近頃医療関係のニュースがネット版も含めて面白いと思う。突っ込み方が深く
なったのでいろいろなことがわかる。大阪の産科医の飲酒事件も酒飲み分娩立会
いについていろいろな反応が見える。
アルコール臭のある医師に子供を取り上げてもらった妊婦さんの気持ちはよくわかる。しかし、酒気帯びは事故がおきなくても罪になるから、産科医の酒気帯びは飲酒運転よりも悪質という意見にはいささか弁護がしたくなる。世界一長い勤務時間、夜間も含めた待機、病院にいる時間が長い産科の医師は、酒を呑むとどこかでプライバシーと勤務とが重なってしまう。苦労を掛けている人に、たまには人間らしく酒も飲ませてあげたいが、苦労が増えれば増えるだけ罪人になってしまうのは気の毒だと思う。本人の裁量で安全が確保出来ているのなら、多少の寛容はいただけないのかということである。
記者は厚労省にコメントを求めており「考えられない常識はずれ、法律で取り締まらないのは緊急もあるから大目に見てやっている」という。厚労省がこう言うのだから一般の人々は、産科医は法律で取り締まられて当然ということになる。
このごろ医療の世界の考え方が世の中と逆になることが多くなった。つまり、酒を飲んだ医者でも、いないよりは良いという気持ちになるのである。事件が起きた病院の院長が、忠告はしたが処分をしないとコメントしたのがこれである。処分されて医師がやる気を失えば連鎖が起こりそれどころではなくなるということである。この病院では年間1700人のお産をこなす、この数は全国でもトップクラスだが、医師8人の体制はむしろ少ないほうである。開き直るつもりはないが、法律で処分するとかしないとかの議論にするのは大げさである。すくなくとも、当直医が酩酊していて、代わりに助産資格のない看護師が取り上げたくらいまで追求の閾値を下げないと、先も見えない産科医不足には対応できない。
チョナンカン氏酩酊事件も同じようなものだと感じてしまう。酒を飲んで抑制が取れ、誰もいない公園で裸になってなぜ悪いと思うが、警察沙汰になれば、失敗も犯罪だし、アルコールと麻薬中毒の区別もしなければならない。どちらも延長上に殺人も伺えるから逮捕も自宅捜査も正当化される。裁かれる立場から見るとこれは冤罪である。いい気になって寝ていただけで家宅捜査はないだろうとなる。
日本の法律はお上が行う上意下達の色彩が強い。上意は財界の意図だったり、団体の意図だったりする。民衆の声で法律が出来ることもあるが、お上の視点で作られるから、下から読んでいくとおかしいことが多い。派遣労働の解禁は経済界から見れば規制改革の法改正だったが、国民からみれば生存権の侵害だった。官僚が地震のたびに、国民の安心安全、快適な生活といって法律のレベルを上げてゆくと、大きな地震でも壊れない完璧な家が出来るかもしれないが、高価すぎてすめる人はいなくなる。
法律がもつ重要な機能に国民の権利を守るというのがある。基本的人権、病人権利、エイズにかかった人の生存権など、民主主義国家ではこの手の法律が目に付き、お上は権利擁護の場面で登場する。らいに関する法律は日本では病人の権利を侵す形で存在した。お上の視点で、感染から社会を守ると言ったから、科学的に根拠が無くても論理が通ってしまった。病人権利から見ればつじつまが合わないことがすぐ分る。
国民がなんでも法律に頼り、お上が権利を言い出すと、見識のない政治家や、邪悪な官僚がいれば、見かけは民主国家でも社会はひとたまりも無く変質する。国民は喧嘩や言い合いをしなくなり、接遇が幅を利かせるが、裏では脅しやいじめが行われ、巧妙な詐欺が増える。社会は寛容を失い、人間らしさのない、殺伐とした、見せかけだけの安全社会が出来てゆく。寛容は家族や自分自身のかかわりでも失われ、虐待や自殺、親族殺人などもこれと無縁と思えない。
膨らましすぎたので元に戻るが、妊婦さんは酒を飲んでいない医師に診てもらう権利がある。しっかり院長に文句を言うべきで、院長は当事者に文句を言うべきである。夜中酒飲みがいてうるさいから見に行って注意をするのはよい。しかし、このくらいで警察を動員することはどうかと思う。おかげで些細な失敗に総務大臣が出てきて私見を述べたりすることになる。公的権力はもっと重大な局面で使われるべきである。
日本の医療も施療救済としてお上の意思で始まり、やはり上から下への方向性が強い。医療制度は本来、病人の視点で組み立てるべきものである。最近は官僚統制が強くてなおさらつじつまが合わなくなった。その中に学会も医師会も巻き込まれて、医療を受ける側の権利が複雑に絡み合う。問題解決を法律に求めるのなら、やはり憲法にある基本的人権を基盤にするべきだろう。病人権利の法制化は欧米ではとっくの昔に行われている。医療問題の憲法として、生存権、死生観、負担と国の責任など幅広い視点から議論されることが必要と思う。