医療ガバナンス学会 (2014年5月13日 06:00)
この原稿は新潮社「Foresight」より転載です。
http://www.fsight.jp/author/mutsuko
内科医師
大西 睦子
2014年5月13日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
そんな中、実は目下、ハーバード大学では、内部で、極めて重大な「論文不正、撤回」問題が起きています。現在進行形の問題ですが、その経緯を辿り、当事者や大学側の対応を見ることは、STAP騒動の今後にも何らかの参考になるかもしれません。
●常識を覆す発見
2009年、ノーベル賞生理学医学部門の選考委員会があるスウェーデンの『カロリンスカ研究所』のジョナス•フライゼン教授らのチームが、画期的な研究結 果を発表しました。その内容とは、25歳で人間の心筋細胞は1年に約1%再生する、その再生能力は加齢とともに低下し、75歳では1年に約0.45%とな る、というものでした。従来、心臓の筋肉は再生する能力をまったく持っていないと考えられていたため、この報告には世界中の研究者が驚きました。しかも、 従来の生命科学の常識を根底から覆すこの発見は、他の研究室で再現性が確認されたのです。
しかしその後、2012年に、ハーバード大学医学部の関連医療機関である『ブリガム&ウィメンズ病院』麻酔科教授のピエロ•アンバーサ博士らの研究チーム は、フライゼン教授らの世界的発見よりはるかに高い速度の心筋細胞の再生を検出し、さらに、それまでの他の科学者の報告に反して、再生速度は年齢とともに 高まるという研究結果も報告しました。これまでの実績で世界中の研究者から高い注目を受け、非常に大きな影響力を持つに至っていた研究チームのこの報告 は、心臓幹細胞の分野での大きな論争を招きました。
アンバーサ教授らの研究チームによるその研究論文は、循環器領域の権威ある医学雑誌『Circulation』に掲載されていました。ところが、今年4月8日、突如その論文が撤回されたとのニュースが流れたのです。
●研究チームには日本人研究者も
このニュースは、すぐに地元紙『ボストン・グローブ』などが報道し、ハーバード大学内だけではなく、世界の科学コミュニティーに大きな衝撃を与えていま す。撤回された論文は、心筋細胞は、これまで考えられていたよりも速い速度で再生することができるということを証明したものです。つまりこの研究は、人間 の体は生まれながらに再生能力を持っており、その能力を損傷や病気の治療に応用する取り組みのひとつでした。
【Data faulted, Brigham study on heart cells is withdrawn,The Boston Globe,April 09】 http://www.bostonglobe.com/news/science/2014/04/09/study-prominent- brigham-scientists-retracted-due-compromised-data/CV5kwmhGCsdtJ7lQkHj0PM/story.html
『ボストン・グローブ』紙によると、『Circulation』誌を発行している『アメリカ心臓協会』の主任責任者であるローズマリー•ロバートソン博士 は、ハーバード大学医学部からの論文撤回の要求を受けたと述べています。ロバートソン博士は、具体的な問題が何であったかについて詳しく説明はしていませ ん。ただし、ハーバード大学医学部とブリガム&ウィメンズ病院の現在進行中の内部調査によって、論文中のデータに何らかの「研究不正」を窺わせる問題が見 つかったため、正当な理由で論文を撤回することが決定されました。
この論文中のデータ不正の問題が、果たして偶発的に起こった誤りなのか、あるいは意図的に起こした”捏造”であるのか、さらに研究チームのどの研究者の誤 りなのかは、今のところ大学・病院側も『Circulation』誌側も具体的に指定していません。この論文の共同著者には、論文の責任者であるアンバー サ博士以外にも、ジョセフ•ロスカルゾ教授など、世界的にも非常に知名度の高い科学者が含まれています。さらに、研究チームには日本人研究者も含まれてい ました。
ちなみに、このロスカルゾ教授は、論文が掲載された『Circulation』誌の編集長でもあります。ただし、発行元である『アメリカ心臓協会』として は、あくまでもハーバード大学側から提供された情報に基づくという前提付きですが、この論文に関してのロスカルゾ教授の役割には問題はないと判断していま す。
●データの改変
