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Vol.248 放射線についてはじめて語る人間だから言えること

医療ガバナンス学会 (2014年10月29日 06:00)


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南相馬市立総合病院
神経内科 小鷹昌明

2014年10月29日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp


まずは南相馬市に帰還して子育てをしている母親の、最近の手記を紹介する。
一般住民の声をいまさらお伝えしたとしても、多くの人の心には響かないだろうが、でも、いまだにこうした事実が横たわっている現場を知ってもらいたいから、これまで幾度となく南相馬市に関する言論を展開してきた自分が、あえて放射線についてはじめて語る。

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ここ、南相馬市で生きることは、自分で選び、自分で決めたこと。
何を言われようが「覚悟はできているから大丈夫」と思って3年半経ち、放射能に対しても勉強し、賢くなり、ママとしても強くなれたと思っていた。しかし、南相馬で病気になったり、亡くなったりする子供が出ると、心無い人から「やはり放射能の影響だ」、「被爆しているからだ」と言われてしまい、仲間や家族の気持ちも考えずに「福島からは早く出たほうがいい」とか、「南相馬は住めない町だ」とか強調される。
もう、お願いだからやめて下さい。
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改めて言うことでもないが、私は、この南相馬市に2年以上住み、医療を生業としながら合間に復興支援活動を行っている人間である。さまざまな市民活動に携わってはいるが、基本的には周りを気にしない性格である。逆に言えば、たいして気にも留めないから、いろいろな場面に首を突っ込めるのかもしれない。良く言えば、「自我が確立している」ということだが、平たく言えば、「自分勝手で他人には左右されない」ということにもなる。しかし、この地元住民から冒頭のような手記を受けると、こんな私でも一言添えたくなる。

原発から一番近い病院で働いているためか、私も「放射線は気になりませんか?」という質問を受けることがある。私は「気になりません」と答える。「どうしてですか?」と続く問いに対しては、「自分の意志でそう判断したからです」と応じる。地の野菜は食べるし、水も飲む。そして、日常的に20キロ圏内の南相馬市小高区に足を運んでいる。注意していることといえば、「線量の高い領域にはなるべく近づかない」ということと、「測定していない食材は食べない」ということだけである。
「認識が甘い」と思われる方がいるかもしれないが、私の中において「ここに住むと決めた」ということは、そういうことである。
しかし、そう言われてみると、確かに私は放射線のことをほとんど学んでいないので、「気にならない」という言い方は正確さを欠く。それよりは、「考えていない」と答えるべきであろう。もっと言うなら、仮に多少高くとも、それ以上の意味がここにはあるので、「別に構いません」と応じたほうがいい。

ありがたいことなのかもしれないが、福島のことを心配されて、いまだに放射線の危険性を、ことさら煽り立てて発信する人がいる。それはそれで、当人としては正当な判断だという確信があるであろうし、正しい情報を発信すべきという自負もあるようである。だから、基本的にそういう人を、もちろん否定はしない。そういう立ち位置の人間がいることも理解できるからである。それよりも私が気になるのは、いつまでも続き、徐々に深まる“安全論者”との対立構造である。そして、それによって確実に疲弊していくお互いの立場である。そして、その無意味な闘争に、心ならずとも巻き込まれる住民がいるということである。
「ここを危険だ」と強調する人の証拠が100個あるとしたら、「安全だ」と語る人の根拠も100個ある。安全を強調すればするほど、それに異を唱える対立意見もヒートアップする。絶対に安全ということはないのだから(逆に、必ず危険という根拠もない)、“危険論者”からの突っ込みは枚挙に暇がない。
危険のエビデンスは、実際に起こったであろうとされる健康被害に関する論証である。放射線の危険性を、「1ベクレルでも、0.1マイクロシーベルトでも、他より高い」と言えばキリはなく、その地での体調不良の事例を取り上げる。「隠蔽は良くない」という正論に基づくようなことを指摘した方が、何となく正義で、支持されて、英雄視される。一方、“安全論者”は、「その証拠は十分でない」と言う。不毛な議論はお互いを傷つける。
おそらくどちらも福島のことを考えてのことなのだろうが、一度掛け違ったボタンは、お互いの論調が正確であればあるほど解離する。
当たり前だが、正解はない。だから、放射線を危険と思うか、安全の範囲内だと思うかは、個人の判断に委ねられている。その個人個人がやっとの思いで下した決断に対して、間接的にせよ「その考えは間違っているよ」という非難が介入すれば、冒頭のような揺らぎを生ずるのは当たり前のことである。「そういう正義に基づく批判が、被災地の復興を決定的に遅らせている」ということに、お互い早く気付いて欲しい。

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「私たちがこれまでにどれだけ悩み、どれだけ苦労し、どれだけ我慢し、どれだけ頑張って、どれだけ転んでも立ち上がり、いまに至るのかを知りもしないのに、現地を見ずに言わないで欲しい。
気にしなければいいのだけれど…。そういう意見を聞くと心が苦しくて、悲しくて、悔しくて、もう精神的に壊れそう。
それでも、多くの壁を乗り越えて、いまがある。これからもできることはしていきたい。大人は、精一杯子どもたちのために動いていこう。たくさんの赤ちゃんの笑顔も生まれている南相馬だから。寄り添ってくれる人、一所懸命命守ってくれる人たちといまを生きよう。」
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危険を“避けた人”も“受け入れた人”も、自分を正当化するためには同じようなストレスがかかっている。“避けた人”には、少しでも安全を確保しなければならなかった理由が、“受け入れた人”には、そうしてきた覚悟がある。向いた方角は違っても質は同じである。同様な悩みを抱えているのだから、導くべき方向は、「異なった選択をした人と、いかにして折り合うか」であろう。放射線事故の解決は、放射線問題に取り組んでいる互いを論破することではない。相手との共存をいかに考えるかである。
「東電が悪い」や、「国の対応が遅い」という意見は、もっともかもしれないが、そういうことよりも、原発事故は不運な事故として、どうすればこの土地の人が楽しく暮らせるかを考えたいのである。
危険だと主張する“危険論者”は、この地に近づかなければいいだけである。要はそれだけである。地元で安住を求める住民に対しては、放射線の問題を持ちかけないで欲しい。もう、放っておいて欲しい。

私は、放射線の問題を軽視しているわけではけっしてないし、この考えは、これまでの積み重ねによって得られてきた知見に基づく一個人としての見解である。原発事故と向き合ってきた多くの関係者や現場作業員には感謝している。
一住民の叫びを丁寧に拾って考えた末の結論が、この「放射線のことはもう語らないで欲しい」というものであった。一部の住民に対しては、そういうフェーズに突入したということである。“安全”にせよ“危険”にせよ、この南相馬市内部の平穏な人たちには、もう放射線について語りかける必要はない。「そっとしておいてあげて」と言いたくなる。
要は、「相手への配慮のない主張は、それがどれ程正しい意見であったとしても、この地の住民においては無意味どころか却って迷惑だ」ということである。私たちは、何があろうとここで生きていくのだから。

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