臨時 vol 171 「医療と司法の齟齬を克えろ」
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「真相究明」とは何か
竹内 治
(東大法学部卒。早稲田大学大学院法務研究科修了。和田仁孝教授(早稲田大学)
に師事し医療紛争処理を学ぶ。法務博士・日本医療メディエーター協会認定医療
メディエーター)
1、「真相究明」とは何か
国民が裁判に期待する「真相究明」とは一体何か。「真相究明」といっても、その目的をどこに置くかという切り口の違いにより、実に多様な意味を持つ。しかし、その多義性はあまり認識されていないように思われる。
医療裁判を経験した当事者は、医療者側も患者側も、そして、勝訴した側も敗訴した側も、裁判への不満を語ることが多いということである。これは一体どういうことなのであろうか。私は、その一つの理由が「真相究明」という言葉についての理解の齟齬にあると考える。以下、いくつかの切り口から「真相究明」とは何か、ということを考える。
2、裁判所における「真相究明」
(1) 裁判の目的は、法律上の権利が存在しているかどうかを公的に確定し、その効果を強制することで紛争を解決するところにある。権利の存否は、法律で定められている要件を満たしているかどうかという点から判断されるため、結局、裁判所における「真相究明」は要件たる事実の有無を明らかにすることに尽きる。
逆にいえば、法律に要件として定められていないことは裁判所における「真相究明」の対象とならない。
例えば手術中に患者が死亡し遺族が医師に損害賠償を求めたという裁判を例にする。裁判所は「医師の行為に『注意義務違反』があったか」「患者(遺族)に『損害』が発生しているか。それは金銭で言うといくらか」「医師の行為と損害の間に『因果関係』があるか」といった法律上の要件事実の存否に関心を持つ。しかし「医師がどれほど誠実な人物であったか」とか、「遺族が患者の死でどれほど悲しんだか」という『法律に書かれていないこと』については、(少なくとも直接的には)裁判所における「真相究明」の対象とならない。
(2) もう一つ、指摘しておきたいのが、裁判所はどの程度の確からしさで事実の証明がされたときに「真相が究明された」としているか、である。
裁判は真実(神の目で見た真実)に基づいてなされることが望ましい。しかし、過去に起こった事実について真実を詳らかにすることには限界がある。そこで裁判では「立証責任」というルールを設け、真実を擬制することでこの問題をクリアしている。
「立証責任」のルールとは、「一定の法的効果を主張する当事者は、その法的効果の要件として定められている事実について、裁判所が「どうやら真実らしい」と思う程度まで証拠を示すなどして立証しなければならず、それができないなら法的効果を主張できない」というルールである。裁判は判決で白黒をつけないと終わらない。しかし、紛争が生じるような事案では、多くの場合白黒が明白ではない。そういうグレーのケースについて、白、あるいは黒と「みなす」こととして紛争を解決するのが裁判である。
裁判における「真相究明」とはこのようなフィクションの要素を含んでいるものなのである。
3、医療安全のための「真相究明」
比較対象として、医療安全、つまり、裁判になるような医療事故について再発を防止する前提として必要な「真相究明」とは何かを考える。
しばしば言われるように、医療事故は複数の(時に把握しきれないほど多数の)誘因が不幸にも重なって生じるものである。再発防止の観点からは、そうした多くの誘因の一つ一つを検討し事故のリスクを低減することが必要である。法律が関心を持たないことを理由に検討の対象から排除することは無意味であり、むしろ有害である。
例えば裁判では、原告が特定した、特定の医療者の特定の行為が、結果と因果関係を有しているかどうかが問題となり、かつそれのみを検討して結論を出すのが原則的な取り扱いである。しかし、再発防止という観点からは、事故に関連するリスクを広く検討の対象とする必要があり、検討の対象を特定の医療者、特定の行為に安易に絞ることはできない。
また、裁判は判決で「白黒はっきりさせること」が不可欠であるから、先に述べたように立証責任というルールが採用されているわけであるが、再発防止という観点からは、グレーはグレーとして把握することがむしろ妥当である。結果に結び付いたかどうか不明な場合に「白」とするのが裁判のルールであるのに対し、再発防止のためにはこれは危険で、危険性の程度に応じそれを低減する方法を講じることこそが必要だからである。
このように、医療安全の観点でみた「真相究明」は、裁判所で行われている「真相究明」とはかけ離れたものである。
4、患者側当事者にとっての「真相究明」
患者側当事者(以下、「患者」)のニーズが法的責任追及にあるならば、裁判所における真相究明はそれに十分応え得るものと言える。しかし、医療裁判に対する患者の満足度が必ずしも高くないこと(ある調査によれば勝訴した患者においても裁判への満足度が高くないことが示されている)は、裁判所の真相究明に対する患者のニーズが法的責任追及に限られないことを示しているものと考える。
私は患者の真相究明に対するニーズを代表して語る立場になく推測であるとお断りした上で述べるに、患者の言う真相究明とは生じた事故を受け入れるための真相究明なのではないか。その意味での真相究明としては、法的責任追及のための真相究明も、再発防止のための真相究明も、ともに断片的である。
患者が事故を受け入れるためには、真実を可及的に詳らかにすることだけでなく、その過程そのものが重要な意味を持つ。ところが裁判においては、患者の関与は間接的なものとなるのが通常であり、また、効率的な紛争解決という題目のため患者の関与の機会は一層制限されている。その意味でも、患者が裁判に不満を残すのは当然のことと言える。
5、一つの姑息療法としての医療ADR(Alternative Dispute Resolution)
以上、断片的に述べた範囲でも「真相究明」は多義的である。
しかし、当事者はその多義性を認識しないまま、過剰な期待を裁判による紛争解決に向けている。
裁判に過剰な期待をしているのは、紛争当事者に限られない。社会全体が裁判にあらゆる真相究明ニーズを向けている。その結果、当事者に不満が残るだけでなく、社会全体が司法府に不信感を抱いたり、そうした過剰な期待に応えようとする一部法律家のスタンドプレーを惹起しかねない状態にある。
私は、「真相究明」の多義性を自覚した上で、紛争当事者の多様な真相究明ニーズに応じた多様な真相究明システムを用意することが妥当であると考える。ADRとは、裁判以外の方法による紛争解決を言う。ADRにおいては必ずしも法的責任追及を終局的な目的とすることを要しないのであり、多様な目的を設定し、目的に応じた制度設計をすることが可能である。当然、そこでいう「真相究明」も、ADRの目的に応じて観念されることになる。
当事者が法的責任追及を望むならば端的に訴訟を提起すればよいであろう。しかし、医療裁判の当事者は法的責任追及に付随して多様なニーズを裁判所に持ち込む(もっともこれは医療裁判に限られず、あらゆる紛争に多かれ少なかれそのような現象は起きる)。ADRを前置して訴訟に進むという過程的紛争解決は、当事者の多様なニーズをスクリーニングすることができ、満足度の高い解決につながる。
現時点で医療ADR機関は複数あるが、紛争解決という仕事の性質上、法律家が主導している傾向にある。しかし法律家は(やはり法律家という職業の性質上)法的責任追及を指向する傾向にあり、結果、現在のところ、ADR機関の制度設計の多様性は限られた範囲にとどまっている。医療従事者と患者(=国民)がADRデザインに大いに意見を寄せることを期待したい。