臨時 vol 153 「医療に対する「当たり前」感を駆逐するために」
■医療体制は崩壊を始めている
日本の医療体制は、既に崩壊を始めていると考えています。これまでは医師や看護師などの方々が、場合によっては文字通り睡眠時間を削って、医療体制を支えてこられました。その成果として、世界一の平均寿命を低い負担で達成できたのです。しかし、逆にいえば慢性的に勤務医らが不足しているがゆえの過重労働であったわけであり、そこに臨床研修医制度の導入による大学病院(医局)の医師引き上げや、国の財政的事情による医療費抑制策、医療に対する過剰な訴訟などが重なった結果、救急、産科、小児科、外科等のハイリスクな現場、そして地域からの医師離れが起こり、医療崩壊を招いているものと考えています。これまで努力と頑張りで支えてきたものが、それぞれのきっかけで限界に達し、折れたり燃え尽きてしまったのが現状でしょう。
私の地元である岡山県倉敷市では、川崎医科大学附属病院および倉敷中央病院という二つの大病院が核となり、その周りに中規模の病院や診療所等が存在する比較的恵まれた環境にあります。しかし、それでも、市立児島市民病院の診療科縮小や三菱水島病院の病棟閉鎖といった形で、じわじわと影響が出ています。
■三つの対策
これに対し、私は現時点では大きく三つの対策が必要だと思っています。
1) 医療者の頑張りに報いるための、医療への資源配分の強化
2) 医療者に敬意を表し、医師と患者の信頼関係を結びなおす
3) 国民皆で医療を支えるため、皆保険制度を維持する
1)と3)は、医療の政策的・財政的枠組みについての問題であり、政治の場で既に多くの議論が行われています。1)については、やはり対GNP比総医療費をOECD平均(9%)以上に上げるくらいの対策が必要ではないでしょうか。もちろん、その負担についても考える必要はあります。また3)についても、長寿医療保険制度は大きな議論を巻き起こしましたが、高齢者の医療を支えていくために何らかの仕組みが必要なことでは、概ねコンセンサスを得ていると思います。
■「医師と患者の信頼関係の構築」の重要性
私が今後ますます取り組みが重要になると考えているのは、2)の「医師と患者の信頼関係を取り戻す」です。1)は、いま起こっている医療崩壊に対して緊急に必要な措置と言えるのに対し、2)は体質改善のようなものだと言えるでしょう。過剰な医療訴訟、モンスターペイシェントの存在、コンビニ受診、救急車の濫用……といった問題の数々が、医療予算増で解決するとは思えません。むしろ、これらの問題を解決せずして医療費を増額させたところで、穴の開いたバケツに水を汲んでいるような観があります。また、現在大きな議論を巻き起こしている医療安全調査委員会の問題も、煎じ詰めるところ、いかにして医療の安全性を向上させ信頼感を回復するかという点がポイントとなります。いずれも根っこには、患者側と医療者側の信頼関係の問題が横たわっているのです。2)の信頼関係の再構築こそ、改めてゼロからのスタートを切るべき課題だと断言します。
ここまで言い切ると、医療サイドの方々から「もう頑張っている!」というお声が聞こえそうな気もします。確かに、それぞれの診察室内において患者さんに丁寧かつ十分な説明を行い、インフォームドコンセントをとることに個々の医師や病院・診療所として努力されていることには、全く疑いを挟みません。もちろん必要な取り組みです。しかし、社会現象たる上記の諸問題への対応としては、それだけでは実は手遅れです。
理由のひとつは、「いつ受診するか」という、診察室以前の問題であることが多いこと。
そして一方、診察室内には”実体のない信頼関係”があります。本来、人と人との信頼関係というのは、時間をかけたコミュニケーションの末にはじめて成立するものです。しかし診察室で、患者さんは既にケガや病気という身体的に苦痛かつ不安な状態にありますから、専門知識と技術を有するであろう医師を、とりあえず無条件に信じるしかありません。だとすれば患者さんは「治してくれて当たり前」と思うほかないのです。もちろん医師や看護師の方々たちも、患者さんが嘘を訴えているとは思わないでしょうし、実際、患者さんの信頼に応えるべく治療にあたることになります。こうして相手のことを知らないまま、そこに最初から信頼関係があることになっているのです。ただし問題は、予想外のハプニングが起こったとき(医師が誠実に対応していても起こり得ます)。往々にしてその脆さを露呈することに繋がります。院内メディエーターがいれば多少状況は変わるかもしれませんが、やはり事後の手当てにしかなりません。
以前、あるところで「ありがとう」の対義語は「当たり前」だ、と聞きました。「当たり前」という言葉は、医師個人から医療全体に対してまで著しく尊厳を傷つけます。また患者自身にも良い結果を招く言葉ではなく、いずれにとっても不幸な状況をきたします。この「当たり前」感の駆逐こそ、現在の医療が社会に対して直面している大きな課題というべきでしょう。
■どうやって「当たり前」感を払拭し、信頼を再構築するか
では、どうするか。そのためのポイントは、3つあります。
まず、ひとつ。信頼関係を持つ対象を「患者と医師」という診療室内の視点から、「社会と医療」という視点に広げて考える必要があります。要するに一般の人を相手にすべき、ということです。理想としては、信頼関係は患者になる以前から、日頃のお付き合いの中から築いておくことができたらよいのです。(なお、忘れられがちですが、大半の医療が保険医療として行われているわけですから、月々の保険料を納める被保険者かつ納税者でもある健常の一般の方々の信頼を得ることは、やはり医療にとって必要なことです。なお言えば、医療安全の問題に関して刑事訴訟法や刑法等の改正の議論がありますが、もし手をつけるとなればそれこそ国民的議論は欠かせません。「社会と医療」には、そういう意味もあります。)
