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Vol.45 25年のリーダーたちへ(3) ~「労働者」としての医師

医療ガバナンス学会 (2014年2月23日 06:00)


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この原稿はキャリアブレイン CBnewsマネジメントより転載です。

http://www.cabrain.net/management/

公益財団法人がん研究会理事
土屋 了介
2014年2月23日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp


●1960年代の教授と医局員の意思疎通の欠如
今春、大学を卒業する「2025年のリーダーたち」は卒後10年経過していることになるので、今回は、私の大学卒業から卒後10年までを振り返る。文末の 経歴欄にあるように、大学卒業直後から大学の医局を離れ、川崎市の日本鋼管病院に就職し、外科医として訓練を受けることにした。その後、防衛医科大学校の 1年3か月を除き教職につくことはなく、医師としての経歴の大半を国立がんセンター中央病院で過ごした。

慶応義塾大学病院の外科医局での研修を希望しなかったのは、最終学年である6年目の外科での病院実習が原因であって、当時(1969年)は、6年目の1年 間は小グループ(正確には覚えていないが6人から8人)で全ての診療科を2週間から6週間ローテーションした。一般外科(消火器外科)では助手(現在の助 教)に指導されたが、手術見学の合間に小講義室で助手が教授の乳がん手術の批判を始めたのである、「教授が比較的早期の乳がんに対し、当時、標準的手術と された腋窩リンパ節廓清を伴う胸筋と共に全乳房を切除する拡大乳房切除術を行わないで、胸筋を温存して乳腺周囲しか切除しない手術を行ったのは間違えであ る。しかも、その手術の映像を米国の学会で発表するのは国辱ものである」と指摘した。

現在では、その教授の手術は乳腺温存手術として的確な判断と言えるのだが、当時は私も「助手のいうことももっともだ」と思っていた。しかし、その後、「教 授に何と答えられたのですか」と学生たちが助手に聞いたところ、「とんでもない。そんなこと教授に聞け」との返事だった。すなわち、彼は学生を相手に陰口 として教授を批判していたのだ。

当時、学生運動が盛んで64年の入学以来、度々ストライキによって授業をボイコットし、毎日、クラス討論で正義感に燃えた議論をし、医学部長をはじめとし た大学医局に改善要求を直接突き付けていた学生にとっては、自由な討論のできない教室は封建的だと学生が批判した通りで驚きもしなかった。しかし、陰口を 言う助手の態度は、当時の学生には許しがたい「卑怯な態度」と映ったのだ。このように医局員が自由に教授にものを言えないような出来事が多く、同級生の間 で、「慶應義塾大病院の外科での研修を避けて、市中の病院での研修のほうがよいのではないか」という意見が出た。

そこで、同級生が手分けをして大学以外の病院で卒業直後の研修を受け入れてくれる可能性のある病院を訪問し、研修受け入れの状況を調査した。その結果、 25人いた外科志望のうち、10人は市中病院で2年間研修を受けることになった。3年目に大学に戻り研究室に所属すれば、大学で初期研修をした場合と同じ にするとの医局の了解も得たのだ。

●医師も労働組合員―日本鋼管病院勤務
初期研修を受け入れてくれた日本鋼管病院は、慶應義塾大病院外科からの卒後2年から3年目の研修の受け入れ先であると共に、同大の出身である小平正教授の 東邦大外科からも同様の研究を受け入れていた。佐藤雄次副院長兼外科部長の下で一般外科(腹部、乳腺、甲状腺)の常勤医師3人と大学からの1年交代の出張 医師2人、そして卒業直後の私の6人だった。卒業直後の医師を受け入れるのは初めてなので、「病院長や副院長はもちろん、あらゆる部門が大学の研修に劣っ てはかわいそうだ」との思いで準備していただいたのが、日が経つにつれて分かってきた。

副院長はたった1人の研修医のために手書きの「研修のしおり」を複写して外科の医師に配布し、研修指導が一貫したものであるようにしてくださった。外科の 手術がない日には、耳鼻咽喉科の部長は副鼻腔炎の手術などを、それこそ手取り足取り教えてくださり、産婦人科の医師たちは婦人科手術はもちろん鉗子分娩ま で教えてくださった。

辞令交付式の後、病院長室に挨拶に伺ったところ、病院長から「組合には入りましたか」と聞かれた。医学生のころには医師が労働組合に入るという認識は全くなかったので、このときに、わたしは社会人として全くなってないことを思い知らされた。

外科での研修と生活はやりがいがあり、楽しいものであった。市中病院では、少ない数の外科医が全員で、午前中は病棟処置と外来診療を手分けして行い、午後 から手術を行うのが一般的だった。手術後の患者管理は、手術自体にも増して重要であり、研修医にとっては勉強になる場だったので、手術日には先輩医師と共 に泊り込んで患者を診療し、必要に応じて処置をした。次第に慣れてくると、先輩から多くの診療を任されるようになり、さらには当直の代行を頼まれることも 多くなった。

ベテランの看護婦(現看護師)に教えられながら、夜中に1人で判断して処置することによって次第に自信がつき、かなり調子に乗ってきたころ、病院長から呼 び出された。用件は、▽当直を月10回以上も行うのは労働協約にある月5回までという規則に違反している▽当直の翌日は正午までの勤務でありそれ以後は勤 務してはいけないので、午後からは休日出勤である▽病院に泊まってばかりいるので出勤簿の記載が不十分であり、超過勤務時間も協約違反である可能性が高い ―ことなどだった。

