を付けていいのかも分からない状況だった。
 患者は皆、無事だった。7階西病棟には常時人工呼吸器をつけた患者が3人いる。
冷却水が無く、圧縮空気が作れなくなりサーボ(人工呼吸器)が働かなくなった
ため、ナースが手でバッグを押している。いつまでもこんな事は続けられない。
それでも押し続けるほかなかった。(このバッグは結局、合計58時間押し続けら
れた。)取りあえず、自分の受け持ち患者を診て回ることにした。特に子どもた
ちには、地震のショックは大きかったに違いない。自分の患者以外にも声をかけ
て回った。子ども達は口々に、びっくりしたこと、怖かったことを話し始めた。
 また当日当直のDr.山川が連絡も取れないという。小児科スタッフで唯一独身
の僕は、当分家に戻るつもりもなかったので、その日の小児科当直を引き受ける
ことにした。
 新生児室に回ってみた。手前の産科病棟は水浸しになっており、清潔なシーツ
やガウンがびっしょり濡れている。普段清潔区域の新生児室も、この時ばかりは
土足OKだった。本当に幸いなことに、年末年始に生まれた未熟児も丁度抜管し
たところで、その時新生児室で人工呼吸器を使用している児はいなかった。また
ちょうどお産が進行中で分娩台にいた妊婦が、地震の瞬間分娩台から下に落ちた
が、その後無事男児を出産したという話を聞いた。とにかくオムツや肌着が足り
ないという。地震で水道が止まった今、洗濯はいつになったら出来るようになる
か分からない。
 再び2階の外来に降りてみた。3、4人の縫合を済ませたが、この頃には患者数
はかなり減っていた。エレベーターは使用不能で、ザーザーといつまでたっても
大量の水が流れ落ちる音が続いていた。屋上の貯水タンクが破損し、漏水が続い
ていたのだった。1階の救急部に降りてみた。この時、骨盤骨折の女性が出血性
ショックで亡くなったという話を聞いたが、結局DOAはその後来なかったそう
だ。
 正確にいつかは記憶していないが、昼前には電気が復旧していた。救急部は落
ちつきを取り戻しつつあった。と言うより実際、「落ちつきすぎていた」のだっ
た。患者は午前中の第1波が過ぎると途絶えがちとなり、昼過ぎには軽症の打撲
や、風邪ひきの子どもまで来るようになっていた。
 研修医たちは「スタッフルーム」と呼ばれる救急の控え室に集まり、テレビを
見ていた。テレビでは長田区の火事を報じていた。消防車は燃えさかる炎を前に
して、水道が断水しているために、なすすべもなかった。死者、行方不明者は報
告の度にその数を増していた。
 「うわー、ごっついなー!」
 それはまさに、文字どおり「対岸の火事」だった。ほんのすぐ近くの神戸の街
が燃えているのに、見ているだけで何の手出しもできない。これから次々に、重
症熱傷が来るのだろうか。三宮の中心部の被害もすさまじい。その頃はまだテレ
ビもあまり伝えていなかったが、東の方から来たドクターによると東灘区、灘区
も相当な惨状らしい。
 食料がない、水が出ないということで、誰かが正月用のストックの米と医療用
の精製水でご飯を炊いた。考えれば朝から何も食べていない。とりあえずおにぎ
りにありついた。コップが洗えないということで、「検尿コップがあるやろ」と
言い出す者がいたが、僕は、「じゃあ、各自名前を書こう」と提案した。「エー、
尿コップで飲むの」と、おっしゃるお嬢様もいらっしゃった。
 現場はよく台風の時などに見られるような、一種の「お祭り騒ぎ」的な興奮が
あった。
 しかし地震で水が出ないということは、台風での一時的な停電や断水と本質的
に異なる。水道管、ガス管がすべて破損したとすれば、今後数カ月に渡って、水や
ガスの供給がない可能性だってある。精製水だって限られた医療資源だ。
 そこへ「給水車が来た」という情報が入った。まず水の備蓄は何よりも最優先
の課題だ。青いプラスティックの大きいごみ箱を集め、ビニール袋を2重に敷い
た。そこいらにいる研修医を動員し、キャスター付きの台車をかき集めて裏口に
回った。にわかにかり出された給水車の水は、赤錆色に少し濁っていたが、飲用
可能だという。また本日中はこれ以上の水の供給のメドはたたないそうだ。救急
部に汲み置いた水は合計、大きなポリ容器7杯と小さなポリタンク2杯になった。
 看護婦の中には濁った水を見て、
 「エー、これ飲むのー。私ジュース飲むー。」 と、のたまう奴がいたが、無
視した。
 外科の石川部長が来たので、事情を説明すると、「じゃあ、飲んでみよう」
と、さっそくコップを出して濁った水を飲んだ。「うん、のめる、のめる。」
 また「救急部だけが水を独占して」という批判があったようだが、勿論独占す
るつもりなどなかった。院内で非常用エレベーター一つしか動かない状況で、各
病棟の代表が集まって仲良く水を分けるということは不可能だった。問題はその