一方、そもそも09年に心筋細胞の再生能力を発見した『カロリンスカ研究所』のフライゼン教授と彼の同僚は、『ボストン・グローブ』紙の取材に対して、非 常に慎重にその論文を読み直してみたが、内容の全体を理解することができなかったとコメントしています。さらに、フライゼン教授は、その論文には間違った 単位の使用、不慣れな技術を用いたために生じた誤差など、小さな間違いがあったことも指摘しています。ただし、ところどころでデータポイントの解釈に一貫 性がなかったり、説明不十分であったり、同じようなデータを別の箇所では違う解釈をしていることもあり、加えて、意図的なのか偶発的なのかは分からないも のの、自分たちの仮説をサポートするように敢えてデータを改変していることなども指摘しています。
また、見逃してならない点ですが、この研究は、アメリカ国立衛生研究所(National Institutes of Health=NIH)からの資金によって支援されています。NIHのウェブサイトによると、アンバーサ教授の研究室は、2013年に政府機関から690 万ドル(約7億円)を受け取っています。
●別の論文も撤回申し入れ
そして最初の報道から3日後の4月11日、さらに新たなショッキングなニュースが流れてきました。
アンバーサ教授の研究チームは、2011年、英国の医学雑誌『Lancet』に別の研究論文を発表していましたが、その論文の撤回を申し入れる手紙を、ハーバード大学が同誌に送ったというのです。
【Brigham researcher facing new questions after retraction,The Boston Globe,April 11】 http://www.bostonglobe.com/lifestyle/health-wellness/2014/04/11 /harvard-investigation-leads-expression-concern-brigham-led-stem-cell-research/iTubGX14dxVXqVT4K1UzRP/story.html
それに対して『Lancet』誌は、この論文に対する懸念を示し、ハーバード大学がデータの整合性に対して調査を進めていることを発表しました。
【Expression of concern: the SCIPIO trial,The Lancet,April 12】 http://www.thelancet.com/journals/lancet/article /PIIS0140-6736%2814%2960608-5/fulltext
この論文は、「SCIPIO試験」と呼ばれる第1相臨床試験(初めてヒトに用いられる治療)の報告です。心筋梗塞(心筋細胞に酸素や栄養をあたえる冠動脈 が詰まって、血液が流れなくなり、心筋細胞が死んでしまう状態)による重症の心不全患者さんが、冠動脈バイパス手術(狭くなったり詰まった冠動脈の先に別 の血管をつなぎ、血液がその道=バイパスを通るようにする手術)をうけるときに、心筋の組織を採取し、体外で心臓幹細胞を増やし、4カ月後に冠動脈に注入 したところ、心機能などの改善を認めた、という研究内容です。実際の研究は、米ケンタッキー州にあるルイビル大学にて外科的に除去し、その心筋組織をハー バード大学医学部ブリガム&ウィメンズ病院に輸送して幹細胞を単離し、大幅に細胞数を増やして再びルイビル大学に輸送し、患者さんに注入しました。
今回の『ボストン・グローブ』紙の取材に、当事者であるアンバーサ教授は、研究に参加したほとんどの患者の心機能が改善したことを証明する自分たちの研究 データを信じている、とコメントしています。ただし、研究に関与したルイビル大学のロベルト•ボリ博士は、問題となっているデータはアンバーサ教授の研究 室で作成されたものであり、自分たちは関係ないと主張しています。
●累計で約58億円の政府支援
実は、この論文は、日本国内を始め、世界中で同種の治療研究における多くの臨床試験のキッカケとなっています。実際、アンバーサ教授のこの時の研究チーム にも日本人研究者が参加していますし、日本に帰国後も、その研究成果を活かすべく研究を続けています。ですから、論文の撤回となると大問題です。これまで に研究に同意して参加した患者さんに対する影響や、この研究を支えてきた莫大な研究費の問題も起こります。
アンバーサ教授は、NIHのウェブサイトによると、2000年以降、累計で5700万ドル(約58億円)の研究助成を受けている主任研究員です。さらに、 長いキャリアで、これまでに何百もの科学論文を報告しています。今回相次いだアンバーサ教授の研究報告に関する一連の指摘や議論を受け、多くの研究者たち は、この論文だけではなく、さらに過去にさかのぼって他の論文に対しても厳正な調査が進められることを願っています。
