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Vol.026 「科学への盲信」から脱し自立し始めた被災地

医療ガバナンス学会 (2015年2月10日 06:00)


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※このコラムはグローバルメディア日本ビジネスプレス(JBpress)に掲載されたものを転載したものです。

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/42651

相馬中央病院内科医
越智 小枝

2015年2月10日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp


それで、『本当のところ』福島の放射線ってどうなの?」

相双地区に移り住んだ後、友人からこのような質問をよく受けます。そこには福島のことが正しく報道されていない、という不信感、同時に現場にいる人はそれ以上のことを知っているに違いない、という期待感があるようです。
確かに世に出ている情報が偏っている、あるいは物事の多面性が無視されている、と感じることは多々あります。しかし実際に暮らしていて、情報が積極的に隠されている、あるいは偽の報道がなされている、という印象はありません。

ではなぜ、人々は実際以上に事実が隠蔽されていると感じているのでしょうか。
その根底には、科学的知識と情報さえあれば問題を解決できる、という思い込みがあるのではないか、それが1年間相双地区での議論をみてきた、私の考えです。
正しい情報さえあれば解決する。そのような誤った科学信仰が、思考力・思想力の発展を妨げています。
「福島の現状について自分が分からないのは、情報が不足しているからだ」と思ってしまうことで、情報が氾濫する一方で思考も思想も発展しない。それが福島の議論における一番の問題なのかもしれません。

◆知識偏重の議論

知識の中に正解がある。このような思い込みの結果、放射線に関連する議論が、単なる過去の論文の持ち寄りに終始する場合も少なくありません。現地に入る研究者たちにも非常な徒労感を与えているのもこの「論文合戦」です。
「現地のデータをいくら説明しても、『でも、XXX年にXXXで出されたXXXの学説では・・・』というやたら細かい話になる。そのデータと我々のデータは背景が違う、などと説明すると、すぐ『都合の悪いデータを隠している』と言われたり、『そんな知識もないのに専門家を気取るな』と言われたりするし・・・」
住民の説明にあたっているスタッフのお話しです。住民に安心を与えたい。そう考えて現地に入った研究者も、このいたちごっこのような議論に疲れてしまっているのです。

確かに過去の事例を知らずして未来を予測することはできません。先人たちの知恵なくしては将来の発展もあり得ません。しかし、科学は現実を伝え得ない。その重大な大前提を私たちは忘れがちなのではないでしょうか。

◆科学の限界

科学と現実の大きな違いは、蓋然可能性にあるといってもよいと思います。科学実験は再現できなければ真実と認められないが、現実は起こっているだけにそれを真実と認めざるを得ない、ということです。

「・・・出来事の場合には、全く予期しないことが最も頻繁に起こる・・・『結果を計算する』形式で推理するということは、予期せざるもの、すなわち出来事そのものを考慮の外に置くという意味である。なぜなら『無限の非蓋然性』に過ぎないものを予期するのは非理性的であり非合理的であろうから。・・・」-ハンナ・アレント「人間の条件」(1)

極論を言ってしまえば、科学の比較可能性を突き詰めていくほど、それは福島の「現実」から離れていく。たとえ数値で見えると思える放射線量という単位ですら、その矛盾を変えることはできません。
では再現性にこだわらず、現実を観察する、疫学のような学問では答は出るのでしょうか。それも残念ながら、現状では否、と言わざるを得ないと思います。
なぜなら、災害前、あるいは他の地域のデータなど、ベースラインとなる比較可能データがないからです。
このため、例えば原発事故と癌などの健康被害の因果関係を示すためには、震災前のデータ、あるいは震災の後継続的に癌が増え続けている、というデータが必要になってきます。

しかし例えば福島の甲状腺がん1つ取っても、2012年より2014年の方が癌の発症率が増えた、というデータはないのです。一方、かといって「だから癌は増えていない」ということを示すのはさらに難しいことです。
「今現在」「明らかには」増えていないけれども、「将来的に」増える、あるいは「実は観察されていないところで」増えている、という疑念を、疫学の力で完全に否定することはできないからです。
なぜ福島において、一流の科学者と呼ばれる方々の中でも議論が分かれるのか。そこには科学の限界、事象の限界、各々の価値観や哲学など、様々な要因が存在します。
誤った科学信仰を持つ人々の前に次々と「論文」「論説」が出されることにより、今や自分の意見に合う「証拠集め」をすることはあまりにも容易になってしまいました。
その結果、まず自分の信じたい意見を選び、その意見を通すために科学論文を利用する。知識があればあるほど、その罠に陥る人が増えているような印象を受けます。

◆「勉強不足症候群」

先日ある大学で原発事故と健康被害について講義を行った時に、学生から質問を受けました。
「もしマスメディアが報道することが正しくないとすれば、私たちは情報が正しいのか、正しくないのかをどうやって判断すればよいのでしょうか?」
その学生さんは、授業にも積極的に参加し、ディスカッション能力や思考能力を十分に持っている方でした。しかし科学が真実である、という科学信仰があまりにも強いため、科学的事実を思考で補填する、という考えすら思い浮かばなかったようです。
日本の大学生には、質問に対し、「勉強していないので分かりません」と弁解する、「勉強不足症候群」の人が多いそうです(2)。

