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臨時 vol 176 「新型インフルエンザ対策として今、最も必要なもの」

医療ガバナンス学会 (2009年8月2日 11:26)


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        東北大学大学院医学系研究科 感染制御・検査診断学分野
        森兼啓太

 新型インフルエンザに関する報道が少なくなって久しい。日本が今、季節性イ
ンフルエンザの流行しない梅雨から夏に向かっているので、5月中旬に神戸・大
阪に端を発した日本での流行が一旦終息したと思っている人も少なくないであろ
う。
 報道が少なくなったのは、単にマスコミがネタにできるような話題が少なくなっ
ただけの話である。もちろん、新型インフルエンザ患者が発生するたびに大きく
報じるべき、などと主張しているわけではない。それはさておき、日本における
患者発生数は5月下旬に一旦少なくなったものの、6月に入って再び増加に向かい、
7月に入ると1日数十名、さらに中旬には1日100名を超えるようになった。
 これまでは、インフルエンザ様症状の患者に対して、季節性か新型かを区別す
るために新型の診断のためのPCR検査などを行い、国として患者数を正確に把握
することに務めてきた。しかしそのために大きな労力と費用をかけてきたことも
事実である。PCR検査は一件あたり最大で数万円の費用(公費)がかかり、さら
には地方衛生研究所の貴重な人手を必要とする。これだけ患者発生数が増加して
くると、もはや患者数を正確に把握すべき時期ではなく、あまり手間をかけずに
患者発生状況を把握できるサーベイランスシステムが必要になってくる。国では
現在そのようなシステムを構築中であり、一部稼働しているものもある。さらに
は、抗ウイルス薬耐性などの監視も行なわれている。全数報告を行なわなくてよ
くなったことで、国(厚労省)だけでなく、地方の保健福祉部局も随分負担が減っ
たのではないかと考える。
 さて、現在日本中で1日数百人の患者が新たに発生しているであろう。そのほ
とんどが新型としての診断を受けず、インフルエンザとして抗ウイルス薬の処方
を受けるか、医療機関を受診することなく自宅加療し、数日のうちに回復してい
るものと思われる。これまでに検査確定した5,000人を超える日本人のうち、誰
一人として死に至っておらず、数だけから言えば、致死率0.05~0.1%と言われる
季節性インフルエンザより致死率は低い。
 しかし、これは現在の流行状況に基づいての話である。すなわち、現在は学校
での集団発生が中心であり、職場や地域の集まりにおける集団発生は非常にまれ
である。日本での流行の初期には、関東地方で結婚式における20歳代から30歳代
の人々の小集団発生があったが、このような事例は今でもまれである。結果とし
て、多くの患者が10歳代、0歳代、または20歳代前半である。厚労省から発表さ
れるデータの最新版(7月22日発表)では、4,433例中10歳代が2,051例、10歳未
満が878例、20歳代が761例と、この3つの年齢層で全体の83%を占める。
 今後、地域や職場で流行が広がり、成人から壮年、そして高齢者の感染者が増
加するかどうかはわからない。若年者と同様に成人から壮年層は新型インフルエ
ンザA(H1N1)への免疫をもっていないか、あっても非常に弱いということが知
られている。諸外国で重症化している症例は妊婦や基礎疾患を有する成人、肥満
者に多いと見られており、成人から壮年の年代で発生する患者の中から重症例や
死亡例が出ることは早晩避けられないと考える。
 秋になるか冬になるか、あるいはまもなくなのかわからないが、いずれ大規模
な流行、いわゆるパンデミックになると覚悟しておくべきであろう。その際の患
者発生数は今の患者数の比ではない。過去のパンデミックでは、最初の大きな流
行の際に人口の20-40%が罹患している。仮に2009年10月から2010年3月までの6ヶ
月間に日本人の30%が罹患するとすれば、180日間に3600万人の患者が発生し、単
純計算で1日あたり20万人と、桁違いの数である。しかもこれが一様に発生する
わけではない。大流行の立ち上がりは少ない数であり、ピーク時にはこの何倍に
も達するであろう。もちろん全員が医療機関を受診するわけでもないが、今のま
まの外来診療体制ではさばききれないほど多くの患者が医療機関を訪れることは
十分想定される。
 今後に向けた厚労省の新型インフルエンザ行動計画運用指針では、重症者に対
する病床の確保がうたわれているが、どの程度の割合で重症者が発生するかが全
く読めない以上、常時病床を空けておくなどの本当の意味での「確保」は不可能
である。入院患者が発生した時点で対応せざるを得ないだろう。それよりも、ほ
