さる6月20日、ディア・ドクター(6月27日より全国ロードショー)の試
写会と「明日の臨床教育を考える」シンポジウムが慶応大学にて開催された。こ
れは、厚生労働省「医療における安心・希望確保のための専門医・家庭医(医師
後期臨床研修制度)のあり方に関する研究班」の班長であった土屋了介氏(国立
がんセンター中央病院長)が中心となって、市民・医学生・研修医・医師が一緒
に「頼れる医師を育てる研修制度、新しい医療の形」を考えるべく企画したもの
だ。試写会の後のシンポジウムは2部に分かれており、第1部は監督の西川美和
氏、発起人の土屋了介氏、医療監修の太田祥一氏(東京医科大学)の鼎談、第2
部は家庭医、開業医や医学生、研修医らのフリートークである。
鼎談において西川美和監督は本作「ディアドクター」を撮影した契機について
こう語っていた。
「世間は私を映画監督として見てくれているが、映画監督って一体何なのだろう
か。自分自身への不安から「偽物」の話を作りたかった。芸能人では本物と偽者
があいまいだ。だから本物と偽物が免許という形ではっきりと区別されて、私た
ちの身近な存在である、お医者さんを選んだ。」
テーマは医療でなくてもよかったのかもしれない。しかし、その発言とは裏腹
に映画は圧倒的なリアリティをもって観客に迫ってくる。
(以下ネタばれあり。)
相馬(瑛太)は研修医。じゃんけんに負けて仕方なく神和田村にやってくる。
真っ赤なBMWのオープンカーが、緑の田んぼにひどく浮いて見える。そこに居た
のは4年前から一人で村を診ている伊野(鶴瓶)。往診をして地域の住民の生活
に入っていって、24時間何かあったら呼ばれて、住民に「神様仏様よりもお医
者様」といわれるくらいに慕われている。来た当初僻地の医療にとまどいを隠せ
なかった相馬も、鶴瓶の背中を見ているうちに地域医療に魅せられていく。「大
学でみてきたことってなんだったんだって思う。ここだと人に喜ばれている感じ
がして腑に落ちる。」
しかし「人と人とのつながりがある地域医療は人間らしい医療の原点だ」とい
う家庭医療礼賛では終わらない。客観的に村を眺める刑事(岩松了と松重豊)、
そして伊野(鶴瓶)自身の口から、一筋縄ではいかない田舎の現実が語られる。
「この村の住人は、また新しい医者がきたら神様だの言って使うだけだ。」
「ここの人は(医者が)足らんということを受け入れているだけや。俺じゃない
とアカンなんていうのはアカン。俺が死んだら村も死ぬんか。」
「玉が来たから打つ。打つから球が来る。」
伊野(鶴瓶)はどこまでも人間だ。家では勉強しているし、初めての処置は
怖い。しかし村人は伊野を人間であることを許してくれない。神様のように扱う。
病人を治したら大喜びで祭り上げる。高齢者が多いこの村の住人は余計な延命を
望まず、医師は「年功序列で順繰りに死んでいくのをみるだけ」だ。その姿は直
接描写されないが死神的ですらあったことだろう。神であり続けなければならな
い伊野は苦悩する。誰も伊野にやめていいよとは言ってくれない。看護師の大竹
(余貴美子)も製薬会社の斉門(香川照之)も気付かないふりをしている。伊野
の苦悩にも、そして伊野が抱える大きな秘密にも。
物語が大きく動き出すのは、鳥飼かづ子(八千草薫)という一人暮らしの未
亡人が倒れてからだ。医師である娘りつ子(井川遥)に自分の病状を知られたく
ない彼女は、伊野に「一緒に嘘、ついてください」と呟く。
そして最後、伊野は村を逃げ出す。伊野が鳥飼かづ子に白衣(=白旗)を振る
シーンが印象的だ。
本映画は1つの大きなストーリー展開の中に時系列、視点がばらばらになって
散りばめられている。何気なく見過ごしてしまいそうなシーン・台詞の端々には
たくさんの気持ちと謎を解くヒントが隠されている。ここまで緻密な映画はみた
ことがない。観客は、これは一体いつの話なのか、このやり取りの裏には人物の
どういう思いが隠されているのか、常に疑問を持ちつつ自分なりにストーリーを
組み立てていくことになる。
私には一回見ただけでは腑に落ちないシーンがあった。最大の疑問は伊野がな
