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臨時 vol 163 「小児科医が見た神大震災 2」

医療ガバナンス学会 (2009年7月13日 11:35)


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          【1月18日】長田区で見たこと
          神戸市立中央市民病院・元修練医
          濱畑 啓悟

 18日の朝を迎えた。
 テレビはどのチャンネルも、変わり果てた神戸の街を次々に映し出していた。
神戸市中が壊滅状態と言ってよかった。中でも長田区一帯は焼け野原となってい
る。また長田地区の医療を担ってきた西市民病院自体が、見事に倒壊している。
さらに長田ばかりでなく東灘から西宮にかけて、一面に家屋が倒壊して、圧死な
どによる犠牲者は数知れない。そんな中、懸命な捜索、救出活動が続いていた。
 一方救急外来は相変わらずポートアイランド内の患者のみで患者数は少なかっ
た。救急車は西市民病院から救出された患者の転送だけだった。予想された重症
熱傷の患者は一人も来なかった。神戸大橋が通行止めだからか。しかしこの時も
緊急車両だけは一部徐行しながら通行することは可能だった。神戸市の救急医療
を担うべき中央市民病院が、この事態にポートアイランドという「島の診療所」
としてしか機能していなかった。
 「何とかしなければ、何かできることはないのか。」 という強い焦燥が募っ
た。
 「長田区に行きませんか。」
 そんな時、AMDA(アジア医師連絡協議会)のメンバーである産婦人科研修医の
Dr.川島から声をかけられた。ポートアイランドのヘリポートにつく補給医薬品
を、すでに長田区に入っているAMDAの医療チームに届けるため、車の先導をして
ほしいという。AMDAは岡山県に本部を置く国際医療救援団体で、1984年に設立さ
れ、以来アジア15ヶ国の医師達が互いに連携をとりながら、世界中で内戦や地震、
洪水など緊急医療救援が必要な事態が報道されると、すぐに現地に駆けつけて医
療救援活動をしてきた。僕自身、昨年6月にはネパール、9月にはカンボジアを訪
れた時、AMDAのドクターやその他の人に大変お世話になった関係もあり、AMDAの
活動にはできるだけの支援をしようと思っていた。
 ただやみくもに混乱した現場に飛び込むのは賢明ではない。そこでこの際AMDA
の活動を足がかりにして、実際の現場に行ってみるのがよいと直感した。そこで
小児科部長にお願いして、しばらく外の活動に専念するため、当面の小児科のデュー
ティーを外していただいた。さらにPM0時から全体会議が開かれるというので、
その会議でAMDAの活動を紹介し、協力について提案することにした。
 全体会議が開かれた。また昨日と同じように、前に進まない議論が続いていた。
また石川部長に近づき、AMDAについて話した。そこでDr.川島からAMDAの活動の
紹介、要請について説明がなされた。反応はネガティブだった。なぜ市民病院の
職員が、一民間団体の協力要請に応える必要があるのか。それよりも院内の問題
の方が大事なのではないか。
 それでも、病院としての協力は無理でも、AMDAとの連絡事務所として、ファッ
クス付きの電話を借り、連絡係としてDr.川島を充てることには成功した。拠点
は出来た。ここからいかに展開するかが問題だ。
 さて院外に出ていくためには車と携帯電話が必須だと考えた。橋の向こうの自
分の車には、ガソリンがほとんど残っていない。そこでポートアイランド内に車
を持っている数人の研修医に声をかけると、快く車を提供してくれた。問題は携
帯電話だ。病院持ちの携帯電話はないらしい。そこで迷ったあげく患者さんのお
母さんに事情を話して、携帯電話を貸してもらえないかお願いすると、これも快
く協力してくれた。
 一方7階の小児病棟では患者の脱出が続いていた。水もガスもなく、余震が続
く病院での治療の継続は困難だった。軽症で退院可能な児は、交通手段が確保さ
れ次第ポートアイランドを脱出してもらった。また親戚などを頼って避難する児
には、紹介状を書いて治療の継続を依頼した。さらに残った受け持ち患者を他の
先生方にお願いした。まだ家族の安否が分からず不安がる子や、入院児の祖父母
や兄弟が亡くなったと聞いて、呆然とするおかあさんの姿もあった。一方で児が
入院しているため空けていた家が全壊し、おかげで助かったという家族もあった。
 地震の直前に入院した児が、原因不明の意識障害が続いているという。その時
院内でCTが一台だけ稼働しているため撮影に行くことになったが、移動用の酸素
ボンベが病棟にないという。予備のボンベは倉庫にあるが、物が倒れて倉庫の戸
が開かないという。そこで倉庫の戸に何度か体当たりをして、出来たわずかな隙
間に体をねじ込み、倒れた棚を踏み越えて奥の酸素ボンベを取り出した。岩登り
の経験からすると何でもないことだった。
 新生児病棟に回ってみた。とにかくオムツが不足していると聞いていたので、
救急部から処置用の吸水シートを10枚ほど持って上がり、オムツの大きさに切っ
て使ってもらうようにすると、とても好評だった。哺乳ビンが洗えないため、や
むを得ず各自の哺乳ビンを決めて洗わずに使っていた。新生児に絶対に必要な衛
生環境は徐々に悪化していた。また粉ミルクも不足し始めていた。
 救急外来にポートアイランド内の港島中学校の体育館に避難している、生後1
ヶ月の乳児が哺乳不良を主訴に来院した。ミルクをあげるととてもよく飲む。要
するに母親が地震のショックで、母乳が止まってしまったようだ。乳児の健康に
