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臨時 vol 171 「医療者の責任と医療事故調」

医療ガバナンス学会 (2009年7月24日 06:50)


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           済生会宇都宮病院      中澤堅次
 厚労省医療安全推進室長佐原康之氏が、「診療関連死の警察への通報範囲研究
班」の報告会で挨拶し、”医療事故調査と責任追及とは完全に切り離すべきとい
う意見は、生理食塩水と間違えて消毒薬を静脈内に注入したことが明らかになっ
た場合でも、調査結果と責任追及は無関係だという主張になり、それはプロとし
ての責任逃れだ”と話したと報道されている。今回は医療者の責任と医療事故調
というテーマで考える。
 事故調査委員会の設置のもとで、医療者は過誤による死亡事故の責任を全うす
ることは出来ない。自らが行う詳細な調査により事故の全容を解明し、家族に報
告するとともに、謝罪と損害に対する賠償を提示し、再発防止の対策を立てるこ
とが、医療者にとって責任を全うする唯一の方法である。
 期せずして広尾事件に言及することになるが、あの事件の理想的な解決は、病
院が真摯に調査し、院長が調査結果を家族に正直に話し、取り違えミスにより死
に至らせてしまったことを詫びるべきだった。当然弁護士を入れて損害賠償の交
渉をして、都にも、警察にも自ら届け出る。それでも納得が得られなければ訴訟
を勧めるというのが通常の事故の対応である。問題は、容認しがたい事故に病院
に責任を持つ姿勢が無かったことであり、当事者の責任を問う法律が整備されて
いなかったからではない。病院が詳細な事故調査を行わず、家族に報告すること
を怠った、つまり被害を生じた医療事故に関して説明を受ける病人の権利が無視
されたからである。
 一部と言われるかもしれないが、医師や病院経営者は、病人権利という倫理規
範に敏感である。世界医師会は第二次世界大戦の苦い教訓から、数回にわたって
病人権利を定義し、世界中の医師が集まる総会で宣言を採択し、この宣言にそっ
て各国が法案化までして社会に根付け大切にしようとしている。この権利を擁護
し推進することは、医療にとって最も重要な、病者との信頼関係の元になる理念
と考えるからである。
 世界的に通用する医の倫理である病人権利は、日本では公式に認められていな
い。日本にも法制化の動きはあったが、当時の与党と医師会の反対もあり実現し
なかった。しかし、この権利は裁判の判断基準になり、国民皆保険もこの思想の
通りにデザインされた。変らなかったのは、医師の団体と、当時の教育を受けた
医師、それと厚生労働省だけだった。
 医療は技術の進化で状況は大きく変り、病者の苦痛に配慮する空気も生まれた。
広尾事件で看護師が準備したのは、佐原氏がいう単なる生理食塩水ではなく、針
を刺す回数を減らし、注射の痛みを軽減するために準備したヘパリンと言う注射
液だった。そこで事故は起きた。当時の分析では注射液を準備する同じ作業台で、
危険な消毒薬の準備をしたことがミスとされ、看護師が有罪になった。当然なが
ら、看護師は自分の間違えで人を殺すことなどまったく予測してなかったし、日
本中の医師や看護師は、ヘパリンロックという、痛みを思いやることから始まっ
た簡単な工夫が、日々行われる作業の組み合わせで人の命を奪うことをこのとき
にはじめて知ったのである。誰も気づかない、教えてももらえない落とし穴に彼
女は落ちた。そのとき彼女はプロとして命を預かる作業を行っていた。そのこと
で裁かれたのである。
 厚労省や一般の人から見ればミスによる人の死は、関係したものが当然罰を受
け、身を持って罪を償うべきであると考えるだろうが、人の命が身近にある現場
から見れば、予想反して遭遇する事故は必ずあり、変化が激しい医療では常に新
しいリスクが発生する。また、新しいリスクはおきてみないと分らないことが一
般的で、そのために自分が罪人になる可能性は高い。その度に殺人罪を意識する
のでは仕事は続けられないと思う。それは遺族や本人の悲しみとは異質であるが、
そのことを言っても分ってもらえないことも理解している。だから現場を去る。