このような出来事は、医師も労働者であり、労働基準法や労働安全衛生法を守り、的確な労務管理の下で、自らの健康に留意して勤務することが義務であること を教えてくれた。現在、日本の医師の勤務時間は諸外国に比べて異常に長時間であるが、その原因は、医師の総数を抑え込んできた政治や行政側にだけ責任があ るのではない。病院経営者が経営者の責任を十分に果たさず、労働者である医師は権利を主張せず、義務を果たさなかったことも要因といえる。

●松山智治病院長が国立療養所をがんセンターに変えた秘策
国立がんセンター病院レジデントのころは、後に世界的権威になった病理の下里幸男先生、外科の石川七郎先生、末枡恵一先生、成毛韶夫先生、内視鏡の池田茂 人先生、放射線治療の梅垣洋一郎先生、放射線診断の坪井栄孝先生など、まさに綺羅星のような指導者に昼夜に渡って指導していただき、本当に恵まれた環境 だった。したがって、労働基準法や労働安全衛生法とは最も遠い世界だった。

レジデントを修了した時点では、国立がんセンター中央病院には職員としての採用枠はなく、他に呼吸器外科医として肺がんの手術ができるような施設もないの で、また市中病院で一般外科医をし、その後に開業でもしようと考えていたところ、尾形利郎先生が国立がんセンター病院の医長から防衛医科大学校の教授にな ることが決まり、助手として誘われた。しかし、まだ、大学病院が開院してなかったので、尾形先生の同級生である国立療養所松戸病院の松山智治病院長の下 で、医員として大学病院の開院まで就職させていただくことになった。

国立療養所は結核患者の減少と共に、廃院や他の疾病への転換、他施設との合併、売却などの危機に瀕していた。松山病院長は結核での診療との関連を生かし、 肺がんを主体としたがん病院としての転換を指向された。そこで、肺がん患者の受診を増やすことを目的に、医師会の先生方を対象した勉強会を企画した。

勉強会は、われわれ30歳代の医師の呼びかけでは先生方は集まらないだろうとのことで、毎月、国立がんセンターの先生方に講師として来ていただくことをお 願いした。末枡恵一先生と鈴木明先生は毎月来ていただいた。病理組織診断の信用も大事だとのことで、雨宮隆太先生(後に茨城県立がんセンター長)や、わた しの書いた全ての病理組織診断報告書を下里幸夫先生に検閲していただいた。そのうえで、勉強会で病理組織をスライドグラスから直接投影するために、当時、 100万円以上するスライド投影機を購入していただいた。すなわち、田舎の診療所だったが、東京築地の国立がんセンターと同じレベルの医療を提供しようと したのだ。

当時はパソコンもなければ、デジカメもない時代なので、勉強会の準備はまさに病院をあげた協力が必要だった。開催の通知は、今では違反にはるが、製薬会社 の方々に手伝っていただいて(労務供与)印刷配布し、事務の方々には、看護学校の教室の会場準備、案内板設営、便所掃除、盆暮れの飲み会を伴う懇親会の準 備と後片付けなどをお願いした。これらの努力のおかげで、年間17例だった肺がん手術例が3年後には80例に増えた。

松山病院長は、毎週のように霞が関の厚生省国立療養所課や、中目黒の関東甲信越厚生局に通われ、若手医師や技師、事務職員の提案を実現するべく努力されて いた。その後、肺がんに続き、乳がん、肝臓がん、胃がん、大腸がんなどに診療の範囲を広げるとともに、早くから緩和医療の重要性を認識され、放射線診断で 招聘された志真泰夫先生を緩和医療の道へと導かれ、国立病院として初めて緩和ケア病棟を創設されたのである。

このような努力が実を結び、国立柏病院との合併を機に、仮称「国立第二がんセンター」(現在の国立がん研究センター東病院)の設立が決まった。残念なが ら、松山先生は開院を待たずに腎臓がんで旅立たれたが、その強い意思や緻密な戦略、患者本位の考え方、信頼関係を基盤とした人脈など、多くのことをわれわ れ世代に伝えてくださった。現在、国立がん研究センター東病院は肺がん手術例が年間300例以上もあり、国立がん研究センター中央病院や静岡県立がんセン ターと並んで御三家とも呼ばれる存在になっている。

このような経験をした後、79年1月に国立がんセンター中央病院に外科医員として常勤医師となったのは卒後9年10か月だった。その後、30年間、国立がんセンターで医師として勤務できた要因として、この初期10年間の経験が大きく寄与していると考えている。

土屋了介(つちや・りょうすけ)
神奈川県出身。1970年慶應義塾大学医学部を卒業後、日本鋼管病院外科、国立がんセンター病院レジデント、国立療養所松戸病院、防衛医科大学校第二外科 を経て、79年国立がんセンター中央病院外科に勤務。91年同病院病棟部長、2002年同病院副院長、06年同病院病院長、10年財団法人癌研究会顧問、 11年公益財団法人がん研究会理事に就任。現在は内閣府・規制改革会議専門委員、神奈川県顧問(政策推進担当)、公益財団法人東京財団上席研究員などを務 める。

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