医療ガバナンス学会 (2015年3月9日 06:00)
以下二つの文章は、どちらも地球の有様を正しく表現しています。
(1)地球には、海抜8000メートルを超える山と水深10000メートルを超える海溝があります。
(2)地球は、半径約6400キロメートルのほぼ球形です。
どちらにもウソはありませんが、内容は随分と違います。そして、現在の商業的マスメディアを通じて与えられる情報は、(1)のように平均から逸脱したものばかりです。受け取る側が(2)のように平均的な姿を知らない場合、局所的には正しいのだけれど全体としては大間違いという誤解をしてしまう可能性があり、実際に多くの誤解が生じていると考えます。
ちょうど10年前、若気の至りで記者として11年半務めた朝日新聞社を退社し、しかしすることもなく暇を持て余していた私に、大学剣道部時代の先輩だった国立がんセンター中央病院の医師が「マスコミが変な情報を発信するせいで、誤解した患者さんとの間がギスギスして困ってる。患者さんは、診療まで病院で長時間待っているので、その間に読んで誤解を解いてもらえるようなフリーペーパーが欲しい。作らないか」と持ちかけてきたことから、現在の私はあります。
先輩に言われた半年後に医療機関の待合室に配置する月刊無料雑誌『ロハス・メディカル』を創刊、気づけば9年半が経過しました。今では月刊20万部。健康で病院と無縁な人には、その存在を全く知られていない一方で、首都圏のブランド病院を受診したことのある方ならほとんどの人が存在を知っているという不思議な雑誌に育っています。
9年半発行し続ける過程で色々な試行錯誤を行い、創刊前に持っていた仮説の多くは間違っていたな、とか、考えが浅かったな、という結論になりました。しかし一つだけ、やはり正しかったなと思うことがあります。
それは、情報には、受け手にお金を払ってもらいやすいものと、そうでないものがあるということです。その差は、情報の種類ではなく、ベクトルで生じます。
前者は、ある分野で既に平均より優れている人がさらに平均からの差を広げられるような、端的に言えば格差拡大のベクトルを持った情報です。後者は、そのようなベクトルを持ちません。
そういう目で眺めてみれば、お金を払ってもらう必要のある商業的マスメディアの情報が「平均を逸脱したもの」に偏るのは自然なことです。
しかし、この特性は、日本の供給過少気味な公的医療制度と極めて相性が悪いのです。日常の医療現場で必要とされているのは、平均像を伝える、情報の格差をならすようなベクトルの情報だからです。
患者が医療を上手に利用するためにも、医療提供側が限りある人的資源を有効に活用するためにも、まず患者は医療の実像を正しく認識しておき、その上で自分の要求水準を調整する必要があります。つまり「山」や「海溝」のことを知る前に、「地球は丸い」ことを知る必要があるのです。しかし医療の世界は専門性が高いので、普通の人は、自分が医療のお世話になるまで、医療の世界における「地球は丸い」がどういうものか知るはずもありません。その実像を本来は医療従事者が説明すべきと思いますが、人手不足で現場に余裕がないために、私に話が回って来たわけです。そして先輩から話を聴いた時、そういった類の情報に対して、患者は恐らくお金を払ってくれないだろうと考えました。私が「無料」雑誌という発行形態を選んだ一番の理由です。先輩にフリーペーパーと言われたから、無料を選んだわけではありません。紙媒体を作ることしか能のない自分が、社会の役に立てるチャンスだと思いました。
さて、創刊前に抱いていた仮説のうち、考えが浅かったと反省しているものも多々あります。最大の間違いが、正確で分かりやすい情報を出し続けていれば、他に類似のものがない以上、いずれ収益は伴うようになり、事業としても大成功するだろうという根拠のない確信でした。
東日本大震災以降どんどん経営環境が悪くなり、『ロハス・メディカル』に対してお金を払ってくれる顧客は一体誰なんだということを突き詰めてみた時、格差をならすベクトルの情報が社会に必要とされていることは間違いないにしても、どうやら経済的合理性だけから見た場合の顧客はいないようだということ、とすると私のしてきたことはビジネスではなく公益活動だったということに遅ればせながら気づきました。通常のフリーペーパーは、掲載する広告の効果を最大化するため設計されているものですが、そういうことを一切考慮に入れていませんでした。
気づくのが遅かったため、ビジネスモデルがおかしいという自覚のないまま多くの人を巻き込み、今のところ迷惑をかけっぱなしになっています。節目の創刊10年が近づき、そろそろかけた迷惑の恩返しもしないといけない、と強く考えるようになりました。
個々にはそれぞれ恩返しするとして、社会的には『ロハス・メディカル』をもう少し広く知ってもらって、その公益活動的な価値を考えてもらえたら、関わった人たちも少し胸のつかえが取れるかなと思いました。そこで、まずは特に自信のある「情報格差をならすベクトルの情報」を集めた書籍を、クラウドファンディングも活用して最低限必要な経費分の価格で出版し、広く世に問うことにしました。
それが『がん研が作った がんが分かる本 第2版』です。我が国最高峰のがん治療施設「がん研究会有明病院」の指導層にいるスタッフ約15人に濃密に関与していただいて、がん医療における「地球は丸い」にあたる情報を、基礎から最先端まで並べました。
読んでおけばイザという時に医療と上手に付き合える情報がギッシリ詰まっています。トリビア的な情報も含まれており、例えば、がんになったら医療用麻薬を積極的に使った方が命は延びるらしいとか、がんになったら炭水化物より不飽和脂肪酸を積極的に摂った方がいいらしいとか、知っていましたか? 2月26日までは初版丸ごと、第2版発売日の27日以降は、前半4章分を電子書籍で無料公開していますので、騙されたと思って、ちょっと読んでみてください。(http://lohasmedical.jp)
そして、こんな儲からない雑誌を作っているアホがいるんだなあ、それを応援してくださる奇特な方がいるから9年半も続いたんだろうなあ、と知っていただけたら嬉しいです。