医療ガバナンス学会 (2014年8月14日 06:00)
先日、原子力関係のシンポジウムで発表をさせていただきました(1)。原子力に関わっている方々に、原発事故後の健康問題について少しでもご理解いただきたかったためです。
・屋内退避指示が出された結果、その地域の物流が途絶え、人々が飢えに苦しんだこと
・仮設住宅の生活により成人病や廃用症候群など様々な健康被害が出ていること
などを実際のデータに基づいて説明し、
「原発を継続するのであれば、最低限このような被害を出さない避難計画を立てていただきたい」
と提言しました。
この発表の後、参加者のお一人が即座に言われました。
「30km圏内の人々の食料や燃料は東京に居た東電の職員が届けるべきだったな…」
それ以外にも「どうすればこの問題が起きずに済むか」という観点で、侃々諤々の議論がなされました。技術者の方が多いためでしょうか、皆、「反省し、学んで、改善しなければ」という熱意にあふれているようでした。
もちろん、専門家の中には全く異なった反応をされる方もいらっしゃいます。時折聞くのが、
「『常識的に』原子力は止められる訳ないじゃないか、だから反原発など非論理的だ」
と言われる方です。論理的に考えればそんなことしたら日本が存続できなくなってしまうのに、どうして世間はそんなことが分からないのだ、と、コミュニケーションを拒否してしまうのです。
原発はやめられない。どちらもこの大前提は変わらないのですが、前者と後者をしっかり区別することは大切だと思います。この二者を区別しなければ、もし万一原発が再開することになった時、再び後者の方が先頭を切って同じことを繰り返してしまうかもしれません。未来のエネルギーをもしどちらかに託さなくてはいけないのであれば前者のような方々に託したい。私はそう思います。
しかし現在、そのようなカテゴリーなく親原発・反原発と二極化されてしまう。プロセスを無視して結果のみを見る傾向がここにも表れています。
【加藤茂明先生にみる生き様】
同じ問題が、最近活発に報道されている論文捏造問題についても言えます。不正の有無やそのレベルだけが議論されていることが多いようですが、それ以上に、最も人格を問われる事件の責任の取り方に焦点を当てるべきではないか、と思ってしまいます。私がそう考えるようになったのは、相馬中央病院で加藤茂明先生からご指導をいただくようになってからの事です。
私は大学院時代、御茶ノ水にある東京医科歯科大学で骨代謝の研究をしていました。このためご近所の東大とも交流があり、雲の上の方である加藤先生のお姿は良く拝見していました。世界有数の研究者であるだけでなく教育者でもある加藤先生に誘っていただいたことが、相馬に入った大きな理由の一つです。(これについては「MPH留学へのパスポート」(2)に書かせていただいています)
加藤先生は部下の捏造が明らかになった直後、2012年の時点で速やかに教授職を自主退職されています。私は不覚にも留学中でその事件の事を知らなかったのですが、その後研究室の友人から、「助教に指示された大学院生たちは何も知らなかった。自分は辞職するから、彼らの学位の剥奪だけはやめてほしい」と嘆願された、という噂も聞きました。
ご自身が捏造に関与されていないのに、何であっさり辞職してしまったのですか?と、少し遠まわしに伺った時の、加藤先生のコメントです。
「それはやっぱり、自分の生き方として譲れなかったから」
先日この問題に関する一次審査結果が東大より出されました(3)が、私はこの査定自体にあまり興味がありません。納得はいかないけれども自分は管理職なのだから管理責任は取らなくてはいけない。自分の生き方を曲げない為に辞職した。あたりまえだよ。そう語られ、現在も相双地区で仮設住宅訪問から学習塾の指導、研修医の論文指導にいたるまで献身されている先生だからこそ、ついていきたい(勝手にですが)、と思ったからです。今回の事件がなければそのような先生の人格に触れることはできなかった、と言う意味で、私は事件に感謝すらしています。
正直、病院のプリンターにいつまでも接続できない加藤先生のパソコン事情を知っている者としては、フォトショップの改ざんなど、加藤先生は指示どころかそのようなテクニックがあること自体知らなかったのではないかな、と思います(すみません)。また加藤先生が今でも、全国のお弟子さんたちから引っ張りだこで授業や講演を頼まれている様子を見ても、「強圧的な態度で不適切な指示・指導」という記述が見当はずれなのだろうな、ということも想像できます。
