臨時 vol 73 「社会システム・デザイン・アプローチによる医療システム・デザイン」1
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横山禎徳
(東大医科学研究所大講堂で2007年11月11日に行った講演に大幅加筆修正)
私は、元々は建築のデザイナーだったのですが、その後、経営コンサルティングの世界に30年近く過ごし、多くの企業戦略を立案しました。しごく当然のことですが、戦略は実施しないといけません。従って、企業戦略立案と同時に、その戦略を実施する体制である組織のデザイナーとして多くの時間を使ってきました。経営コンサルティングを数年前に卒業して今は、「社会システム・デザイナー」と自称しています。他にそのように自称している方が日本だけでなく世界にもあまりいないようなので、「世界でただ一人の社会システム・デザイナー」と称しています。といっても、依頼される仕事も何もありませんので勝手にデザインをしていまして、今は誰に頼まれたわけでもなく、医療システム・デザインを東大医科学研究所の上先生やその仲間の方々、それに医療以外の分野の方々と共に医療という垣根を超えた形でやってきました。第一ラウンドの作業はほぼ最終段階です。しかし、全体としてはまだ作業途中ですので、今日は途中経過のご報告でしかありませんが、考え方をご理解いただくにはとてもいい機会だと思っています。今日お話するのはすでにいろいろな議論が巻き起こっている医療課題というものを対症療法的部分解ではなく、「社会システム」として統合的に把握し、具体的解決策をシステム・デザインとして提案するということです。では、まず「社会システム」とは何なのかということを定義してみます。続いて、「社会システム・デザイン」のアプローチをお示しします。一般的に、デザインという分野は演繹的でも帰納的でもない上、学問でもないので、アプローチとか方法論というものが確立しにくいのですが、長年考えてきたダイナミック・システムをどうデザインするかという私の方法論をお話しいたします。それから、今、試みている医療システム・デザインの途中経過をお話しして、最期に、本来、「社会システム・デザイナー」どんな人達であり、どこにいるべきかということをお話ししたいと思います。医療課題の解決にはいろんな提案があるのですが、「改革のための医療経済学」(兪 炳匡:著)が指摘しているように、色々な要素が絡み合った複雑系のシステムであって厚労省単独で扱える範囲を超えているということを、まずみんな分かっていることであると思いますが、改めて言わせていただきます。ご存知のように、国のこれまでの単発的施策の多くはほとんど効果がないか、最初の想定とは異なり逆効果になっている場合もあります。一方、各方面から提案されるいろんな個別アイデアも実施すれば副作用がありそうなものが結構たくさんあります。医療のような複雑な分野は個別アイデアの積み重ねが予定調和的にうまくいくということはないようであり、トータル・システム的な発想がやはり必要ではないかと思います。厚労省が扱えない多様な要素の絡み合っているのが医療課題であるということに関していくつかの例を挙げますと、日本社会における死生観というのは近年かなり変容し、医療に対する期待値とのミスマッチが生じているとか、高齢者の新しい社会的役割や生活形態がまだ確立していないため、どういう高齢者医療が適切なのかを決めにくいなどの課題があげられます。また、地域コミュニティでの人間関係が変化してく中で、医師の位置づけと役割というものがはっきりしなくなってきています。それから、超高齢化社会に向けて医師への期待値の変化と新しい育成方法、および個々の医師の達成感とかの問題もあります。もっと大きくは、国家経済のなかでの医療行為の経済性、およびその担うべき経済効果など全てが厚労省を超えて統合的に組み立てられ、うまく回っていかないとどこかに歪みが出て来てしまいます。現行の医療システムは色々な課題を抱えていることは今、述べたとおりですが、中でも関係者というか、参加者間にやり取りを通じて自己規律が自然に醸成される仕組みが欠落しているのが基本的な問題だと思います。医者、患者、保険者の三者間に世間一般の自動車や家電、衣料、食品などの市場に見られる売り手と買い手の間の直接的なやり取りが無いから通常は出来上がるはずの「相場観」というか、価格と価値の相互関係を考えたうえでの妥当な判断と行動というものがなかなか出来上がって来ません。しかし、だからといって、医療分野に市場メカニズムを導入すればいいのだというように、「問題の裏返し」を答にしてもいい解決方法になるという予測も難しいし、保証もできません。「問題の裏返し」ではない、全く新たな答を必要としています。