いままでは事故を起こした個人の問題だが、これからは全ての医師が、避けられ
ない事故に伴う罪を、現実として実感する法律上のルールができる。
 佐原氏の意見は、プロが落とし穴に落ち、支えている人の命が損なわれること
は許されない、国家として取り締まって責任を取らせることが信頼関係の構築に
なるという。国が誤りを許さなければ、国民も罪を許さない。許さない患者と許
されない罪人との間に、医療におけるような高度な信頼関係は成り立たない。
 人は過ちを犯す。アナウンサーも言い間違いをし、官僚も計算違いを起こすが、
届け出て過ちの原因を究明し、再発防止に第三者をいれろとは言われない。医療
者のミスも人間が犯すミスであることに変りはないが、異なるのは仕事そのもの
が生命と関係し、ミスは生命に直結する。複雑で専門性が高く一般には理解され
ない部分があり、ミスの訂正や取り消しが効かない。プロとしてミスが許されな
いという佐藤氏の発言は、誤りを犯す個人の責任でミスを無くさせようと言うも
ので、リスク管理の常識では効果がないと否定されている手法である。国を代表
する立場の人が、前時代的な手法に固執することは責任者として的確性を問われ
るものである。医療者のミスを容認しろと言うのではない。医療者も人間、ミス
は避けられないから、いつ殺人犯になるか分らない。政府が進める方法ではプロ
として責任は取れないことを言っている。
 この絶望的な事態にWHOのpatients safetyに関するガイドラインは、一つの方
向性を示したものである。ミスにより被害を受けた人に対する調査と説明、謝罪
と損害の賠償、第三者は調停の立場に立ち、当事者の責任は問わないと言うもの
である。佐原氏に限らず、日本ではこのガイドラインは責任逃れと取る人が多い。
確かに隠蔽体質の医療界全てがこれを忠実に実行できるとは思わない。欧米の常
識がなぜ日本では生ぬるいと受け取られるのだろうか。
 WHOのガイドラインの前提には、病人権利が法的に認知され、医の倫理が法的
にも定義されているという背景がある。つまり欧米には法的な拘束力を持つ病人
権利が存在し、この権利が存在しない日本は前提条件を欠くことになる。WHOの
ガイドラインでは、事故の詳細を知る権利は、病人の権利に包括され、カルテの
隠蔽や改ざんや家族への報告などは当たり前すぎて、医療者の義務としてわざわ
ざ言及する必要がないのである。
 日本の医学教育では、病人権利を学生に教えない。医師会が認知せず、法的な
拘束力のない病人権利を意識する習慣が無いからである。重要なことを教えられ
ないまま医師は育ち、あいまいな優しさを基準にそれぞれの常識で医療が行われ
る。このことが今日の混乱を呼んでいる。
 世界医師会に代表を送った日本医師会は、その重要性を知る立場にあったが、
何故かこの宣言の採択に唯一賛成の意思を表明しなかった。その後日本の医療は
倫理に関して鎖国状態になり、医療の進化にリスクの対策が追いつかず、事故の
多発に苦し紛れの事故調の法制化を望んでいる。医療倫理は本質からますます遠
ざかるというのが真相だと思う。
 日本も普通の国のように病人権利の法制化を行い、第一ボタンをしっかり掛け
るべきである。そうでもしないと、その場その場で新しい基準を、年代わりの大
臣の責任で決め、法的資格も不明確な医師が勝手に選ばれ、人の罪を決めること
になる。時代が変れば、昔行われた不適格な処分に名誉回復をしなければならな
いこともあるだろう。このようずさんな仕組みを作って、国はどうやって国民の
医療に責任を持つのかと思う。旧弊といえども180度方向を変えることは難しい
というかもしれないが、誤った方向性はいつか必ず弊害を生じ、取り返しがつか
ない事態に発展する。正しい方向性はどんな状況にあっても進路の目標として見
失ってはならならない。
 リスクの高い現場で、誤りを犯す人間として医療者が責任を取る方法は限られ
る。完璧を要求されれば危険な現場から退散するしか方法が無い。透明性を持っ
て事故を解明し、被害を受けた人と家族に誠意を尽くし、当事者同士の信頼を取
り戻すことが唯一医療者に許される解決方法なのである。

 

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