【はじめに 医療安全委員会の設立に向けて】
医療事故や医療過誤、そして相次ぐ医療訴訟を背景に、日本でも現在、医療安全調査委員会の試案が厚生省の会議で議論されており、この試案(第三次試案)を基にした法案の作成と国民からの意見聴取が予定されています。これに際し、日本が世界標準の医療安全委員会を設立する基準たりうるのが、アメリカ合衆国・連邦復員軍人局の患者安全ナショナル・センター(1999~)が掲げる医療安全のポリシー(1)です。同センターは全米の復員軍人病院を運営し、医療安全システムの重要な世界的モデルのひとつとされています。
それでは、連邦復員軍人局の患者安全ナショナル・センターのホームページから、医療安全システムの基礎となる考え方をご紹介致します。
【Culture Change:Prevention,Not Punishment(文化の変化:予防、刑罰を与えない)】
「復員軍人病院の患者安全へのアプローチ」
1999年に出版された医学研究所(the Institute of Medicine)の画期的な報告である「人間は間違えるものである(To Err is Human)」に先立って、事実上、全てのヘルスケア機関は患者に害を及ぼした原因の調査を行ってきた。しかしながら、体系的に問題を解決しようと試みるアプローチはほとんど存在しなかった。
従来の調査では、有害事象に関係した個人と失敗に焦点を当ててきた。それにより個人の名前を挙げて罪を負わせるもので、有害事象の予防よりも処罰(刑罰)を強調したものだった。
復員軍人病院では、「エラーをなくすこと」から「患者への害を減らすあるいは害をなくすこと」へそのゴールを変換し、個人の行為に焦点を当てるよりも医療ケアシステムの存立可能性を調べることで、多くのことが成し遂げられた。
我々のゴールは単純である:ケアの結果として、患者に対する不意の(=故意でない)害を減らし、予防すること。
患者への害を減らすあるいはなくすことが、患者安全のための本当の鍵である。エラーをなくすことだけに焦点をあてた試みは失敗に帰するであろう。個人のエラーをゼロにすることは無理である。ゴールは”誤りに寛容な”システムの構築である。たとえ個人が誤りを犯しても患者への害につながらないシステムである。
こうして我々は復員軍人病院の患者安全プログラムの基盤を、処罰(刑罰)ではなく予防に焦点をあてるような問題解決型システム・アプローチに置いた。我々はシステムの脆弱さに照準を定め、それを排除するために、航空機産業や原子力発電のような”高信頼性”(を要求される)組織からの方法を学び、その考え方を応用している。
例えば、”誤りへの寛容”の原理も、”高信頼性”組織がそのシステムを構築する際に長年使ってきたものである。そして安全性も、ヘルスケア組織のものを圧倒的に凌駕している。
我々は人々を標的にはしない。個人の名前を挙げて、罪を負わせる過去の文化に加わるつもりはない。我々は繰り返し発生する問題、すなわちシステムに端を発し、無視されたり気づかれないままとなっている問題の連鎖を断ち切る方法を探している。
これを実行するための最も重要な方法の一つは、時にニアミスと呼ばれる身近なサインから学ぶことである――それらは実際、有害事象よりももっと高い頻度で起こっている。このような方法で問題点に取り組むことは、結果として安全なシステムであるばかりか、起こりうる問題を継続的に明らかにしては解決している全ての人々の努力に焦点をあてることになる。
だからといって、このことが在郷軍人病院が全くの処罰(刑罰)なしの組織だというわけではない。我々はどの行為が処罰(刑罰)の対象になるのか、ならないのかを線引きするシステムを持っている。故意に安全でない行為を行ったと判定された有害事象だけが、処罰(刑罰)の対象となる。患者と関係を持つというような、故意に安全でない行為をしたときは、刑法、患者との不適切な(肉体)関係法、アルコールもしくは薬物濫用や患者虐待などに関係する法律の対象となる。
こうしたアプローチを組織横断的に統合させることで、一定レベルの信頼と、安全の文化の永続につながる努力の焦点が創出される。
【Root Cause Analysis(RCA、基にある原因の分析)】
上記の患者安全のアプローチへの基本的な考えに続き、有害事象やニアミスに関して「どんなことが起こったのか」「なぜ起こったのか」を見いだし、再発予防のためにできることを決定するRoot Cause Analysis(RCA、基にある原因の分析)と呼ばれる集学的チームアプローチのプロセスが記載されていますので、以下にご紹介します。
