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臨時 vol 127 「私は医者という仕事をまっとうしたいので患者の立場には立ちません」

医療ガバナンス学会 (2008年9月18日 11:51)


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獨協医科大学神経内科
小鷹昌明 (おだかまさあき)


難病の患者から、「あんたみたいな健康な医者に、俺の苦しみや恐怖がわかってたまるか」というようなことを言われたと仮定する。そんなとき私はこう答えるであろう。
「おっしゃるとおりです。私は健康ですし、あなたではないのですからあなたの苦しみや悲しみを体験することもできないし、本当の意味ではわかりません。しかし、私もこの世界で十何年生きてきて、自分なりに過去の悲しい経験を基にあなたのつらい気持ちを推測するべく日々努めています。医師とはそういうものであると、いつも自分に言い聞かせています。しかし、仮に私があなたと同じ気持ちを体験できて、同じくらいに苦しんでいたら、きっと私はあなたのために知恵を絞ることも、悩みを聞いてあげることも、優しくすることもできなくなるでしょう。”一肌脱ごう”という気持ちの余裕もなくなるでしょう。それこそあなたと同じ、自分のことで精一杯になります。だから今の私は、あなたより苦痛が軽くなくては使命を果たせないのです」
また、脳卒中で入院した患者から、「たばこを減らせ、酒をやめろと言う医者には腹が立つ。もしやめることによって、俺の命が1年延びることが保障されるのならやめてやってもいいが、その保障もできないくせに何度も同じことを言うな」というご指摘も受けたことがある。まったくその通りである。医療が不確定、不確実であることを逆手に取って批判される。医療行為に確実性がないのであれば、仮に医療を厳守したからといって病気が回復する可能性もまた未知なのである。そんなとき私はこう答えるであろう。
「おっしゃるとおりです。たばこを吸うと一定の割合で脳卒中再発の危険が増えることは証明されています。しかしながら、私も過去の経験において、治ると思っていた患者が急死したり、もうだめだと思っていた患者がすっかり良くなったりする人などを診るにつけ、仕事柄、科学というものがいかに頼りないかということを身をもって体験しています。したがって、あなたがどうなるかは誰もわかりません。医者の責任逃れと都合で、”たばこは減らした方がいいですよ”と言っているだけです。守るか守らないかはあなた次第です。しかし、病気になったことでひとつのけじめを付けてもいいのではないかと考えています。たばこやお酒を今まで通りお続けになれば、以後のあなたの人生はきっとどこかで投げやりな気持ちになり、安易な方向に流れやすく、いざというときに、”どうせ”と思う気持ちになってしまうような気がします。それは、人間の営みから感激や情熱といった包容的な要素が欠落してしまうような気がしますから、ここはひとつ騙されたと思って、禁煙に取り組んでみる価値はあるのではないですかと提案しているだけです。ちなみに私は、若い頃はたばこを1日40本くらい吸っていましたが、医者になってから肺癌患者を診てやめようと思いました。息ができないで苦しそうにしている患者と何日も過ごしたことで、考えを変えました。今はとても健康的でいられます。」
私は、患者に対して同情することはあっても、その一方で「基本的には悪くなる病気なのだから、現状が維持できるのならばそれでいいではないか」とか、「現状を受け入れないとその先には進めないではないか」と思うことも多い。実際にその旨を告げることもある。理解が得られるように、伝えるための様々な思考を凝らす。が、しかし、最終的には身も蓋もない発想にしかならない。
一方、医師に対して患者が要求することは、「患者は医師にとって回答し難い(すなわち、治る見込みのない)不安や悩みに対する質問もするが、医師からは、ごまかしのない率直な人情味のある答えを、しかも悲観的でなく絶対的な希望のもとで語って欲しい」と思っている。ごまかしがなく人情味があって、しかも悲観的でない、というところがややこしい。医師は、このややこしさに正面から向き合って試行錯誤している。