ぜあのタイミングで村を逃げ出したのだろうか、ということだった。あれだけ責
任感の強い人が村を放り出すにはそれ相応の理由が必要だと思った。
私には伊野は逃げ出したというよりも自ら決意して村を出たように見えた。伊
野は「やはり自分は本物の医者にはなれない」と思って医者をやめたのだと思う。
伊野に決定的に欠けていたものは「患者を助けたい」という思いだったのではな
いか。振り返れば、伊野が医者をやっていく上での処世術は「周りの言うことに
逆らわない」であったように思う。例えば、大家族のおじいちゃんが死ぬ時には、
周りを見回してこれ以上延命するかどうか空気を読んでいた。緊張性気胸の患者
の時は、まずはどこかに搬送しようとして、次は看護師大竹の言うことを聞いて
いる。彼は自分のせいで患者が死ぬのだと思いたくないから、周りの言うことを
尊重するという形で責任から逃げてきたように思う。搬送先の病院で逃げ出そう
とする伊野が鏡に映っていなかったのは、彼の「自分のなさ」の暗喩ではないだ
ろうか。「自分のなさ」が伊野を患者思いのいいお医者さんとして押し上げたの
だけれど、かづ子の命が1年持たないということを意識した時に彼はかづ子を強
く助けたいと思い、今までの自身の欠落に気付いたのではないだろうか。
古代から仮面は「他人からはわからないということのみならず、装着するマス
クがかたどっている神・精霊・動物(実在架空を問わず)等そのものに人格が変
化する(神格が宿る)とも信じられ、古くから宗教的儀式・儀礼またはそれにお
ける舞踏、あるいは演劇などにおいて用いられてきた」(wikipedia「仮面」よ
り)
伊野は仮面をかぶり医者以上に医者らしく医者を演じていたといえる。しかし
伊野は「患者さんを助けたい」という気持ち一点において、画竜点睛を欠いてい
たのだ。
医者をやめた伊野は、村人にも子供たちにもすぐ隣にいる刑事にも気づかれな
い。そして電車が通り過ぎると共にその姿は忽然と消えている。非常に唐突で解
せないシーンである。なぜ医者をやめた伊野は誰にも気づかれなくなるのだろう
か?
これも彼の「自分のなさ」が原因だと思う。伊野自身は医者として村に入る時
に生い立ちも過去も捨てているし、村人も伊野をお医者様としか扱わなかった。
彼は自分を持っていなかったと言えるし、持てなかったともいえるだろう。伊野
は「お医者さん」としてしか存在していなかった。それゆえに医者という仮面を
はいだら、生身の伊野は空っぽだったのではないだろうか。
しかし最後、医者であることを捨てた伊野は別な形でかづ子のもとに戻ってく
る。医者という仮面をはずし「伊野治」個人となってなお、生を終えようとする
かづ子の支えになりたいという気持ちがあったのだろう。倒れる斉門に思わず手
を差し出し支えた刑事のように。
俳優とは仮面をかぶり「本当の自分ではない誰か」を演じる仕事である。仮面
と実物のギャップに悩む医師を演じるのに、仮面をかぶりなれている俳優であっ
てはおもしろくない。漫才師である鶴瓶が俳優という仮面をかぶり、さらに医師
という仮面をかぶる男を演じるという入れ子構造に配役の妙がある。そして実際、
鶴瓶の演技は抜群であった。テレビでみる通りの陽気な笑顔の裏に、闇を抱えた
演技は素晴らしかった。
医者というのは生き方・死に方に関わる仕事である。病気は人生を色濃く映し
出すから「患者さん」と「医者としての自分」と「生身の自分」の意見が対立す
る時がきっと来るだろう。患者さんの言うことに従っていてもだめだし、医者と
して話すだけでも味気ないし、生身の自分を押し通したら傲慢だ。医者は難しい。
医者は医師免許をとって初めて医者になる。伊野だけでなくすべての人にとって
も「医者」というのは後天的につけた仮面なのかもしれない。しかし、患者さん
の人生の最後の大切な一時に関わらせてもらって、生き方・死に方の勉強させて
もらって、技術も磨かせてもらって、しかも感謝までしてもらって。医者はなん
てやりがいがあって素晴らしい仕事なんだろうか、と私は思った。