医療ガバナンス学会 (2014年4月8日 06:00)
ここへ来てからは、そんなことは言っていられなかった。行き場のない患者がたくさんいたし、神経難病を診てくれる内科医もいなかった。施設や慢性期の病院 はすでに満床、ご自宅に戻すにしても独り暮らしや、仮設住宅で”老夫婦2人暮らし”などという家庭が当たり前だった。こうした患者の診療を引き受けざるを 得ない状況に、否が応でも追い込まれていった。
「今まではどうしていたんだ」という議論をしてもはじまらない。往診というスタイルを取らない限りは病院から退院させることができず、介護や福祉関係の職員たちと協力していくことが必然だった。
ALSやパーキンソン病や脊髄小脳変性症のターミナル、脳炎や脳梗塞後遺症、認知症など、疾患はさまざまであるが、共通することは、当たり前だが圧倒的な 介護力不足である。ひとりの高齢者が倒れた場合に、主介護者というのは配偶者か嫁か未婚の娘ということになる。被災地に限らないと思うが、これらの人材の うち2人が確保されなければ、その家庭は簡単に介護難民と化す。
難病を煩ったにも関わらず、さらなる苦難を強いられる患者に対しては、”加害者”というと大袈裟だが、自分も”当事者”の1人ではないかという気持ちに なってきた。私は、たまたまクジに当たっていないだけで、本当は自分だったかもしれないという感情に苛まれることが増えた。良いとか悪いとかではなく、誰 であろうが、どんな人であろうが、いつ難病に罹患してもおかしくないのだから。
難病患者と深く接したからというわけではないが、2年が経過しようとする中で、私がここにいるルーツを考える機会が増していった。”人道的使命感”だと か、”職業的責任感”だとか、そういう覚悟が、もちろんまったくなかったわけではないが、むしろ「何となく南相馬市で人のお役に立てたらなぁ」なんて気持 ちで来てしまった。
でも、もしかしたら、心のどこかで医療というものと、そして神経難病という患者と、どこかで正面から向き合い、対峙し、深く考え抜かなければならない時期 にあると感じていたのかもしれない。「治療法がないから仕方がない」とか、「動けなくなったらすることがない」とか、そういう一面も”難病”には確かにあ るのだが、でも、もう一度本当にじっくり整理し、何が本質なのかを見極める時期に(遅ればせながら)きていた。
そのための結論を得たいがためにこの地に来たのか、ここが、より一層そうした葛藤を生み出したのかそれはわからない。しかし、いずれにせよ何らかの作用が働いて、私はこの地に来たように思う。
何はともあれ、私は、この病院を基盤に神経難病患者への在宅診療を開始したのだが、ことはそう簡単なものではなかった。ただでさえ、それほど全身を診られ る診療科で研鑽を積んだわけではなかったので、湿疹のための軟膏ひとつ処方するのも、口腔内のケアを相談されたとしても、人工呼吸器を装着したALS患者 が自宅で苦しくなっても、「何かあったら病院に来てください」としか言いようがなかった。だとしたら何のために、わざわざ在宅までお邪魔するのか。本当に 意味があるのだろうか。
パーキンソン病のターミナル患者を往診していた。状態が悪化する中で、主介護者の娘さんは延命措置をどこまでやるかで悩んでいた。「やってもそれほど意味 がない、いたずらに本人を苦しめることになるだけ」ということを何度も何度も反芻し、頭では理解していても、「いざ、そのときが来たら私は、いてもたって もいられない。病院に行ってしまうだろう」と。
私たちは、いつ呼び出しがあってもおかしくないという体制で臨むことになった。
関係ない話かもしれないけれど、私はここへ来てからというもの、どんどん自分がシンプルになっていくような気がした。まずは、物欲がほとんどなくなった。 大学病院時代には散々買っていた洋服や靴といったものの購入がぱったり止んだ。余計な外食や飲酒もめっきり減った。テレビというものもほとんど見なくなっ た。娯楽にお金をつぎ込むこともなくなった。お金は、市民活動を展開する中での必要物品の購入と書籍代に限定するようになった(交際費は少し増えた)。
本来、私は焦ったり動揺したりすることが少なく、よく言えば冷静なのだが、悪く言えば冷めているというか刹那的である。往診に対しても、何かの合理性を求 めたわけではない。確かにやらざるを得ない状況には立たされていたが、「まあ、来れないのだから行くしかないだろうし、その中でなるようにしかならない」 というような状態に、言葉通りなるようになった。そういう意味では、現実を素直に受け入れられたと思うし、人間がますます”あるがまま”になった。だか ら、往診が軌道に乗ったのも、「不運にして障害を抱えた患者に同情できるようになった」ということではなくて、「淡々とやるべきノルマを、しかも前向きこ なせる能力が身についた」という感覚の方が正しいのかもしれない。
ある朝、いつものように出勤すると、突然電話があった。娘さんからだった。
「母が今朝、静かに亡くなりました。先生には1年以上にわたって、一度も休まず往診に来ていただき、本当にお世話になりました。先生の、その力の入り過ぎない態度に救われました。私が今日、母を明るくおくることができたのは先生のお陰です」と。
私は在宅診療で何をしてきたのだろうか? やったことといえば、今日も変わらない母の様子を伝え、「気持ちはわかるけど、娘さんも、あまりがんばり過ぎないように」と、お礼と労いとの言葉をかけてきただけである。
そんなことは、わかっている。毎日毎日観察している娘さんの方が、本人の状態を正しく把握している。一瞥しかくれない私の診療なんかより、ずっと深く、もっと広く・・・。
難病患者に対応している人たちは、明日のことなど考えない。考えれば不安になる。今日を乗り切るために、今できることをこなしている。明日はたまたまやっ てくるだけで、それがどういうものかわからない。夢を抱くこともないけれど、絶望はしない。目標など無理に立てない方が、気が楽である。
私の往診もそれに同調していたのかもしれない。「今日はとりあえず大丈夫なようです。明日はわかりませんけど」という態度が、もしかしたら彼女たちの苦痛 を和らげていたのかもしれない。「また来週も必ず来ますね。何かあったら連絡してください」と言い続けてきたことが、彼女たちの支えであり、目標だったの かもしれない。
近い将来、日本は、確かに社会保障費と治安維持費と災害対策費とに大量のお金が使われることになるであろう。それを憂う人がいるかもしれない。孤立死や孤 独自殺といった問題が、すでに表面化しているなかで、「往診してくれる医者がいるだけまだいいではないか。見守ってくれる家族がいるだけ幸せではないか」 という極論を述べる人も出てくるかもしれない。
明日は我が身という状態のなかで、高齢者や障害者は身震いしながら、固唾を飲みながら、ひっそりと暮らしている。在宅診療への入り口に立ったばかりの医師 が何かを語れるわけではないが、でも私は、ここで今そうした患者のほんの一握りの人たちに対して、死への準備に寄り添っているのかもしれない。