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Vol.063 これからの福島の伝え方

医療ガバナンス学会 (2015年4月2日 06:00)


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南相馬市立総合病院・神経内科
小鷹昌明

2015年4月2日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp


ネット配信されている開沼博氏のコラム(俗流フクシマ論批判)を読んだ(https://cakes.mu/series/3229)。22回にわたる連載は既に終了していたのだが、最後は『番外編』として、「福島へのありがた迷惑12箇条:私たちは福島に何が出来るか?」という内容で締め括られていた。あえて挑発的な言葉で綴られたこの論考は、今後の福島の伝え方を考えるうえでとても示唆に富むものであった(少なくとも、私にとっては)。

開沼氏と私とは、以前に対談経験があり、その内容は『1984フクシマに生まれて』(講談社文庫)という文庫本にまとめられた。震災に関して、お互いの考えを述べ合うことで共感を得ることができたのだが、その後、彼と関わることはなかった。私は私の考えで南相馬市にこもり、医療を中心とした支援活動を行っていた。「アカデミックより先にやることがあるだろう」と考えていたからである。だから、学会や研究会などのディスカッションの場に出向くことは、ほとんどなかった。
彼のコラムは、「論理とデータとを用いることによって議論ベースの再設定を目指し、同時に、現代日本の地方が抱える窮状や産業、教育、医療福祉の病巣を浮かび上がらせる」ということを信条としていた。いま、改めて読み返してみると、彼は、随分と県外の、特に放射線論者たちからの攻撃に遭っていたようだ。それは、このコラムの「なぜ話が噛み合わないのか?」という副タイトルにも現れていた。
「福島を応援したい」、「福島の農業の今後が心配だ」、「福島をどうしたらいいのか?」という県外の人からの問いに対して、「一部にではあるが」と断りを入れてはいるものの、「その中には“問いがある”のではなく、“主張したいことがある”ようにしか思えない」と述べていた。どういうことかというと、「福島の子供たちを今からでも移住させて救うべきだ」とか、「政府は福島での農業を禁止すべきだ」とか、「マスメディアは情報隠蔽をやめるべきだ」とか言うような人の中には、「自らの主張を肯定してもらいたい」、あるいは、「主張を貫き通すことで、承認欲求を得たいだけ」というものもいると訴えている。

また、「“善意”はややこしい」ということも強調しており、県外の人は被災地に対して「迷惑をかけない」ということが何より大切だと断じている。被災地への迷惑の多くは、何かを攻撃したり傷つけたりするつもりのない、むしろ弱者への配慮や、自由と公正さを確保したいという「善意」があるがゆえに起こる「ありがた迷惑」なのだと。
具体例として、勝手に福島は危険だということにして、人々は怯え苦しんでいると煽る。チェルノブイリや広島、長崎、水俣や沖縄などに重ね合わせて、同じ未来が待っている的な適当な予言をする。「福島の人は立ち上がるべきだ」というような、上から目線で説教をする。外から乗り込んできて、福島を脱原発運動の聖地にしようとする。
ただの迷惑になっている「滑った善意」を持つ人の「善意の暴走」が起こっているその一方で、(もっと大切なこととして)「的を射た善意」を有する本当の良識人が、被災地を気遣う余りに言葉を詰まらせ、タブー化された「言葉の空白地帯」を生んでいると。皆が語るのをやめてしまった結果、正しい認識を持つことができなくなっていると。
迷惑をかけないためには、「理解すること」、それもひとりよがりな理解ではなく、「解ろうとすること」、「知ろうとすること」が重要だと説いている。

と、ここまでが、開沼氏のコラムから発信された心の叫びとも捉えられる見解である。
開沼さんが、福島を伝える度にこのような大きな苦悩を抱えていたとは、正直驚きであった。なぜなら、私が行ってきた講演活動の聴衆は、皆、理解のある方で、そうした反感を買うことなど一切なかったからである。もちろん、私の方が圧倒的に機会の少ないということもあるし、専門分野が異なるという理由もあるであろうが、福島県民の悩みが、“風化されない風評被害”という県外からの「ありがた迷惑」の対応だとしたら、こんなもったいないことはない。