それを、政策提言という文章の羅列ではなく、具体的なアクションを統合した医療システムとして創造し提示するというのが「社会システム・デザイン」の基本的な考え方です。ここで「社会システム」とは、「生活者・消費者への価値を創造し提供をする仕組み」と定義します。この「価値を創造し提供をする仕組み」は当然予想されるように、既存の産業分類にとらわれない、すなわち、産業横断的な仕組みであって、その意味はこれまでの日本経済の成長と発展を支えてきた、ある意味では大成功をおさめた、縦割りの「産業立国」論からははっきりと決別しようということです。「医療産業」と「医療システム」とは全く違うものです。「医療産業」という定義には銀行、保険会社、情報システム会社などは入れないはずです。しかし、「医療システム」と言ったら医療保険を売っている保険会社も入って来るし、病院を建てる時に融資をしてもらうとか、資金繰りのための日常資金を借りる銀行も入って来るのです。それに病院経営に必要な医療情報システムを提供する情報システム会社も入ります。食事のケータリング会社も入るでしょう。あるいは、医師や看護士を育てる教育機関も入ります。医療関係の出版社やネットで医療情報を提供する会社も含まれるべきでしょう。そういう意味で「医療システム」というのは産業横断的な定義なのです。これは、当然、監督する省庁も横断的であるべきであって、この面からも厚労省の扱える範囲を完全に超えているのです。このことは厚労省の当事者だけでなく、広く世間一般に理解されているはずです。しかし、実際には厚労省を超えた形で医療を組み立てる動きはそれほど強く出ていません。今まで通りのやり方で進めているという印象が強いのではないでしょうか。それを、よく「国益なくて省益」ありという言い方で批判する向きがあります。しかし、そういう面よりも省庁横断的な課題を誰がどうやって対応すべきなのかという方法論を現行の行政機構が持っていないのであり、そのことが大きな問題であると思います。行政機構が使っている既存の「制度設計」という手法は、一省庁の範囲内での法律という規制体系を作ることが目的であり、「社会システム」的な産業横断的な「制度」を「設計」するための手法ではないことが問題なのです。そういう意味で現在の行政機構は「運営の仕組み」と手法の更新時期に来ているのであろうと思います。そのような更新のデザインを誰が企てる責任を持っているのかは見当もつきませんが。図1 http://medg.jp/mt/yokoyama.pdfこのような「生活者・消費者への価値を創造し提供する仕組み」は技術ロジックだけで決まるのではなくて、それぞれの社会の持っている価値観と絡んでいますのでなかなか難しいのです。だからこそ、「社会システム」と呼んでいるのです。私は、デザイナーであって、学者ではありませんから、物事をつぶさに観察し、新たな仮説に基づいてロジカルに組み立てた論文を書くことで評価されるという形での達成感を求める立場ではありません。それよりも、多くの一般人が理解でき、やってみようかという気になるような、実際的な行動を誘起し具体的で望ましい方向への変化を実現するという視点から定義します。いいかえると、学問としての論理的厳密さよりも実践的有効性を優先します。それから、外国の優れた例をいくら語ってみても、しょせん外国は外国、日本は日本ですから、日本の過去の歴史を踏まえた上で、現在の状況に適した特殊解を追求しなければいけません。どんな問題解決の場面においてもよその誰かが作りだした、特に、外国の誰かが作りだした一般解からスタートするアプローチは、ほとんどいい成果につながらないのが私の経営コンサルティングを通じての経験です。自分の置かれている状況に適した特殊解を考え抜いた後、すでに存在している一般解と比べてみて、「うーん、外国はよく考えているな」とか、「私の解は全然違うが、どっちが優れているのだろうか」というように一般解は使うべきだと思います。それから、最近、消費者庁の設立の動きなど消費者に目を向けるようになって来ましたが、提供者が消費者に関心を持つということでは不十分です。「官」が持っているこれまでのパターナリズム的感覚から抜けきらないからです。「消費者からの発想」を耳に心地よさそうな掛け声ではなく具体的に実現することが必要です。政治家はすぐに「国民のために・・・」とおっしゃいますが、「国民」というのはちょっと抽象的で広過ぎます。高齢者も若者も、そして、政治家も官僚も企業家もみんな入ってしまいます。多くの「国民」が飽き飽きしている政治家のリップ・サービスに終わらせないようにしてほしいのです。抽象的な「国民」ではなく、色々なタイプのいる消費者のそれぞれに対して具体的な価値提供を実現してみないとダメなのだということです。