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Vol.116 被災地が教えてくれた現代社会の”風土病”

医療ガバナンス学会 (2014年5月22日 06:00)


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可視化されたリスクに怯えるか、自然の恵みとともに生きるか・・・

※このコラムはグローバルメディア日本ビジネスプレス(JBpress)に掲載されたものを転載したものです。

http://jbpress.ismedia.jp/

相馬中央病院内科医
越智 小枝
2014年5月22日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp


この4月に、福島県の浜通りは震災後3回目の春を迎えました。3年経った今、人工物のなくなった浜の大地と自然は以前より栄えているかのようにすら見えます。では震災で人が失い、自然が失わなかったものとは、いったい何なのでしょうか。

●自然と人間の解離
福島県には滝桜で有名な「三春町(みはるまち)」という土地があります。この土地の名前の由来は、春の象徴である三種の花、梅、桃、桜が同時に咲くことから名づけられたそうです。
三春町に限らず、福島県の春は唐突に、かつ一度に訪れます。桜と梅が一斉に咲くだけでなく山吹とレンギョウの黄色もきれいに混じります。足元にはツクシと 水仙と菜の花が咲き、ウグイスがさえずる中ツバメが飛び交い足元ではカエルが鳴いているのですから、こちらの俳人は季語をどうしているのだろう、と要らぬ 心配までしてしまいます。
そのような春爛漫の中、インペリアルカレッジ・ロンドンの医学部6年生、アリスさんが被災地見学にいらっしゃいました。晴天に恵まれた海沿いの通りを立ち入り禁止区域まで南下するドライブをしながら、いろいろなお話をさせていただきました。
途中、真っ青な海と花盛りの山を見ながら、彼女がつぶやいた言葉が印象的でした。
「こういう景色を見ていると、人間以外の生き物はすべてが幸せそうに見えますね。人間がいかに社会的な生き物か、ということに気づきます」

●失う人、「失わない」人
津波と原発事故は被災地の人々から多くの人の命と健康を奪いました。土地も、資産も、漁港も、また塩害により農作物の育つ土壌も奪われました。さらに原発事故は、放射能の直接的な影響を及ぼす以前に避難生活・風評被害により多くの方の健康を損なっています。
「それでも妙に大丈夫な人がいるんですよ」
震災直後より相双地区の精神科病院を支えてきた医師が、口を揃えて言ったことです。
「もちろん、被災の後抑うつ状態になっている方は多いです。また、『精神病院』にかかることが身内の恥、と考える文化も強く残っていますから、病院を受診 する人よりもはるかに多くの人々が精神的な問題に悩んでいると思います。しかしそれらを差し引いても、予想したよりは落ち込んでいる方が少ない。この地に とどまられた方々には少し選択バイアスがかかっていると思います」
この医師らの言われた「妙に大丈夫」な人々を表現するのは難しいのですが、しいて言えば、2つの特徴が挙げられます。1つは健康というものを自然の一部として受け止めていること。もう1つは、未来に対して「合理的」な考えをしない、ということです。

●合理的でない人々
もちろん相双地区でも、多くの人はリスクに対し「合理的」判断をした結果この地に住んでいます。例えばいろいろなリスクを考えたうえでこの土地が安全だと考える、あるいはリスクよりもベネフィットが勝ると考える。その結果ここにとどまられているのです。
しかしそれとは別に、因果関係や確率論ということを超越して暮らしている方々が確かにいらっしゃいます。
正直に言うと、このような方は患者さんとしては「やっかい」です。例えば、腰の曲がった方が圧迫骨折を繰り返して頻繁に病院にいらっしゃるので、骨粗鬆症の治療を勧めると、「もう年だから、それはいいよ」と断られる。
このような患者さんにとって、
骨粗鬆症→腰が曲がる→圧迫骨折で痛くなる→骨粗鬆症を治す
という理屈よりは、
年を取る→腰が曲がる→痛いので病院に行く
という方が自然な考え方なのです。
あるいは、笑い話のような話もあります。アルコール依存症を治療しようと、ある医師が断酒剤(アルコールを摂取すると頭痛がするのでアルコールを摂れなくなる薬)を処方したところ、次の診察の時に、
「先生、この薬を飲んでお酒を飲むと頭が痛むんだけど、薬変えてもらえる?」
と言われたとのこと。この患者さんは、
アルコール依存症→薬を飲む→頭が痛いのでアルコールが飲めなくなる→治療成功
という考え方の代わりに、
アルコールの病気→アルコールを飲む時に薬を飲む→頭が痛いので病院に行く
という理屈で生きていられるのだと思います。

●未来予測と合理性
一見前者は合理的であり、後者は非合理的に見えます。しかし前者の「合理」が成り立つためには、重大な前提があります。それは、
「未来は人(医療)によってコントロール可能である」
という信仰です。
人は、人間以外のものの未来に対してはそこまで強い信念を持っていません。例えば農家で作物を育てる時に日照りが続いたとします。そのような時灌漑をしよう、とすることはあっても、「雨を降らせよう」という発想をする人はあまりいないと思います。
自然を操ることをおこがましい、と考える謙虚さがそこにあります。それが、農作物が「大地の恵み」と呼ばれる理由です。
患者さんの中にはこれと同じように人の健康に対しても「自然の恵み」と考える方々がいらっしゃいます。
非常に医者泣かせの考え方なのですが、この方々には予防、とか早期治療、という理屈が通じない代わりに、未来への不安に対しても泰然自若と構えている。
「本来無一物」とはまさにこのことなのではないか、と言うとさすがに言い過ぎかもしれませんが、それが「妙な強さ」の秘訣のように思います。