しかしその時点での罪が「あったか、ないのか」という議論をしてしまえば、東日本大震災が「想定外」だったという議論に持ち込む管理責任者と同じレベルになってしまいますし、管理責任を取って辞職された加藤先生の生き方を否定しかねないと思います。むしろ、私は様々な「捏造問題」と加藤先生の取られた態度を比較し、その信念から学びたいと思っています。
【失敗の本質】
原発と捏造。全く異なる過ちでありながら、本質は非常に似ています。一番共通しているのは、「当局」の対応です。
どちらも現在、「事故を起こさない原発」「捏造を起こさない研究室」というゼロリスクを求めて、様々な規制・規則の強化にかかっています。これまでなかった第三者の監視システムの導入と強化。それ自体はとても大切なことだと思います。しかし失敗した者を除外し、失敗をしたことがないものだけを良しとする空気もまた強化されていることに、非常な懸念を感じます。医療事故も同じですが、失敗を個人の能力に帰結する「accuse, blame, criticize」のABC文化は、ミスの隠ぺいを生むからです。
大東亜戦争における組織としての日本軍を解析した「失敗の本質」(4)では、日本陸軍の「必勝の信念」の弊害について書かれています。
「作戦不成功の場合を考えるのは、必勝の信念と矛盾すると主張した。そのため作戦の前手体であった戦略的急襲が…所期の効果を生まなかった時、その都度応急的に打ち出された作戦はその場しのぎの中途半端なものにならざるを得なかった。…」
同様に、帝国陸海軍の組織教育に足りなかったものとして学習棄却(unlearning)が挙げられています。
「しかしながら、組織学習には、組織の行為と成果との間にギャップがあった場合には、既存の知識を疑い、新たな知識を獲得する側面がある事を忘れてはならない…つまり自己否定的学習ができるかどうかということなのである。」
過ちはプロセスを無視して十把一からげに報道してしまう報道機関や、ノーミスの組織や人間という神話を追い求める規制委員会。日本はまた同じ過ちを繰り返しているのではないでしょうか。倫理観を問うことは重要です。しかしそれは同じ失敗の中でも倫理感のある者とない者をきちんと区別する文化があって始めて成り立つ事だと思います。
【蛇足:我が家の家訓】
「男は振られた時にこそ本性を発揮するのだから、付き合う人は一度振ってみなさい」
というのは、男性遍歴が派手であった(らしい)母の教えです。振る男が居ることを前提にされても困るのですが、一つの真理かもしれません。
事故も失敗も、もちろんないに越したことはありません。しかし災害や失敗によって分かる本質もあるのだ、ということは、この相双にきて繰り返し学んだ事の一つです。ニュートンのリンゴは落果したことで人を啓発し、かつ自身も甘くなりました。そのような生き方をされる人々にお会いできる幸運を噛みしめつつ、自分自身もそうありたい、そう思っています。
追記1:この文章は加藤先生に無断で書かせていただいております。自分の話は「美談」ではないし、そんなものにしてほしくない、と繰り返しおっしゃっていますので、美談にならないよう努力したつもりですが、意図せぬ結果を生んでしまったら申し訳ありません。今のうちにお詫び申し上げます。
追記2:私は加藤先生が相馬にいらっしゃること恩恵を被っている者ですので、利益相反が存在します。
参考文献
(1) http://www.u-tokyo.ac.jp/public/public01_260801_j.html
(2) 公益財団法人日米医療交流財団.編:MPH留学へのパスポート.はる書房, 2014年
(3) http://www.u-tokyo.ac.jp/public/public01_260801_j.html
(4) 戸部良一ら.失敗の本質—日本軍の組織的研究—.中公文庫, 1991年
【略歴】おち さえ 相馬中央病院内科医、MD、MPH、PhD
1993年桜蔭高校卒、1999年東京医科歯科大学医学部卒業。国保旭中央病院などの研修を終え東京医科歯科大学膠原病・リウマチ内科に入局。東京下町の都立墨東病院での臨床経験を通じて公衆衛生に興味を持ち、2011年10月よりインペリアルカレッジ・ロンドン公衆衛生大学院に進学。
留学決定直後に東京で東日本大震災を経験したことから災害公衆衛生に興味を持ち、相馬市の仮設健診などの活動を手伝いつつ世界保健機関(WHO)や英国のPublic Health Englandで研修を積んだ後、2013年11月より相馬中央病院勤務。剣道6段。