だからこそ、生活者や消費者に「価値を届ける仕組み」に着目するわけです。これまで日本は「産業立国」というように産業別縦割りでやってきたことはすでに述べましたが、その対象には何があるのかと言いますと、育成すべき企業や業界だったのです。すなわち、産業振興と産業保護を目的とした施策が大半だったのです。かつての池田内閣時代の「所得倍増計画」は所得そのものではなく、産業と企業の急成長を促進する計画であり、それゆえに大成功したように、これまではそれでよかったのかもしれません。しかし、今後は発想を切り替える必要があります。「社会システム」というのは、これらのすでに高度に発達した産業に横串を通して「生活者・消費者への価値の創造と提供」を目指しています。だから、提供者側の都合に関係なく、消費者が良いと言ってくれるかくれないかというのが全ての価値判断であるということです。誰が考えても、交通システム、産廃処理システム、電力供給システムとは「社会システム」なのですが、それは技術ロジックでほとんど決まってしまいます。通信システムもほとんど技術の合理性とロジックで決まってしまいます。インターネットというのは、ツリー構造ではなくて、その名のとおりネット構造になっていますが、通信の安定性、信頼性のためであり、技術からの発想です。従って、国や文化を超えて世界共通に活用できる普遍性を持っています。しかしながら、多くの「社会システム」にはその国の社会が持っている固有の価値観も大きく影響するわけです。日本の教育システムに関しては、ゆとり教育実施はよくなかったとか、詰め込み教育はいいとかだめだとかいうように、色々ああだ、こうだと批判しています。私には「よいゆとり教育」と「わるいゆとり教育」があり、「よい詰め込み教育」と「わるい詰め込み教育」もあると思いますが、要するに、教育に対する価値観が違うと教育システムはその影響を受けるのです。安全保障システムや訴訟システムに関しても各国の持っている価値観はかなり違うであろうと思います。そして、医療システムは大体真ん中にいます。この分野は、やはり、社会の価値観と技術ロジックの両方が絡んだ世界であると考えているわけです。図2 http://medg.jp/mt/yokoyama.pdfここで「社会システム・デザイン」のアプローチについて述べてみます。このアプローチの最大の特徴はダイナミック・デザインというものを目指しているということです。出来たときのままで固まってしまうのではなく、毎年、時間が経つにつれて変化し、段々と状況が良くなっていくというようにデザインをするということです。そこが、この「社会システム・デザイン」のミソなのであり、工夫をしたところです。世の中の多くの分野のデザインは基本的にスタティックです。すなわち、時間の経過に関係ないのです。私は以前、建築家でしたけど、建築は「固い」ものであり、よく言えば安定感があり、自然に形が変わっていくということは絶対にありません。今、私が喋っているこの講堂のある建物はいつ出来たのか分かりません。多分1920年代か1930年代に出来たと思いますが、その頃からほとんど変わっていないように見えます。当たり前ですが、人が改築、改装などの手を入れないと変わっていきません。自己変革はしないのが建築です。それを美しく表現したのが「建築は凍れる音楽である」ということです。情報システムも同じです。このシステムは「触れなくて目に見えない建築」というのが当たっているのではないでしょうか。目に見えないから分からないのですが、コンピューターのプログラムというものは硬くて融通の利かないもののようです。翻訳マシンが中々大成功というわけにいかないのは言語の融通無碍さにコンピューター・プログラムの「硬さ」がうまく対応しきれないからでしょう。たとえファジーさを組み込んでみても、時間軸と関係ないことは変わりないのです。情報システムは出来た瞬間から陳腐化を始めるというどうしようもない宿命にあります。そのような建築や情報システムとは違って、時間とともに変わっていくものをデザインしたい、すなわち、自在に変化し、毎年ちょっとずつ良くなっていくものの組み立てをしたいのです。そのようなダイナミズムをデザインするアプローチとして5つのステップを考えたわけです。図3 http://medg.jp/mt/yokoyama.pdfまず悪循環を定義します。現実の世界には毎年ちょっとずつ悪くなっているものがあります。それが悪循環と呼ばれるものなのです。世の中のいたるところでこの悪循環が長年、確実に回っていていることに気がついていないことは非常に多いのです。無意識のまま放置されてきたこの悪循環をまず発見して意識にのぼせた上でしっかりと定義し、関係者一同で吟味し、「やっぱりそうだ、そのとおりだ」と確認し、みんなで納得します。