通常、臨床の第一線で働く現場の人間こそ、問題点および解決法を見いだす一番良いポジションにいるので、復員軍人病院でもRCAチームが患者安全の改善を図るために必要な解決法、検査、医療機器を考案し、結果を見極めることとなっている。
*RCAのゴールは、
・何が起こったか
・なぜ起こったのか
・再び起きないよう予防するためになすべきこと
を見いだすことである。
RCAは、予防戦略を明らかにする手段であり、罪を負わせる文化を越えて「患者安全の文化」を構築する努力の一過程である。RCAでは、常に再発防止を念頭においたゴール設定がなされるという点で、病気の診断に似たプロセスで根本原因を見いだす。
*RCAは
1.第一線のサービスから専門家を参加させる学際領域である。
2.その状況に最も精通した人を参加させることである。
3.個々の原因や効果のレベルで「なぜか」を尋ねることによって、継続的により深く掘り下げることである。
4.システムを必要とされる変化を明らかにするプロセスである。
5.できる限り公平なプロセスである。
*完璧である為には、RCAは以下の内容を含んでいなければならない。
1.人あるいは他の因子を決める。
2.関係するプロセスとシステムを決める。
3.「なぜ?」という質問を繰り返すことにより、基礎のある原因と効果システムを分析する。
4.プロセスやシステムをどれだけ改善できるかを決める。
*信頼できるためには、RCAは、
1.組織のリーダーシップとプロセスとシステムに最も密接に関連した人を参加させなければならない。
2.本質的に首尾一貫していなければならない。
3.関係する論文を考慮しなければならない。
【結論 罪を負わせる文化からの離脱】
既に欧米の先進国は罪を負わせる文化を超えて、医療安全システムを構築に取り組んでいます。医療安全システムに関して2006年に発表されたイギリス議会の報告書「患者のためのより安全な場所:患者安全を改善するために学ぶこと」(2)でも、患者安全ナショナル・センターの医療安全のポリシーは紹介されています。そして同報告書は、「毎日、NHS(National Health Service)は100万人を超える人々を首尾よく診療している。しかしながら、ヘルスケアは国民、技能、テクノロジー、そして医薬品を含むある種の複雑な相互関係に依っている。時には、外科的治療は悪い方向に進み、医薬品投与の際のエラーは起き、患者は他の有害事象をこうむる。患者の安全を改善する為の動きは、2000年に保健省大臣のリポート『記憶のある組織』に始まった。罪を負わせる文化と、学んだ知識を共有するシステムの欠如が、医療安全の個別の事象を明らかにしてその数を減らすことの重大な障害となったことが、このリポートで明らかになった。」と結論付けています。罪を負わせる文化からは、医療安全のためのシステムは生まれないのです。
翻って、これから法案化の手続きに入る日本の第三次試案は、いまだに罪を負わせる文化から抜け出せていない内容です。日本の医療安全委員会のシステムを世界標準から逸脱させず、正常に機能させるためには、モデルとしての欧米の先進国の医療安全の文化を学び取り、拙速ではない十分な議論を重ねてから法案の作成に着手することが不可欠かつ最重要といえるでしょう。
参考資料
(1)アメリカ合衆国復員軍人局・患者安全ナショナル・センター
「文化の変化:予防、処罰(刑罰)なし」
http://www.patientsafety.gov/vision.html
(2)イギリス議会・「患者のための安全な場所:患者安全を改善するための学習」
A safer place for patients: learning to improve patient safety
http://www.publications.parliament.uk/pa/cm200506/cmselect/cmpubacc/831/831.pdf
著者経歴
関根 利藏
1988年 神戸大医学部卒
1989年 国立国際医療センター内科
1991年 東京医科歯科大学医学部循環器内科
2001~2002年 オランダ国立エラスムス大学メディカル・センター(心臓移植ユニット)
2006年 葛西循環器脳神経外科病院内科
日本内科学会認定総合内科専門医、日本循環器学会認定循環器専門医