分配だった。
 一方研修医たちはこの非常事態に、普段と同じ診療をしているように見えた。
やがてレントゲンが復旧すると、風邪ひきの子どもに「肺炎かも知れないから念
のため」と、胸部レントゲン写真を撮り、打撲して痛いというところは「骨折が
あるかもしれないから念のため」と、レントゲンをオーダーする。レントゲンフィ
ルムを含め、あらゆる医療資源のストックには限りがあり、次の供給はいつにな
るか分からない。
 「普段と同じ事しとったんではあかんのやぞ」 と、口を酸っぱくして言って
回るがなかなかピンと来ないらしい。誰もがあらゆる設備や医療物資が整った状
況でしか、診療したことがなかった。水がない、レントゲンが撮れない状況でい
かに診療をすべきかという想像力がなかった。
 救急部での普段の我々の診療は、例えて言うなら教習所で教える安全運転だ。
その通りやっていれば、まず事故はない。それに対して今の状況を例えて言うな
ら、ダートコースを走るラリーと考えればよい。ぶつけても、擦っても、悪路の
中何とかして前に進まねばならない。それには発想の切り替えが必要だ。
 その日の夕方になって、5階の会議室で院内で手の空いている全ドクターが集
まって、対策会議が開かれるというので参加した。みんな口々に「意見」を言っ
た。
 「水が出ないのはどうするのか。」
 「神戸大橋を車で渡ろうとすると、本院職員と言ったが通してくれなかった。
通行許可証を発行してほしい。」
 「透析患者をどうするのか。」
 それらの大半は、「意見」というより、「文句」だった。具体的にどうしよう
という、「建設的提案」は、あまり見られなかった。
 意見をまとめるべき副院長は、水に関しては、「設備課長、どうだね」 と言
うだけ。
 「屋上のタンク自体が大きくずれて、当面復旧のメドは全く立たない。」 と
のことであった。
 実際透析患者は一番の問題であった。腎臓内科のドクターから透析患者の人数、
現状が報告された。水を運んで透析するというのは非現実的なので、患者を搬出
するしかない。
 救急部長が発言した。
 「この際非常事態なんだから、早めに自衛隊に要請して、ヘリを使った搬出も
考えるべきだ。」
 これに対して、多くの人から「そんな非現実的な」というブーイングがあがっ
た。
 そこで外科の石川部長が発言した。
 「みんな文句ばっかり言ってても仕方がない。どうするのか考えないと。」
 その通りだった。口だけでなく、実際行動してこそ意味があるのだ。
 そこで石川部長に近づき、救急部にストックしている7杯の水を、11、10、9、
8、7階それぞれの病棟と、ICU、救急部に一つずつ配分するプランを示した。
 石川部長は全体に対してそのことを発言し、僕は設備課の人と水運びに走った。
 再び救急部の研修医を動員し台車をかき集めて、唯一残された南の非常用エレ
ベーターを使って、各階に水を運びあげた。
 各階には東西南北の四病棟があるが、各階に1杯ずつなので適宜分けてもらう
こと、少し濁ってはいるが飲用可能なこと、本日中はこれ以上の水の供給は望め
ないことを、配りながら各病棟のナースに伝えて回った。ついでに各病棟の被害
状況を見て回った。
 地震の揺れは上に行くほど激しかったようで、11階、10階は想像を絶する被害
だった。
 11階のある病棟では窓ガラスが割れたと聞いた。10階のある病棟では、ナース
カウンターごと投げ出されていた。最も壊滅的だったのは10階北病棟で、漏水し
た水で病棟全体が水びたしになっており、患者はそれぞれ東、西病棟に避難し、
病室の床に雑魚寝していた。ベッドや機械は壊れ、そこらじゅうに散乱していた。
まさにそこは廃虚だった。本当によく死者が出なかったことだ。
 ふっと病院から西の方を見ると、深夜にもかかわらず、長田区一帯の西の空が
夕焼けのように赤く染まっていたのをはっきり記憶している。
 「これはたいへんなことだぞ。このままではいけない、なんとかしなければ。」
 その時改めて思った。
 長田区の火事は消火されず、兵庫区の方にも広がっているという。兵庫区の自
宅も、今頃灰燼に帰しているかもしれない。それでも「まあ、生きているからい
いか」 と、妙にさばさばした気持ちで、未練もあまり感じなかった。
 9時頃になって、本来の当直のDr.山川が来られた。怪我をした家族を大阪の方
に避難させ、自転車で駆けつけたというが、さすがに疲労困憊の様子であった。
この時ばかりは、守るべき家族がいない独身の身軽さを感じた。その夜は小児病
棟のプレイルームで、テレビが延々と報じる犠牲者の氏名を聞きながらいつの間
にか眠りについた。
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