最近問題になっている産婦人科医や小児科医の場合もそうなのですが、医師の数が減れば減る程、また減っていくというサイクルに入っているわけです。睡眠時間を切り詰めて30時間以上ぶっ続けで働かないといけないような過酷な就業環境にたまりかね、「もう、これではやっていられないよ」ということで辞めてしまう。そうやって現場の医師が減っていくと、少なくなった医師数でこれまでと同じ仕事量をこなさないといけないわけで、もっと「やってられない」状況が来るからまた医師が減っていき、もっと状況は悪くなっていくわけです。そういう悪循環に入っているのだということが分かります。このようにして今まで無意識になっていた悪循環を定義するのが第一ステップです。実際は、このような因果関係はもっともっと複雑に色々な要素がからみあっているのですが、コンピューターによる高級なシミュレーションモデルを使って多くの因果関係を見つける作業をやるよりも、みんながじっくり考えれば思いつく範囲内で、出来る限り悪循環を見つけて、それを無意識の状況から意識にのぼせてはっきりと定義していこうという考えです。作業を高級化するとその背景にあるロジックがブラック・ボックスになってしまい、素朴な生活実感から離れてしまうことは避けた方がいいのです。それから、悪循環は普通よくやる問題の指摘とその羅列とは違います。因果が巡って元に帰ってき、て状況がより悪化しているという循環を想像力を駆使して見つけないといけないのです。いい意味で「風が吹けば桶屋がもうかる」というような形で、次の段階はどうなる、その次の段階はどうなると発想していく必要があります。実際にやってごらんになるとすぐわかりますが、これはこれで結構な能力訓練が必要です。図4 http://medg.jp/mt/yokoyama.pdfこれが問題だからといって、それを裏返したらといって優れた答えが出てくることはありえないということはすでに述べました。世の中はそんなに単純ではありません。たとえ、昔はそうであったとしても、現在の世の中は段々と複雑になってきていることは明らかです。そのような時代であるにもかかわらず、中核課題を定義するとすぐにその裏返しの改善策に走るという、分かりやすいことはあるにしても、拙速主義の行動を避けることが必要です。悪循環をしっかり定義することはそこにかなりの時間を使い、複数の悪循環を見つけ出すという思考を通じて、物事の複雑さをより深く具体的に理解するという意味でもあります。先ほどの産婦人科医や小児科医が足らなくなっているという悪循環も、それを単に裏返して仕事のやり方や患者の行動変化もなく、ただ増員すればいいということが現実的な答えではないことは明らかです。悪循環は簡単に裏返しの答を出せません。裏返しが答にならないのです。従って、第二ステップとして具体性のある良循環をまったく別のところから発想して、ある意味では発明・創造しなくてはいけません。ここは、創造性を発揮する能力の問題です。これも訓練が必要ですが、訓練可能です。図5 http://medg.jp/mt/yokoyama.pdfこの新しく創造した良循環というものは、今、世の中に存在しないわけですから、この循環を「駆動するモーター」、あるいは「エンジン」が必要なわけです。その「エンジン」が、サブシステムということです。現在存在していない良循環を新たに作り出し、うまく回転さていくためには少なくとも三つ位の強力な「エンジン」が必要です。このサブシステムの抽出が第三ステップです。そのサブシステムまで定義出来たら、あとは細かい行動ステップのフローを作ることですので、コツさえ知っていれば誰がやっても大体同じものが出来ます。そのフローを見ても何すればいいのか具体的にイメージがわかないと言う人がいれば、そのフローを何層にももっと細かく分解し、より分かりやすく具体的にしていくことをすればいいのです。誰がこの行動を起こせと言われたらすぐに取り掛かることが出来るという所まで深堀していけますから、そのようにしつこく追求すべきです。すなわち、サブシステム以下は、ステップごとでとるべき行動の具体性にこだわります。誰がやっても間違うこともなく、全く同じように行動できるというところまで具体的につめるわけです。だから、官僚が得意としている法律を作る作業とは少し違います。竹中平蔵さんが官僚に法令の文章のテニオハを変えられて骨抜きにされたとおっしゃっていますが、「社会システム・デザイン」ではそういうことが起こらないのです。やるべき具体的な行動が全部書いてあるわけですからやらないわけにはいかないのです。サボタージュはできないのです。これからは、まず、こういう具体的な行動を規定する作業をやり、その次に、本当に必要な事象に関してのみ法律を作るというステップにしていただきたいというのが私の希望です。