もちろん私がこんな脳天気なことを言っていられるのは、「小鷹のやっていることは、打っても響かないような言論活動だからだ」と言われればその通りかもしれないし、「たまたまこれまで、人間関係で悩むような人生を歩んでこなかった幸せ者だからだ」と言われれば、さらに返す言葉はない。力のある人の言説には、それなりのリスクがあり、悩みも付いて回るのだろう。あえて対立するものとの柔和を目指したいのならば、批判されても仕方のない部分もある。そう言われると身も蓋もないのだが、毒にも薬にもならないようなことを語っている私の言説は、単に発信力がないだけでなく、つまらないきれい事だからである。
誰かが言ったことなのだが、情報を伝える場合に、「平均からの格差拡大のベクトルを持った情報」は重宝がられ(“お金を取れ”だったかな)、「平均像を伝える、情報の格差をならすようなベクトルの情報」には価値がない(同じく“お金を貰えない”)」ということがあるようである。私の言説も、つまりそういうことなのか。
被災地の淡々とした安全を伝える内容は見向きもされず、他者を煽るようなセンセーショナルな話題にばかりに反応が寄せられ、それが福島全体の真実のように独り歩きをする。開沼さんの指摘は、一部の側面を捉えた真実なのだろうが、その一方においては、本当に協力的な人たちもたくさんいる。要は、捉え方なのだ。
つまり何が言いたいかというと、「一部の攻撃的、あるいは善意に基づく迷惑を唱える人たちとの柔和を図ろうとする余りに、本当の良識人が離れていったのでは何にもならない」ということであり、もっと言うなら、その「ありがた迷惑」を奮う人たちは、二重の意味で被災地に負担を強いているということである。厳しいようだけれど。

最後に開沼さんは、「福島のために何かしたい」という人がいたとしたら、それに対しては、「“買う・行く・働く”」ということが妥当だと指摘している。確かに、そういう行動を取ってくれる人がいたとしたら助かる。加えるとしたら、「学ぶ・伝える・住む」もあるが、それは難しい注文かもしれない。
県外の多くの人たちの偽らざる今の感情は、こういうことなのではないか。
「風評被害に悩む福島県には同情する。だから自分は、根も葉もないような情報を信用することはない。だが、自分は福島に行かない」、「南相馬市に住む覚悟を抱いた人たちには敬意を評する。それは地元住民の覚悟とも取れる。だが、自分は住まない」、「出荷されている福島の食品は安全なのだろう。美味しいお米やお酒があるのもよく知っている。でも自分は食べない」。そして、「それなりに復興は進んでいるのだろうから、今後もがんばってもらいたい。自分は今の暮らしもあるし、あえて積極的に行動するつもりはない。ただひとつお願いしたいことは、危険性のあるものを県外に持ち出さないでくれ」と。
私は、応える。「もちろんそうだよね。僕たちが福島のために勝手にやればいいことだ。いつまでも県外の人たちに頼ってばかりはいられないし、覚悟を持った人たちが、その中でやればいいだけだよね」と。

福島を伝える方法が困難を極めてきている。センセーショナルな話題はほとんどない。「だったらそれでいいではないか」という意見はもっともかもしれないが、関心の薄れるなかで、淡々とした生活をどう伝えればいいのか。快適な土地を求めて移住する現代社会の中で、不自由とは知りつつも、自分の住む大地に愛情と誇りを持っている人たちがここにはいる。守るべきものは、この故郷であり、ここでの暮らしである。
このようなことを考えていると、「自分も住み続けている理由は何なのか?」ということに行き着くのだが、きっとその回答にこそ真実が隠されているのだろう。それは、まだわからない。ただひとつだけ言えることは、この地がどう再生していくかを見届けたいということである。大袈裟を言えば日本人として。

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