●「人間」としての被災経験とは
人が未来の不確実性を計算したり、予測しようとし始めたのは、宗教改革以降である、と言われています。それ以前の人々は、未来は「神の決めたもの」「運命」であり、例えば賭けごとに使われるサイコロの目ですら予測しようとは考えていなかったようです。
未来は完全に予測不能であり、天災も、人災も、降りかかれば過ぎるのを待つしかない。現代から見ると野蛮にすら見える、この中世における「非合理的」未来 観ですが、自然と共に暮らしてきた人々の中にはこれが根強く残っている。そしてその考えが一部の人々を救っているのではないか、と考えることがあります。
未来予測とは、単純に言えば「損得勘定」です。その中でも近年の将来予測はリスク回避という色をより強く帯びています。
もちろんリスクを回避しようという努力自体は重要なことです。この考えがなければ防災も予防医学も成り立たない。私自身のアイデンティティーも崩壊してしまいます。
しかし確率の計算が発達し、リスク回避を偏重する人々が増えた結果、不確定要素に対する恐怖心もまた膨らみました。昔であれば自然に対する「畏敬の念」と して神に祀られていたこの恐怖心から目を背けることで、勘定できないリスクはないものにしてしまう風潮(曖昧回避性)が、社会には強くなったのではないで しょうか。
その最たるものが放射線に伴う風評被害と情報不足による恐怖心でしょう。
放射線量を測定している福島県は、リスクを可視化したために他県より危険だという認識を持たれてしまいました。そして測定できるリスク、すなわち放射線、 という一点のみが誇張された結果、可視化されない避難生活の負担やコミュニティ崩壊に伴うリスクは等価として処理されていません。

●未来と今を生きるバランス
このように不確実な未来に対して恐怖心を持つという「合理的」な考え方は、運命や神々の信仰を止めた近代の人間特有の不安だとも言えます。
もちろん資本主義社会に暮らす人間である以上、未来から全く切り離された生活をするのは不可能です。私たちは常に将来への投資(リスク回避も含め)と今の生活との間でバランスを取って生きています。
しかし今の日本では、このバランスが今を犠牲にして未来を設計する、という方向に傾きすぎているのではないでしょうか。
例えば「勝ち組」「負け組」という言葉があります。将来が想定通りに行った場合に、ある集団が一方よりも幸せになる確率が高い、というだけの言葉です。
もちろん成功の可能性が高い方に賭けるのは当たり前でしょうが、問題は、「今この時」や「自分自身」を犠牲にしてまで未来へ賭け続ける「勝ち組教」の信者 たちです。このような人々はすべてのリスクを計算し、集計し、よりリスクの低い方を選んだという確証があるまでは、安心できません。
狭いポジションへの熾烈な競争や、倫理観に欠けた競争の数々。最近よく取り沙汰されている不正論文にも、共通の根を感じます。
彼らは一流誌に受理されなければ負け組になるかもしれない、その不確定要素に対する恐怖心に耐えられなかったのではないでしょうか。そのような「今どきの」見方もできると思います。
負け組以上に今社会が恐れているもの。それは「来るべき超・高齢化社会」でしょう。社会が女性に子供を産ませようというプレッシャーには度し難いものがあります。
子供を産みたい女性のためにはとても良いことですが、子供を産まない女性が社会に貢献していない、とする風潮の肥やしとなっていることもまた確かです。
もともと未来とは不確定のものです。2050年までに何が起こるか、誰にも分かりません。ましてや子供が増えても自分がその恩恵にあずかれる保証もないものに、なぜ国民の義務、と必死になるのでしょうか。
想定外への恐怖、という現代社会の「風土病」が、様々な社会問題の隙間に見え隠れしている気がします。

●しなやかな社会の現場
人だけが復興しない、とアリスさんが言われた意味をもう一度考えてみます。人だけが復興しない、のではなく、人だけがこの大災害を「悪」だと考えているのだ、と。それも、過去における悪ではなく、未来永劫にかけての絶対悪だと考えているのではないでしょうか。
今失った町は、将来もずっと失い続けるであろう、という予測が、復興を大きく阻んでいる。災害を機会と捉える人が、あまりにも少ない現状を見ると、そう思わざるを得ません。

●未来は変えられる、しかし不十分に
浜の「妙に強い」人々は、悪く言えばただ何も考えていない。よく言えば、災害に対して善悪という色を持たない、そういう人なのかもしれません。いくら悪く 考えようと思っても、自然の恵みは容赦なく降り注ぎます。その恩恵に任せて未来に対する憶測を少しだけ鈍らせ、そうすることでゆとりとあそびを作る。
この地域には知らず知らずそういう生き方が根づいているのだと思います。しなやかな社会、震災に対するコミュニティ・レジリエンスとは、このようなところに生まれるのではないでしょうか。
私自身は職業上、未来予測から離れることはないでしょう。これからもリスク算定・予防医学・防災対策を学び、推進していくつもりです。
しかし相馬に住む個人としては、少しの未来の不安に目をつぶり、病や健康に対して謙虚になる、そういう生き方も少しずつ学んでいきたい。「みはる」のエネルギーが自分にも少し浸透しているようです。

【略歴】おち さえ 相馬中央病院内科医、MD、MPH、PhD
1993年桜蔭高校卒、1999年東京医科歯科大学医学部卒業。国保旭中央病院などの研修を終え東京医科歯科大学膠原病・リウマチ内科に入局。東京下町の 都立墨東病院での臨床経験を通じて公衆衛生に興味を持ち、2011年10月よりインペリアルカレッジ・ロンドン公衆衛生大学院に進学。
留学決定直後に東京で東日本大震災を経験したことから災害公衆衛生に興味を持ち、相馬市の仮設健診などの活動を手伝いつつ世界保健機関(WHO)や英国のPublic Health Englandで研修を積んだ後、2013年11月より相馬中央病院勤務。剣道6段。

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