図6 http://medg.jp/mt/yokoyama.pdf先程申し上げたように、このようなアプローチはスタティック・デザインではありません。すでに述べたように、建築は、スタティック・デザインですし、情報システムもスタティック・デザインです。状況は時々刻々変わっていきますから情報システムというのは、出来上がったその日から新たな状況に対応できなくなり陳腐化を始めます。そういうものなのです。情報システム自身が状況変化に合わせて自律的に自己変革出来るところまで進歩していないのが実態なのです。システムとしては大変高級なシステムなのでしょうが、ある意味ではまだまだ非常に幼稚なシステムです。自己変革することが出来る複雑系のシステムとは有機体がそうであり、擬似的な有機体、すなわち、皆さんが住んでいる東京もそうです。都市は人間の作り出したもっとも複雑なシステムのひとつでしょう。長い時間をかけて作り出したシステムです。都市デザインは7,000年にわたる試行錯誤の歴史があります。少し難しい話になりますが、システムをツリー構造にデザインしていきますと必ずフリーズ、すなわち、固まってしまい、変化する状況に反応しないという融通のきかないことになってしまうのです。従って、東京という大都市はツリー構造になっていないことはなんとなくお分かりでしょう。「社会システム・デザイン」もツリー構造のアプローチではなく、上位の構造に時間軸を入れるというのが「良循環」、「悪循環」という考えです。一般的にデザインというのはエンピリカル(経験的)であり、100年前も今日も、そして100年後も常に正しいというような、これで決まりだというものはありませんから、ベストなものは求めようもなく、常にベターなものを求めていくという世界です。「社会システム・デザイン」も同じであり、ベストなシステムを目指すのではなく、現在抱えている課題に対して現在考えられるベターな解を求めることは変わりありません。従って、まず、最初に、それぞれの分野の中核課題からスタートして、このように悪循環がいくつか回っていますからそれを見つけていくことをやるのです。例えば住宅供給の課題でしたら、戦後日本政府がやってきた持ち家推進策が時代に合わなくなっているという問題があります。すでに1970年代には日本人の7割が持ち家になりましたからその政策の役割も終わっていたのです。しかし、そのような状況になってから数十年、ずっと住宅金融公庫に毎年5,000億円以上も税金から利子補給をしていました。その結果、税金を無駄遣いしただけではなく、逆に、持ち家推進が持ち家にならない悪循環を作っています。やっと、住宅金融公庫の機能はもういらないと言って止めることになりました。寿命の尽きた住宅金融公庫の存在が問題だとしても、その問題を裏返しただけの住宅金融公庫の住宅ローン提供を廃止しただけでは、既にいらなかったものがなくなるだけで何も新しく質の良い住宅が取得しやすくなるわけでもないのです。そうしたいのであれば、別途、新しい住宅供給の仕組みを工夫し組み込まないといけないのです。それがシステムをデザインするということです。また、住宅金融公庫の住宅ローンがなくなると東京の町並みはすごく美しくなりますか。当然の事ながら、別に美しくはなりません。東京を美しくしたいというような新しい行動を広く起こすためには全く新しい仕組み、すなわち、システムが必要であり、それもデザインが必要です。この様な形での「社会システム・デザイン」をご理解いただいたという前提で、最初に、申し上げた、現在、進めている「医療システム・デザイン」の試みについてこれからお話ししてみます。医療の世界における中核課題は、基本的には医師、患者、保険者間が分離されているために自己規律ができあがるメカニズムがないということであろうと思います。すなわち、医師が医師の本分としての良い仕事をしているということとは別に、どういう行動が価格対価値という観点から妥当なのかという、ある種の自己規律というものが三者間のインタラクション、やり取りを通じて出来上がるシステムにはなっていないと思います。だから、厚労省は、皆が無規律な浪費をするのではないかと思っています。当然、歳出を抑えようとします。たしかに、経費を抑え込むことを推進することで、規律と新たな工夫が生まれるという良循環が出来ることも世の中にはあるのかもしれません。しかし、日本の医療システムのおかれている現状を理解する限り、医療費を減らしながら良循環を作れということはほとんど無理というか、矛盾だと言っていいと思います。厚労省も新たな良循環を作り出したいと考えて経費削減をやっているというほどよく考えているわけでもないのでしょう。(次号につづく)