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臨時 vol 128 「大野事件判決後の感想」

医療ガバナンス学会 (2008年9月19日 11:50)


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           医療制度研究会・済生会宇都宮病院 中澤堅次

大野事件の裁判の結果について、いくつかの記事や論説を読んだ。「捜査機関が介入したおかげで明らかになった事実があり、医師が中心になって行った病院や県の調査では、遺族が知りたかった真相をすべて明らかにすることが出来なかったことを、医師側はもっと謙虚に受け止めるべきである」という意見がある。「助産師が転院を勧め、先輩医師の助言もあったといういきさつがあり、それは警察が入ってはじめて明らかになった事実だ」としている。結果的に助産師と先輩の医師の助言の通りになったわけだが、調査がこれらの助言に及ばなかったことをもって医師や病院の隠蔽だという議論は行き過ぎと感じる。
事件そのものを論じる立場に無いので一般論で感想を述べる。医師は自分の責任で治療方針を決め、生じる結果に責任を持たなければならない。したがって他人の意見は参考にするが、最終的な決断は自身の責任で行なうことになり、助言と異なる判断をして悪い結果を得たとしても過失と考える理由はなく、院内調査にその事実が反映されなかったことも問題とはいえない。同じような事故を何回も起し、とかく強引であるという噂があり、本人が調査に協力しなければ別だが、いくら院内で起きた調査といえども、はじめから犯罪者の容疑固めのような手法は取らない。これは第三者機関ができたとしても同じと思う。医療が行なう事故調査は死亡にいたった病態とその原因を調べるものであり、院内調査でも第三者調査でも、直接責任のない人に、内容の善悪について意見を聞き出すことはしない。
今回は、警察が犯罪を疑い刑事裁判となっており、犯罪立件の過程で行なう捜査としては問題はない。このような調査方法は検察と弁護との対立関係になってはじめて登場するものであり、院内調査そのものが適さないという議論は成り立たない。もし国民がこのような捜査まで要求するのであれば、すべて罪人として訴え裁判に持ち込むしか方法は無い。
人の命に関わり不幸な死に関係した医師を罪人としてもよい。周囲の状況でどんな調査が行なわれてもよいと思う。しかし、法治国家において罪を判断する人は、司法手続きで資格が与えられた裁判官以外に認められるべきではない。死に関係したとされる罪人が司法により護られることも当然あって良い話である。第三次試案がデザインしている第三者機関による審判はこの司法の原則を曲げている。第三者の介入は調査権と審判権に及び、司法との二重構造になる。法治国家の原則にのっとっていないことが問題と感じる。
今回の判決に対するおおくの論説は、計らずして医療事故の調査方法の矛盾を明らかにしている。医療安全のための報告は、透明性を求めるが責任追及は求めない。白黒がはっきりしなくても黒とみなして再発防止の改善は行うことができるからで、目的が限られれば黒とされても依存はない。一対一の民事による解決もどちらかが譲ることで納得できる範囲は広く、的確な補償が行なわれれば必ずしも厳密な責任追及に頼る必要が無い。
多くの指摘にあるように、遺族の求める真相の究明は責任の追求であり、現在の司法体系も業務上過失を刑事犯罪としている。刑事犯罪になると審判にあいまいさや可動性は許されない。白黒をはっきり決めにくい医療事故においては、第三者といえども莫大な労力をかけてどちらから見ても公平な審判を下すべきであるが、残念ながら両者が満足できるほどの精度は期待できない。むりやり判定基準を法制化すると、権力や感情や利害や技術の進歩まで含んで訳のわからなくなる可能性が高い、あいまいな基準のもとで刑が確定すれば、対立関係はそのまま残される。責任追及が重要視されると、医療安全のための改善と、民事解決に支障を来たし、透明性が損なわれる分結果的には遺族の納得につながらない。
病院で起きた事故に対して私は医師として真相を究明したいと願う、遺族との唯一の合意点は真相を共有することにあると同時に、再発防止の改善活動に重大な根拠となるからである。しかし、真相究明の過程で罪人として自分や職員が裁かれるのであれば、最終的に人間として裁かれることを願う。遺族の悲しみの大きさゆえに、人として裁かれることが許されないのであれば、罪人になる前に医師を辞めようと思う。死に代わるものは厳密に言えば死しかない。医師を続けても死を以って報いることはできず、再発防止の責任を果たせなければ信頼は得られない。信頼なしには医療は成り立たず続ける意味はない。医療が無くても人間であれば生きてゆける。それが唯一の被害者の声にこたえるやり方であり責任の取り方である。
神が作り賜うた人間を、無知ゆえに損なう可能性のある医師は罪人といえる。医師はいわれなき捜査の介入を恐れる。介入があれば真相を究明することに抵抗を感じる。それは罪人として当然の感情である。遺族の悲しみに少しでも関わりたい。そのために真相を究明し、再発防止につなげたいという気持ちも同時に持っている。事故を起したことのあるまじめな医師はその葛藤に悩む。小さく産んで大きく育てるというが、方向性が異なるものが大きくなれば矛盾が広がるだけである。矛盾に苦しむのは医療者かもしれないが、その苦しみに影響を受けるのは病人である。病人で無い人にはこの理論はわかってもらえない。
断っておくがこの文章は遺族の方の感想を誹謗するものではない、医療事故で肉親を失った遺族の気持ちを思えば誰もが納得できる感情である。しかし、矛盾に苦しむ医師にとってこのギャップは大きく対立関係を埋める手段は無い。神ならぬ身は有罪になるしか遺族の納得を得る方法がないからである。法律でそれを決められるとしたら、人の命に関わることはやめるべきである。
信頼を失った今、医師にできることは、隠蔽をするな、カルテの改竄を自分の保身の手段とするな、誤りを犯す人間であることを隠すな、医師であるなら自ら罪人となることを恐れるな。罪びとであることを認めたうえで出来る限りの補償の努力をするしか方法はないと同僚に向かって言う。その延長で国民納得に資する仕組みを医師がプロとして模索できることを心から願う。
 
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