臨時 vol 158 「分娩施設の集約化―周産期医療のグランドデザインを考える」
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「日本のお産を守る会」
静岡県浜松市小松
石井第一産科婦人科クリニック
石井廣重
産科医不足、周産期医療の崩壊を目の当たりにして国(厚生労働省)や産科婦人科学会の幹部たちは「分娩施設の集約化」を推奨している。平成17年に厚生労働省が発表した「小児科産科若手医師の確保・育成に関する研究」報告書1)でも、分娩の集約化・センター化が強く謳われており、「それまでの”移行期”において一次医療機関である有床産科診療所を保護する」という表現が用いられている。つまり有床産科診療所はいずれ消えゆく運命にあるということだろうか?
確かに都市部では限られた面積内に多数の周産期施設が分散していて、多くの施設で1人ないし2,3人の常勤医師が長時間病院や診療所に縛り付けられているという状況は非効率に思える。個人のプライベートタイムの確保や危機管理の観点からは、少なくとも5-6名以上の常勤産婦人科医師が交替制で夜勤や休日勤務にはいり、新生児専門医や麻酔科医および手術室スタッフも常駐している環境が望ましいであろう。
ただし医師が若い間はそれでよくても長年勤務していると、誰もが大病院の部長になれるわけではないので、宮仕えに飽き足らず独立開業の道を模索する者も当然出てくる。そのためにオープンシステムによる病診連携も推奨されている。しかしオープンシステムにも問題はないのだろうか?
米国では産婦人科医師の約80%が開業するが、多くの医師がオープンシステムのもとで病院と契約を結んで、自分のクリニックで健診を行っていた妊婦の分娩時にはともにセンター病院へ出向いて立ち会っている2)。もちろん分娩は昼夜を問わないので、外来患者の診療中でも夜間・休日でも急遽病院へ駆けつけねばならない。危機管理の点では安心感はあるが、院所間の移動距離を考えれば日本の開業医よりもむしろきついかもしれない。実際には複数の医師が共同で開業して代診を頼んだりしているようである。開業医が間に合わず、病院のレジデントだけが分娩に立ち会うこともある。
このような診療形態が成り立っているのはある程度産科医療が標準化されていることが前提となっている。ただし米国での標準化は過剰とも思える医療介入の増加の方向へ向かっている。帝王切開率はすでに30%近くに達しており、陣痛誘発率も20%前後に至っている(誘発率が高い州では40%以上に及ぶ)3)。分娩の途中から陣痛促進する症例もあるので、自然陣痛のみによる正常分娩は全体の半数以下となっている施設も少なくない。もちろん過剰な医療の介入には健康上のリスクが伴うことも考慮せねばならない。
病院に多数の産科医師(レジデントを含む)とともに新生児専門医や麻酔科医および手術室スタッフが24時間365日常駐しているのは心強いが、それ相応のコストを要する。米国の私立病院での分娩費の多くは1-2万ドル程度(100-200万円以上)とされていて、日本の3倍以上である。日本で本格的に米国式の集約化を実現するためのインフラ整備や人員配置に伴うコスト負担を国家や国民は受け入れる覚悟ができているのだろうか?
医療機関へのアクセスの問題を考えてみると、米国や北欧は国土が広く人口密度は日本の1/10以下であり、中途半端な距離に中小規模の周産期施設が散在しているよりも、大規模なセンター病院に分娩を集中させることのメリットが大きいかもしれない。一方、フランスは日本よりも国土が広いが、人口密度の点では米国よりも日本に近い(日本の1/3程度)。フランス政府は安全管理のために年間分娩数が300未満の施設での分娩取り扱い中止を勧告しているが、そのために自宅から45分以内に産科施設にアクセスできなくなる地域は例外としている4)。日本は人口密度が高く、すべてではないものの多くの地域では自家用車で30分~1時間以内の場所に産科施設がある。このようなアクセスのよさを犠牲にしても全国的に分娩の集約化を推進しなければならないのか疑問である。
日本でも欧米に習って分娩の集約化を進めるべきであるという議論の嚆矢となったのは旧厚生省長屋班の報告である5)。彼らは日本の母体死亡を減らすためには分娩施設の集約化が不可避であると結論している。確かにこの調査の対象であった1991-92年においては、日本の妊産婦死亡率は欧米に比して高く、12人/10万出生程度であった。しかし現在の診療所での出生比率は当時よりもさらに増加して全分娩の半数近くに達しているが、妊産婦死亡率は半減して4-5人/10万出生となっている6)。それはスウェーデンなどに比べるとやや高いものの米国よりも低く、世界最高水準に近づいている。そして周産期死亡率の低さは当時も今も世界一で
ある。
母体死亡が減った理由として、ハイリスク妊娠は早めに病院に紹介するといったリスク毎の選別が行き渡ってきたこと、緊急時の搬送システムや輸血用血液の供給が整備されてきたことなどが挙げられる。思えばかつて致死的不整脈に対する電気的除細動は一部の医師のみが扱っていたが、今ではAEDの講習を受ければ一般人でも実施できるようになった。同様に産後出血による母体死亡を減らすために多くの有効な手段が開発されてきている。医学医療の進歩はハイリスク症例もローリスク症例もすべて一極集中させるというよりも、むしろ救急現場や地域の第一線の医療機関で迅速診断や応急処置が可能となる方向へ向かっているのである。
私の知るかぎりでは、病院の勤務医よりも診療所の開業医のほうがお産に対して熱意を持っている人が多い。私と同年代の勤務医は”糊口のために”出産にも立ち会っているが、興味の主体は内視鏡下手術であったり骨盤外科であったりする者が少なくない。他科と異なり産科開業医はプライベートな時間が著しく制限されることを承知の上であえて開業に踏み切っているのであり、そのためには出産に立ち会うことへの情熱が必要不可欠である。決して金銭的なインセンティブだけの問題ではない。自らが理想とする妊娠分娩管理、さらに母乳育児を始めとする産褥管理を追求したいと考える産科医に対して「有床診療所での分娩取り扱いは危険だからもはや止めるべきだ」と決めつけるだけの根拠は乏しい。病院勤務を続けるか、オープンシステムを利用してオフィス開業するか、あるいは有床診療所で分娩を扱うかは各医師の適性やポリシーに基づいて選択されるべきである。多様な分娩施設があり、自己責任でそのいずれかを選べる余地を残しておくことが妊婦にとっても医師にとっても望ましいと筆者は考える。
参考文献:
1)厚生労働省:「小児科産科若手医師の確保・育成に関する研究」報告書の公表について平成17年6月28日報道発表資料
http://www.mhlw.go.jp/houdou/2005/06/h0628-2.html
2)坂元秀樹:周産期医療の成果と評価―米国と日本の周産期医療に参加して 周産期医学 38(1)15-19, 2008.
3)Rayburn WF, Zhang J:Rising Rates of Labor Induction: Present Concerns and Future Strategies. Obstet Gynecol 100 (1) 164-167, 2002
4)江口成美,尾崎孝良,野村真美ら:産科医療の将来に向けた調査研究 日医総研ワーキングペーパー http://www.jmari.med.or.jp/download/WP141_5
5)Nagaya K et al. Causes of maternal mortality in Japan. JAMA 283:2661-2667. 2000.
http://jama.ama-assn.org/cgi/content/full/283/20/2661
6)母子保健の主なる統計 平成19年度版