ぼ確実に起こるであろう、外来診療における患者の急激かつ大幅な増加に備える
方が優先である。
 学校閉鎖や接触者の予防内服などを行なって、一時的に患者数の増加を防いで
も、市中で感染伝播が続く以上、それらによって罹患しなかった人たちもいずれ
どこかの時点で罹患するだろう。つまり、これらの対策では罹患患者総数を減ら
すことは困難である。一方、罹患患者数を減らせる可能性がある新型インフルエ
ンザ対策が、ワクチンの有効活用である。例えば、1968年の香港インフルエンザ
の際には、7月末から8月初頭にかけて新型ウイルスが日本に侵入したが、即座に
ワクチン製造を開始して10月には関東地方の小学生を中心に接種が開始された。
その冬の本格的な流行と並行してワクチン接種が進められた。
 今回も、北半球の人々にとっては幸いなことに、春期に新型ウイルスが発生し、
大規模な流行の前にワクチン製造の時間的猶予が与えられた。この猶予を有効活
用するためには、単にワクチンを製造して接種するだけでは不十分である。日本
でこの冬にむけて利用可能な新型インフルエンザA(H1N1)ワクチンは約1700万
本であり、国民の約10分の1の数である。希望者が全員接種できるわけではない。
従って、接種の優先順位を決定する必要がある。
 事前に準備された新型インフルエンザ対策の行動計画において、厚労省の新型
インフルエンザ専門家会議などでかなり時間をかけてワクチンの優先順位に関す
る議論が行われた。その際には、いくつかの案が示され、ウイルスの病原性や流
行状況などをかんがみて判断するという結論になった。例えば、ウイルスの病原
性が高く、成人や壮年層に多くの死者が出ると、社会が崩壊してしまうので、こ
の世代を最優先に接種して社会防衛を計る必要がある。病原性が低く、これらの
世代がたとえ罹患しても早期に回復するような状況であれば、高齢者や幼児など
重症化しやすい集団に優先的に接種する。このように、限られた本数をどの世代
・集団に優先的に接種するのが国民全体にとって最も有益かという判断を行わね
ばならず、簡単な問題ではない。
 この問題には正解がない。徹底的に議論して、合意を得る必要がある。少なく
とも専門家の間では、現在利用可能な知見を整理して、国民が(少なくとも頭の
中では)納得できる方針を策定する、あるいは選択肢を提示する必要があるだろ
う。
 今回の新型インフルエンザは今のところ若年層での流行が中心であり、この層
に大規模な接種を行えば流行を遅延または縮小させることができるかもしれない。
次に、本疾患は大多数の人が回復している。重症化や死亡を防ぐのも一つの目標
であり、そのためにワクチンを使用するのなら、妊婦や小児、肥満や基礎疾患を
持った成人のような重症化のリスクが高い層に集中的に資源投下すべきである。
医療従事者はどうだろうか?院内での集団感染事例はつい先日報道されているが、
全体から見ればまだ発生は少ない。従って、医療従事者は罹患のハイリスクとは
とても言えない状況である。しかし、大規模な流行になった際に、院内感染では
なくても医療従事者が市中で罹患して休業してしまうと、どこの病院も患者であ
ふれかえって医療が受けられないという国民が最も困る事態に陥るかもしれない。
医療従事者、そして社会のインフラを支える人たちのマンパワー確保も優先度が
非常に高い。
 さらに、ワクチンには副反応が避けられない。100%安全なワクチンなどあり
えない。1976年、アメリカではブタインフルエンザのヒト感染集団発生に対して、
パンデミックの恐れありとして4000万人にワクチン接種を行ない、ギランバレー
症候群の多発という副反応で死亡者まで出ている。当のブタインフルエンザはそ
の後、世界的大流行にはならなかった。
 諸外国では、このような知見にもとづいて、ワクチン製造と並行して接種優先
順位の議論が行われている。むろん、すんなりと決まっているわけではない。カ
ナダでは、医療従事者に高い優先順位が与えられたものの、当の医療従事者は低
い病原性と副反応のリスクを冷静に見つめて、接種を拒否するものもいると聞く。
個人的にはこの医療従事者の考え方には賛同できる。
 一方、日本ではこの議論が端緒にすらついていない。厚労省の新型インフルエ
ンザ専門家会議にはワクチンと抗ウイルス薬の部門があり、専門家が委員として
委嘱されている。このグループによる会合がなぜ開催されないのか、理解に苦し
む。専門家会議そのものは、神戸・大阪での集団発生が明らかになった後、5月
下旬に一度開催されそうであったが、結局開かれなかった。7月末にはようやく、
厚労省において少数の人々による会議が開かれた。いささか遅きに失している感
があるが、手遅れではない。今後、様々な専門家の間での議論、そして国民を巻
き込んだ議論が望まれる。決して少数の人間で接種優先順位を付け焼き刃的に決
定してはならない。
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