科学的事実は知識があれば分かる、本を読めば分かる。そのような症候群は、情報を伝える側の人間にもしばしば見られます。
「コミュニケーション術の訓練が不十分だから、自分の意見が住民に伝わらない」
「受け手が論理力不足だから、混乱している」というものです。

しかし情報が氾濫する1億総批評家の時代に、コミュニケーション能力を鍛えさえすれば自分の意見が伝わる、と考えるのはあまりに奢った考え方です。どんなに努力したところで、世の中には自分とは別の意見を持った有能な論客がごまんといるからです。
福島の住民の方々は、むしろそのような「論客」から数値や理屈ばかりを聞かされることに辟易しています。
「自分がこんなに勉強しているのにどちらが正しいか理解できないのは、情報が足りないからなのではないか」
情報が足りない、隠されている、と感じている人もまた、実は情報に飽食した勉強不足症候群の方々なのかもしれません。そのような方々が本当に必要としているもの。それは、「分からないこと」を調理するレシピなのではないでしょうか。

◆「分からない」のレシピ

どんなに理屈を積んだところで、科学や情報はあくまで現実の切片しか示しません。その足りない知識を補填するものが思考力です。そして補填された知識をもって生き方の決断を下すのは、個人の価値観だと思います。
例えば現在相馬市で普通に暮らしている人の中にも、「震災以来、魚は産地に限らず1匹も食べない」「洗濯物は外に干さない」と言う方がいらっしゃいます。
その方々は必ずしも知識がないわけではなく、むしろ多くの科学論文を読んでいたりもします。不完全な情報を自分の価値観に照らし合わせて論理的に解釈した結果、不安に思いつつも相双で生きることを選ばれている。非常に合理的な選択だと思います。

一方で、震災の後にも猪鍋を囲み、山菜やきのこを食べ続けている人々もいらっしゃいます(3)。そのような方々も、決して放射線を無視しているのではなく、きちんと線量を測定していたりもします。
放射線というリスクと食文化を失うというリスクを天秤にかけ、自分の価値観から前者を取った方々。それもまた合理的な選択肢です。

このように、少しずつ、福島県内にも科学の限界を上手に調理される方々が増えている印象です。しかしいまだ多くの方は氾濫する情報に思想が追いついていない。そういう印象を受けます。
「分からない」「情報が足りない」
そのような発言の裏で、情報に飽食した人々本当に必要としているもの。それは、不完全な情報や理屈から生きた思考を編み出すための、「分からない」のレシピなのではないでしょうか。

◆「災後」を迎えるために

原発事故から3年半以上がたった今、福島には現在、不思議な「定常状態」が生じています。
「もう全く気にしない、っていう方と、今さら『怖い』『分からない』と言い出せない、という方に二分されている印象ですね」
福島市の除染情報プラザで住民への情報発信に尽力されるスタッフからお聞きした話です。安心を与えたつもりの情報の押しつけが、不安な人を沈黙させる結果になりかねない、そのような事実を端的に表していると思います。

「過去と他人は変えられない」
という名言があります。原発事故という過去は変えられないのと同様、議論で人を変えようとすることもまた、是認しがたいと思います。
安心な人は安心なりに、不安な人は不安なりに、共存しながら最良の道を目指す。そのために我々に必要なことは、情報や理屈だけではなく、その解釈の為の思想という道具を示すことなのではないでしょうか。

原発事故より後、様々な復興の取り組みとともに、少しずつ街の外観は震災前に戻ってきています。しかしどんなに土地や社会が復興しても、それは本当の人々の復興とは異なります。
相双地区がしっかりと「災後」を迎えるためには、皆で知識のレシピを考え、それを次世代へと残していくこと。それが震災4年目を迎えた日本の、これからの課題なのではないか、と思います。

(1) ハンナ・アレント著、志水 速雄 訳.「人間の条件」ちくま学芸文庫, 1994年.
(2) 苅谷剛彦.「知的複眼思考法:誰でも持っている想像力のスイッチ」講談社+α文庫, 2002年.
(3) http://agora-web.jp/archives/1625398.html

越智 小枝
1993年桜蔭高校卒、1999年東京医科歯科大学医学部卒業。国保旭中央病院などの研修を終え東京医科歯科大学膠原病・リウマチ内科に入局。東京下町の都立墨東病院での臨床経験を通じて公衆衛生に興味を持ち、2011年10月よりインペリアルカレッジ・ロンドン公衆衛生大学院に進学。
留学決定直後に東京で東日本大震災を経験したことから災害公衆衛生に興味を持ち、相馬市の仮設健診などの活動を手伝いつつ世界保健機関(WHO)や英国のPublic Health Englandで研修を積んだ後、2013年11月より相馬中央病院勤務。剣道6段。

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