しかし、日頃の付き合いというのは限られた人にしかできません。そこで2つ目のポイント。せめて、医療に関する情報を日頃から知ってもらうことが大事になります。医療や保健に関する知識的な情報はそれなりに発信されていますが、それだけでは十分ではありません。できれば、医療者が日々どのようなことを考え、取り組み、課題に直面し、悩み、喜ぶのか、そういう感情面まで含んだ情報について、私はもっと医療側が社会に開示すべきだと考えています。医学的知識の普及も重要ですが、崩壊する医療の建て直しを考えた場合には、いかにして一般の方々の「共感」を集めるかが鍵となるからです。例えば、「県立柏原病院の小児科を守る会」の発足にあたっては、医療側からの「もうすぐ無くなるかもしれない」というサインがきっかけになったそうです。辛いこと、苦しいこと、悲しいことを率直に表現することで、「守らなくては」という患者のお母さん方の自発的な意志と力を集めることができたのです。「弱さの強さ」という言葉もあります(金子郁容『ボランティア もうひとつの情報社会』岩波新書)。学ぶべきでしょう。
また、また、一対一の診察室では難しいからといって、一人で世間全般を相手にするというのも、誰にでもできることではありません(例外として、『医療崩壊 「立ち去り型サボタージュ」とは何か』を著された虎ノ門病院の小松秀樹先生や、『チーム・バチスタの栄光』はじめ一連の医療エンターティメント小説を書かれている海堂尊先生らがおられますが)。それぞれの方がご自分で可能な範囲で、数人から数十人、数百人といった、できればお互いを知り、顔が見えるくらいの範囲を対象にするのが現実的でしょう。たとえ数人であっても、お互いに共感があれば思いもかけない大きな力になり得ます。それが「コミュニティの力」なのです。無理のない規模というのが、3つ目のポイントです。
いくつかの具体的な方策を記します。
◆ ブログの活用
私が、医療の問題に自ら深く関わろうと思ったきっかけとなったのは、あるブログでした。
「日々是よろずER診療」――なんちゃって救急医先生(http://case-report-by-erp.blog.so-net.ne.jp/)
時折、政策等に関するエントリもありますが、大半は救急救命医が直面するさまざまな症例の紹介です。それこそ、現場で日々何が発生し、何に悩み、どのように行動されるか、このブログで多くを学びました。そして、リアルに現場が何に困っているかを感じ、私にできることはないか、という思いと行動に繋がったのです。
他にもたくさんのブログがあります。医師は診察室で、患者さんの前で困ったり悩んだりするわけにはいきません。また、面と向かって悩みを打ち明けるのもハードルがあります。ネットを使えば比較的容易にそういう内容も発信できますし、そのようなブログをできるだけ多くの非医療者の方々にもぜひ知ってほしいものです。
◆ メーリングリストやSNSの活用
同様に、インターネットを利用したメーリングリストやSNSも、よいツールになるでしょう。私は「医療と政治をつなぐメーリングリスト」と題する、有志の医師と国会議員がメンバーになっているメーリングリストに参加しています。あわせて40人程の参加者で、熱心な議論がされています。実際、私も国会の質問の際に参加者の方々に質問案を寄せていただき、活用させていただきました(最近静かですね。皆さんお元気ですか?)。医療者と非医療者ととりまぜて、こういう仲間をうまく作れれば、それが信頼を築くもとになります。オフ会などをたまに行うのも有効でしょう。
◆ 現実のコミュニティを作る
インターネット世界は、現実の補完はできますが、やはり現実の活動こそが現実に力を与え、成果を生みます。最たる例が先に名前を挙げた「県立柏原病院の小児科を守る会」でしょう。少し昔の話になりますが、プロ野球全盛の中でサッカーのJリーグが成功したのは、「観客」ではなく「サポーター」という概念を導入し、現実的にその育成に力を尽くしたからです。病院や医師に、サポーターがいてもよいのではないでしょうか。個別の病院・医師で難しいのであれば、地域医療のネットワークを地域の公共的な資産と見なすことで、例えば青年会議所やNPO等の団体と連携することも考えられます。
■おわりに――政治の限界を超えて
私は、いつ解散し失職するかわかりませんが(苦笑)、執筆時点では現職の衆議院議員です。医療問題については、自民党の部会や勉強会、あるいは超党派の議連にも参加して勉強を重ね、特に医療安全調査委員会の問題から深くコミットするようになりました。もちろん適切な医療政策は重要であり、今後も同僚らと議論を重ね、日本の医療をよい方向に導いていきたいと願い、活動しています。
同時に、政治や行政ができることの限界も痛感するものです。ですからこの文章は、あえて政治の立場にいる者では取り組むことができない、当事者の行動によらなければならない医療問題における「コミュニティ・ソリューション」をテーマを取り上げさせていただきました。
議員をしていて当惑するのが、「これぐらいのこと、政治ができて当たり前」と言われることです。しかし現実には、さまざまな限界があります。ただ、多くの方々に行動を呼びかけ、訴えることは、議員であろうとなかろうと、できます。だから、今回、ペンを執らせていただきました。
どうか、この文章をお読みの皆さま方には、それぞれのお立場で自分の心の中にある「当たり前」という殻を打破し、一歩前に踏み出していただきたい。その行動のひとつひとつが、社会の医療に対する「当たり前」感を駆逐し、感謝と敬意を再び勝ち取ることに繋がるものと信じています。長文を最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。