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臨時 viol 151 「安全学研究者から見た福島大野事件判決」

医療ガバナンス学会 (2008年10月27日 11:27)


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                     東京大学大学院工学系研究科
古田一雄


1.はじめに
福島大野事件判決については、本メルマガ誌上において医療・司法の専門家を中心にさまざまな議論が行われているところであるが、安全学研究者から見た本件に関する感想を述べてみたい。
2.リスクトレードオフとは何か
安全学の研究者、技術者は「リスク」の概念によって思考するので、本件もリスクに基いて議論してみたい。ここでいうリスクとは、人間や人間が価値をおく対象に対して危害を及ぼす物、力、情況などを特徴付ける概念と定義され、その大きさは損害の発生確率と重大性によって表現される。そして、リスクが社会的に許容可能な水準に抑えられている状態が「安全」であると考える。
ところで、この世の中に完全にリスクを有しない、リスクフリーな物、力、情況は存在せず、いかに危険がないと一見思えるような物、力、情況であっても、それによって人の生命、健康、財産に危害を加えることは可能である。「ゼロリスク」や「絶対安全」が幻想に過ぎないことは、忌々しい感情を引き起すことはあっても、常識ある人なら理解でないことではないであろう。
あるリスクを削減して安全を確保しようとする際に、削減の対象となるリスクを目標リスクという。ここで、リスクフリーな行為はないことから、目標リスクを削減する行為は必ず別の新たなリスクを発生させる。このようなリスクを対抗リスクと呼ぶ。目標リスクの削減には必然的に対抗リスクの発生が伴うが、かといって何もしなければ目標リスクはそのまま残ることになる。そこで、安全対策としてできることは、目標リスクと対抗リスクの間で取引をし、全体としてリスクを望ましい方向に変化させることだけで、これがリスクトレードオフの考え方である。
3.医療におけるリスクトレードオフ
医療行為は、傷病による患者の健康リスクを目標リスクとして、その削減を行う行為であるが、医療行為が身体に対する侵襲を伴うものである以上、対抗リスクの発生が避けられない。したがって、ある医療行為の是非はリスクトレードオフとして判断する以外にない。
業務上過失致死傷事件を対象とする従来の司法判断においては、行為と被害発生との因果性、被害発生の予見可能性、代替行為による回避可能性が主な争点であった。しかし、対抗リスクの発生が必然である以上、望ましくない結果となった場合の因果性、予見可能性は争う余地のない自明のことである。回避可能性については、その時点で治療を放棄すれば、確かに問題となった行為で被害が発生し得ないという意味で、やはり自明のことである(ただし目標リスクが残って患者は死ぬかもしれない)。これでは、医療行為は成立しようがないであろう。
ところが今回の福島大野事件判決では、その状況で最良と思われる基準によって目標リスクと対抗リスクの取引をすべきという、リスクトレードオフの考え方に司法が初めて踏込んだと筆者は解釈する。これは、業務上過失致死傷事件を扱った司法判断としては、かなり画期的である。もともと、医療に限らず安全が関る刑事訴訟、行政訴訟において同様の状況はかなり広汎に見られるが、リスクトレードオフの考え方が司法において一般的になれば、裁判が安全対策の足を引張るといったことが減るのではないかと期待せざるを得ない。
4.正当なリスクトレードオフ
さらに判決では、行われたリスクトレードオフが正当と判断されるための基準も示している。すなわち、リスクトレードオフの判断根拠が「臨床に携わる医師が当該場面に直面した場合に、ほとんどの者がその基準に従った医療措置を講じているといえる程度の一般性、通有性を具備しものでなければならない」としている。これは、判断根拠として最先端の研究成果や少数の成功例があるだけの手法などといったものを基準にしないということで、リスクトレードオフが正当と判断されるための基準を、専門家コミュニティー(ここでは医療界)の共有知に
求めることを意味する。
リスクトレードオフのように不確かさを伴う判断においては、科学的合理性を有する唯一の解決が存在することはまずない。このような場合には、専門家の間ですら見解が割れることが多く、絶対の科学的真理に判断根拠を求めることは不可能になる。また、学術の進歩によって「真理」が入れ替ってしまうことすらあり得るが、それとて専門家コミュニティーに受容されるにはいくらかのタイムラグを伴う。このように、伝統科学の方法では正当な判断の根拠を明快に提供できない状況のことをポストノーマルサイエンスと呼ぶ。
ポストノーマルサイエンスにおいては、専門家コミュニティーの大多数に受容されている知見以外に、科学的に合理的で正当な判断の根拠を求めることはできなくなってしまう。ここに至って、リスクトレードオフの正当性は、神様と頭のいい誰かが知っている絶対的真理ではなく、社会的に皆が認めた相対的真理を基準に争われる。
今回の判決は、この点でも我々の現代社会が置かれた状況に則した踏込んだ判断をしたと言えよう。ただし、「専門家コミュニティーの大多数に受容された」ということが具体的に何を意味するのかについては、専門家コミュニティーの方で何らかの統一見解を用意して行く必要がある。
4.まとめ
心理学では、すでに結果がわかっている過去の出来事について、あたかも事前に予見できたかのような錯覚にとらわれる後知恵バイアスが人にはあることが知られている。今回のような事件について第三者が判断を下す場合、後知恵バイアスで当事者を裁いていないか常に注意しなければならない。そのためには、司法と専門家コミュニティーが意見交換し、合意形成を行い、一般社会に示して行く必要があるだろう。

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