とはいえ医師の大半の日々は仕事に追われている。医療の中での自分の立場などという抽象的な話題には興味はないし、本来考えたくもない。忙しい医師にとって限られた時間をどう使うかといえば、自分が本当に興味のあるものにしか取り付かない。新聞や本などもろくに読まない。基本的にリラックスできる環境を持ちたがるために、テレビは深夜放送かスポーツかバラエティーしか見ない(私はひねくれているのでテレビは1週間で2時間くらいしか見ないが)。医療事故や医療訴訟など所詮他人事である。こういう感覚の医師がマスコミ報道を見て何を感じるかといえば、特別なことは何も感じない。ただ国民に不安を煽っているとしか思えない。不眠症の訴えでくる患者の気持ちなど、疲労困憊して今にも倒れそうな内科医には所詮理解できない。
私は、大半の医師は普通の人間であるということを特に強調したい。聖人君子たる人格を求めることはしない方がいい。それを求めたい気持ちはよくわかるが、あまり大きな幻想は抱かない方が身のためである。その一方で、私が見る限り今の医師は昔に比べれば驚くほど頭の良い連中が多く、道具も器用に使いこなす。彼らは技術を磨くことに関して精一杯の努力をしている。だから、昔だったら思いもよらない術式をあみ出したり、難易度の高い手術をこなしたりする医師が登場しているのである。そのように技術を磨くことに躍起になっている医師から聖職的な人格を求めることは不可能である。それは、昼夜を問わず新製品の開発に明け暮れている技術者に、「営業の一線に立って顧客の心理をつかみ、社内一の営業成績を上げろ」と言っているのに等しい。でも安心して欲しい。そんな研鑽を積んでいる医師は、自分の技能が最大限に発揮されて、最大の効果を患者に還元できることを最大の喜びとしているのだから。
さて、医師にとっての目標というのは何であろう。会社員であれば売り上げを30%伸ばすなどの明確な目標を掲げやすい。私は考え込んでしまう。”売り上げ”、そんなことを言ったら非難される。”病気をすべて治す”、そんなことを考えていたら、自分の無力感ですぐに潰れてしまう。”業績”、それもあるがすべてではない。”患者の立場に立って考える”、なんとなく正解のような気がする。
では、”患者の立場に立つ”ということについて考えてみる。確かに、研修医の頃「患者を自分の親か兄弟だと思って診察しろ」と教育された。指導医から「大丈夫?」と尋ねられて、てっきり自分の体調を気にして言ってくれているのかと思い、「ありがとうございます。自分の体調は悪くないっス」と返答したが、「お前の体調ではなく、患者の具合だ」と言われてがっかりした記憶がある。しかし、その一方で、「自己管理もできないのに、患者のための診療なんかできるか」とも注意された。
両者は矛盾するような気がする。先に、「医療の中で自分の立場などには興味がない」とも述べたが、患者の立場に立つのが先なのか、自分の立場を確立することの方が優先されるのかわからない。最近では、”患者の立場ばかりに立っていたら決定的な決断はくだせない”という考えに落ち着いている。患者の気持ちをすべて理解することはできない。医師に重要なのは、患者の立場に立つことでもないし、自分の立場だけを優先するものでもない。”自分の立場で全力を尽くすこと”、ただそれだけである。その代わり、”患者の立場にはけっして立てない”ということを自分自身に言い聞かせている。それができれば欺瞞にはならない。
私の診療科であつかう神経難病の中には、アルツハイマー病や筋萎縮性側索硬化症など、現代の医学ではどうしようもない疾患がある。そうした患者の苦痛は大変なものである。難病患者は受け入れるしかないことも事実である。医師側からしてみると、もう諦めた方がいいと思う患者が実際に存在する。死を受け入れる心構えの涵養は、本来医師の仕事ではないし、政治や経済の仕事でもない。「手助けはするが、患者自らが学んで行くことである」という立場で医療を考えている。
「患者の心理を汲み取れないような医者はダメだ」と思われた読者がいたかもしれない。そんな医師を否定する人もいるであろう。私もこんなご時勢だから保身に走り、いろいろと医療の負の側面に目を向けることがある。でも、最終的に私の気持ちに芽生えることは、「でもやるんだよ」という意志である。単純かもしれないが、「医者の端くれなんだよ」という気持ちに突き動かされている

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