問題は無かったが、環境の悪い体育館にいるよりは、と思いとりあえず新生児室
に入院してもらった。また同じ体育館にもう一人生後1ヶ月の乳児がいると聞き、
この子も病院に呼んで入院してもらった。まだまだ市内の避難所には、たくさん
の乳児が避難しているに違いない。
 一方院内でもただ待っているだけでなく、出て行って何か出来ることをしよう
という人もいた。眼科専攻医の女医のDr.朴は、長田の港に着くAMDAの物資の受
け入れ準備のため長田区役所に向かうという。
 「長田なんて自転車で行けばいいやん。」
 なるほど距離としては自転車で充分だった。しかし女医を一人で行かせるのは
あまりに危険だと考え反対したが、暗くなる前に帰れるよう早めに出発したいと
いう。迷った末に借りていた携帯電話を持たせることにした。結局この携帯電話
は役に立たず、逆に患者さんにはご迷惑をおかけすることになってしまった。
 PM5時を過ぎて、AMDAのドクターが病院に来られた。Dr.川島は先にヘリポート
に向かい、入れ違いになったようだ。長田区の状況をこの目で見たかったので、
そのままAMDAの人たちとDr.川島を追って、長田保健所に向かった。
 神戸大橋も緊急車両と言い、徐行すれば通れた。途中の見慣れた神戸の街は無
惨に変わり果てていた。街灯は消え、あちこちに消防車やパトカーのサイレンが
鳴り響き、さながら戒厳令下のようだった。いつも利用している新開地の三菱銀
行は、すべてのガラスが割れ、変形して巨大なオブジェと化していた。まるでSF
映画の中の世界だった。
 渋滞の中PM6時半頃、電気の消えた長田区庁舎についた。真っ暗な庁舎の1階
には、焼け出された数百人(?)の被災者が、毛布一枚で雑魚寝状態で足の踏み
場もない。入口では石油缶で火をおこして肉を焼いている人もいる。まるで話に
聞く空襲の焼け跡に、いきなりタイムスリップしたようだ。ここは本当に現代の
神戸なのだろうか・・・
 被災者の足につまづきながら、真っ暗な階段を庁舎5階の保健所にあがり、一
足先についていたDr.川島とDr.津曲らAMDAの人々と会った。聞けばAMDAは、医師
3名、看護婦2名、薬剤師1名の構成で、17日岡山の本部を出て長田へ向かい、当
日中に現地に着いて巡回診療を開始していたという。あまりに鮮やかな機動性に
驚く反面、その時はまだ、半信半疑だった。
 さっそく届いた薬品を分け、2班に分かれて巡回に出るというので、Dr.川島と
別れそれぞれについて行くことにした。
 「その高架の手前の道を左に入って・・・」
 AMDAのワゴン車の助手席に乗った女性が案内している。妙に裏道に詳しく、岡
山から来た人が何故・・・ という疑問が浮かんだ。聞けば長田区の保健婦さん
だと言う。
 最初に行った小さな三角公園では、暗闇の中数人がテントを張り焚火を囲んで
いた。さらに近くのほとんど野外と言っていい倉庫のような所に、お年寄りを中
心に40人程が毛布にくるまって雑魚寝していた。
 「風邪の方いらっしゃいませんか、熱のある方は・・・」
 文字通り聴診器一つ、血圧計一つでの診療が始まった。そこではほとんどが風
邪薬や胃薬を求める人たちで、高熱などの重症者はいなかった。
 次に行ったところは商店街のような所で、電気がついていた。電気の有無で、
こんなにも安心感が違うものだろうか。予定していた避難所以外にも、こちらに
も、あちらにもと連れられて行ってみると、公園でお年寄りが20?30人集まり焚
き火を囲んでいたり、集会所や福祉センターのような所に、10人位から40人程度
が集まって小さな避難所となっている所が幾つもあった。冷え込みの厳しい公園
にいるお年寄り達の血圧を測ると、220を超える人もいる。この人たちはこのま
まここで一夜を過ごすのだろうか・・・・ 中にはDKA(糖尿病性ケトアシドー
シス)で意識障害を来したおばあさんもおり、すぐに救急車を要請した。とにか
く厳しい冷え込みで、慌てて出てきたためポロシャツに白衣一枚の格好では、寒
さで震えが止まらなかった。
 見よう見まねで診療を始めてみると、患者が列を作って並ぶ。高血圧といって
も適切な降圧剤はなく、精神安定剤を渡し、とりあえず暖かくして安静に、と言
うしかない。また足や腰を打って痛くて動けないといっても、骨折があるかもし
れないが、勿論レントゲンもなく、シーネ(副木)すらない。とりあえず安静に、
と湿布を渡すだけ。いつになったら整形外科が開いてレントゲンを撮ってもらえ
るようになるのだろう。
 長田区の巡回で感じたこと。
・お年寄りが多い。
・下町で、地域のつながり、助け合いがある。
・高血圧その他の慢性疾患や障害を持つ人が、寒さを含めて非常に劣悪な環境にいる。
 保健所に戻ってみると、暗闇の中ローソクを立て、保健所職員、保健婦、AMDA
が集まってのミーティングの真っ最中であった。市の災害対策本部とはほとんど
電話も繋がらない状態だという。これは長田区独自の動きであるようだ。
 とにかく医者が足りない。AMDAが始めた診療活動を、地元市民病院として引き
継いで行かねばならない。そう考えた僕は、保健所に残って診療を続けたいとい
うDr.川島を残して一旦中央市民病院に戻り、ドクターを送ってもらうよう病院
に掛け合うことにした。
 病院に戻り長田区で見てきたことを救急部の同僚や研修医に話した。病院では
2階の外来の一部を使って臨時病棟を作り、西市民病院からの転送患者などを収
容し、研修医が交代で担当していた。看護婦さんたちも外の状況を知りたがって
おり、もどかしい思いをしているようだった。見てきたばかりの長田区の惨状を
研修医や看護婦さんたちに話した。

 

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