今年6月5日、研究開発力強化法(正式名称「研究開発システムの改革の推進等による研究開発能力の強化及び研究開発等の効率的推進等に関する法律」)が、自民、公明、民主などの賛成多数で議員立法で成立しました。この法律は自民党・林芳正氏、民主党・鈴木寛氏、公明党・風間昶氏らの提案によるもので、日本の研究開発の国際競争力を高めるための基本的な理念や方針を示しており、日本のライフサイエンス分野の将来に大きく影響すると考えられます。しかしながらこの法案成立を報じた新聞一般紙は朝日新聞のみで(1)社会の注目を引くことはありませんでした。一方、ライフサイエンスの分野の研究に関わっている医師や研究者にとっては、非常に重要な法律です。本稿では、法案成立にいたるまでの国会答弁(2)もあわせ、この法律の内容を紹介させていただきます。
まず、この法律がなぜライフサイエンス研究に携わる医師・研究者にとって重要なのかを理解するには、近年のわが国の研究開発をとりまく経済環境を念頭に置く必要があります。昨今の研究開発の国際競争は熾烈を極め、先進国は言うにおよばずBRICS諸国も研究開発分野には多大な投資を行っている状況です。それに対し、わが国の科学技術関連予算総額は平成13年には約4兆5千億円だったものが平成19年には約4兆円へ減少しています(3)。特に、平成18年より行革推進法(正式名称「簡素で効率的な政府を実現するための行政改革の推進に関する法律」)(4)に基づき、大学など研究機関では役職員の人件費を平成18年からの5年間で5%以上削減することが求められています。たとえば東京大学の平成17年度の人件費の総額は約820億円(5)ですので、5年間で41億円の削減を求められていることになります。これは平均給与を1000万円とすると410人の雇用が失われる計算になります。
さて、医学研究者にとって今回の研究開発力強化法における重要な内容は主に、1)科学技術に関する教育水準の向上、若手研究者の活用等による研究開発の基盤の強化、2)競争的資金の活用による競争の促進、3)科学技術の進行に必要な資源の柔軟かつ弾力的配分です。
なかでも若手研究者の問題は、法案採決に先立ち、6月4日の衆議院・文部科学委員会における共産党・石井郁子氏の質問中でも大きく取り上げられました。博士課程を終えたポストドクター(いわゆるポスドク)の失業は社会問題にもなっています。これは医学研究者の世界でも例外ではありません。人件費が削減される場合に多くの研究機関がとる方法は、新規採用を手控えることによる人件費の圧縮です。なぜなら、企業において正社員を解雇するのは難しいのと同様に、正規雇用の研究者(たとえば教授や講師や助教など)を解雇するのは難しいからです。よく働く若手研究者は研究成果を上げるためには不可欠な存在ですが、人件費抑制の結果として、研究を続ける希望をもつポスドクの多くは任期終了後の身分保証のない短期プロジェクトの雇用を受けるほかなく、非常に不安定な立場に置かれています。これはバブル崩壊後の日本企業が人件費圧縮のために若者の新規採用を減らし、その代わりに雇用の調整弁として多くの派遣社員を受け入れたのと同じ構図です。この構図の是非についての議論は別としても、その後今日まで「未来に希望をもてない」非正規雇用の若者の増加が社会問題になってきたのは事実です。たしかに医学研究者の多くは医師で、アルバイトのみで生活することも可能ですので、研究職を失業したからといって直ちに路頭に迷うわけではありません。しかし、若手研究者がこのような不安定な身分を余儀なくされたままで、世界に通用するような研究を行うのは困難です。このままでは、ますます熾烈を極めている医学研究分野の国際競争の中で日本が勝ち抜くことも難しいでしょう。このような状況を改善するにはやはり、人件費を増額し、若手研究者が活躍できる場を作る必要があると考えます。
その他、具体的に医学研究者に関わる内容としては、会計年度をまたいでの予算執行があります。従来の単年主義の予算執行は、数年以上の中長期のプロジェクトを行う場合の障害になっていました。しかし年度をまたいだ予算執行により、効率的な研究費の利用が可能になります。
ちなみに今回は冒頭のとおり議員立法で、閣法でなかったために霞ヶ関記者クラブを通じてマスメディアに情報が伝達されることもなく、それゆえ新聞・テレビの取り扱いが小さかったと考えられます。日本の国会で成立する法律には内閣によって提出される閣法と議員立法がありますが、閣法は閣議での一致が必要なため、財政赤字の日本では今回のような予算増を伴う新規法案は通過しにくいと言われています。この種の問題は関係団体の利害調整に手間取るので、結局は国民の代表である与野党の国会議員が決めるしかないのでしょう。
研究開発力強化法は方針を示した基本法で、具体的な数値は盛り込まれていません。今後この理念がどのように具体化するのか、今夏の来年度予算案作成や、臨時国会での税制改革議論を注視する必要があります。財政再建を目指す財務省との調整が難航を極めることも予想されます。我われ医学研究者も声をあげ、議論を盛り上げる必要があるでしょう。
引用文献
1.研究開発力強化へ3党で法案提出 科学技術の競争激化で (asahi.com).
http://www.asahi.com/politics/update/0528/TKY200805280087.html?ref=rss
2.衆議院TV. http://www.shugiintv.go.jp/jp/
3.科学技術関係予算について. http://www8.cao.go.jp/cstp/budget/index.html
4.行政改革の推進に関する法律.
http://www.gyoukaku.go.jp/about/index_gaiyou.html
5.財務情報:東京大学. http://www.u-tokyo.ac.jp/fin01/b06_03_j.html
著者紹介
日本対がん協会 がん対策のための戦略研究推進室 室長補佐
成松宏人
1999年 名古屋大学医学部医学科卒業
1999-2004年 愛知県厚生農業協同組合連合会 昭和病院 研修医・内科医員
2004年 国家公務員共済組合連合会 虎の門病院 血液内科 受託研修医
2005年 豊橋市民病院 血液内科 医員
2008年 名古屋大学院医学系研究科分子細胞内科学(血液・腫瘍内科学)修了
2008年4月より現職