すでに、世界で最も権威のある米医学雑誌『The New England Journal of Medicine』が、2011年のアンバーサ教授らの別の論文に対して、ハーバード大学医学部に問い合わせをしています。
この騒動の最中、米誌『フォーブス』には信じ難い記事が掲載されました。それによると、アンバーサ教授の研究室をよく知っているというハーバード大学の研 究者が、ハーバードの多くの関係者はこの件に関しては特に驚いていない。何か驚くことがあるとすれば、今回の疑惑が表面化するまでにずいぶん時間がかかっ たことだ、とコメントしているのです。つまり、アンバーサ教授の研究内容には以前から疑惑がもたれていたということです
【Lancet Editors Raise More Questions About Prominent Harvard Stem Cell Researcher,Forbes,April 11】 http://www.forbes.com/sites/larryhusten/2014/04/11/lancet-editors- raises-more-questions-about-prominent-harvard-stem-cell-researcher/
●ハーバード大学の対応
現在までのところ、『Circulation』誌、『Lancet』誌のどちらも、問題の本質や、問題となっている箇所の研究者を特定していません。 STAP論文とは違い、すでにアンバーサ教授らの『Circulation』誌の論文は撤回されました。『Lancet』誌に対しては、ハーバード大学側 から撤回を申し入れています。恐らくはすでに徹底した内部調査が進んでいると思われます
この件に対して、最も責任のあるアンバーサ教授は、ハーバード大学とブリガム&ウィメンズ病院双方で行われている調査に全面的に協力しており、現在は調査 中なので具体的にコメントすることはできないこと、そして2つの論文の基本的な結果が正しいと信じていることを、『ボストン・グローブ』紙の取材に答えて 声明を出しています。つまり、アンバーサ教授は、今後すべての決断をハーバード大学に委ねるということです。ですから、これからは、この問題に対する決断 は、一貫して大学側が行います。
私は、この声明から、アンバーサ教授が弁護士を立てて、大学と戦う可能性はないと見ています。なぜなら、ハーバード大学は、論文撤回を要求した時点ですで に決定的な証拠を握っていると思いますし、裁判問題になれば、大学側は、巨額の政府の資金を流用したという理由で教授に対して刑事責任を問う可能性も生じ るからです。米国では、実際に刑事問題になった研究不正の例は少ないですが、それでも、過去にバーモント大学のエリック•ポールマン氏が研究不正で刑務所 に入った例があり、研究不正の問題はとても慎重な対応がなされているのです。
【Poehlman Sentenced to 1 Year of Prison,AAAS, 2006.June 26】 http://news.sciencemag.org/2006/06/poehlman-sentenced-1-year-prison
STAP細胞と心筋細胞の論文不正問題は、同じ時期に、ともに同じ幹細胞分野から起こりました。ところが、その不正に対する対応が、日米では大きく異なり ました。ちょうど本稿を執筆している最中の4月24日、『ボストン・グローブ』紙が両者の比較を記事にしました。私自身は、この記事のすべてに賛同してい るわけではありませんが、興味深い指摘も多いです。
【A tale of two stem cell research papers,The Boston Globe,April 24】 http://www.bostonglobe.com/news/science/2014/04/24/scientists- puzzled-about-what-went-wrong-with-heart-stem-cell-paper/ZLyaogS0QPag595P7hWJxL/story.html
STAP細胞問題を考える上でも、今回のハーバード大学の事例を引き続き注視していきたいと思います。
【略歴】おおにし むつこ
内科医師、米国ボストン在住、医学博士。1970年、愛知県生まれ。東京女子医科大学卒業後、同血液内科入局。国立がんセンター、東京大学医学部附属病院 血液・腫瘍内科にて造血幹細胞移植の臨床研究に従事。2007年4月からボストンのダナ・ファーバー癌研究所に留学し、2008年4月からハーバード大学 にて食事や遺伝子と病気に関する基礎研究に従事。