臨時 vol 15 「医療者にとっての安心・期待・納得」
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―死因究明制度創設で議論すべきことー 井上清成(弁護士)
1 信頼関係の再建
現在、医療事故調査制度のあり方をめぐって各種の議論がなされている。その目指す究極の目的が「医療者と患者との信頼関係の再建」にあることは、誰にも異論のないことだと思う。
信頼関係の崩壊が、医療者から見れば萎縮医療を招き、患者から見れば医療不信を招いた。医療者の萎縮が酷くなれば、患者不信にまでつながりかねない。このまま推移するならば、破局的な事態にさえ至りかねないと思う。
その原因の最たるものが、法的責任をめぐる軋轢、又は齟齬にあると考えている。そこで、信頼関係の再建のために、法的責任をどう修正すべきかについて述べたい。
2 安心・期待・納得という理念
安心の医療、患者の期待、患者の納得という理念が強調されている。そのどれも、理念にとどまる限りは、否定的な評価をする理由はない。しかしながら、現在は、それら患者の安心・期待・納得が、理念にとどまらず法的道具にまでエスカレートしてしまった。医療者の法的責任を追及するための法律用語にまでなっている。
他方、医療者はどうであろうか。医療過誤があれば業務上過失致死傷罪の犯人にされかねず、不安な中で萎縮した医療を施している。不確実で限界の多い中、頑張って患者と共に苦しみ喜びたいと期待していたにもかかわらず、治癒して当然、治らなければ不信の眼でみられ、時には非難され責任追及されてしまう。納得の行くまでゆとりをもって治療をしてあげたいと思っているにもかかわらず、もうけ過ぎだと批判されて医療費が抑制され、社会保険事務局からは過剰診療だとチェックされる。
しかしながら、医療者にとっても、当然、安心・期待・納得がなければならない。
3 安心・期待・納得の衝突
それでは、医療者にとっての安心・期待・納得も、患者におけるのと同じに、法的道具や法律用語にしてしまうべきであろうか。もしも、そうしてしまうと、医療者と患者との間で、双方の安心・期待・納得の衝突が生じてしまう。双方の衝突を敢えて生じさせ、その上で「契約」させようという法的手法を採用した国
がアメリカである。そのアメリカ型を模索するのが、日本における「医療者と患者との信頼関係の再建」にとって有効適切なのだろうか。
医療者が開き直って、法的道具・法律用語としての安心・期待・納得を希求したとしたならば、つまり、真の診療「契約」を指向したとしたならば、その行き着くところは、自由診療中心の私的医療である。つまり、国民皆保険制に基づく公的医療は崩壊せざるをえない。
果たして国民はそれを望むのであろうか?それが真の「国民感情」なのだろうか?疑問に思わざるをえない。「どちらの方向を目指すのか?」に関する選択権は、実は、主として医療者が握っている。
4 安心・期待・納得の法的無力化
私見では、患者の安心・期待・納得を、法的道具や法律用語から排除すべきであると思う。法的には無力化しなければならない。
こうすれば、業務上過失致死傷罪の過失概念も変えざるをえなくなる。刑事罰の適用除外、少なくとも重大な過失へ限定する道も開けるであろう。より根源的には、民事での医療過誤損害賠償請求訴訟での判断基準(医療過誤の判断水準論を、法律の世界では、医療水準論という。)も変革しなければならない。この民事でも、医療過誤の判断水準は、せいぜい重大な過失にとどめるべきである。
これらの変革を行うことができるならば、被害の救済は医師への責任追及という形ではなく、無過失補償という形で行いやすくなるであろう。実は、法技術的には、無過失補償制度を円滑に導入するためには、その前提として、医療過誤の判断水準を精査することが必要なのである。
5 実体法の議論の必要性
現在、厚生労働省の「診療行為に関連した死亡に係る死因究明等の在り方に関する検討会」では、医療事故調査制度(死因究明制度)の創設に関する議論がなされている。厚生労働省は第二次試案を発表した。
しかしながら、そこでの議論は、現行の刑法や民法を所与の大前提にしたものにとどまっている。医療制度の全体や全国民や全国民の感情に関する大局的かつ動態的な考察に基づく議論に乏しい。微視的かつ静態的な考察に基づく技術論にとどまっている。その結果、その法技術論も、行政法的な組織法や手続法に関わるものに過ぎない。より根源的な刑法や民法といった実体法の議論が必要である。
何が本当に「医療者と患者との信頼関係の再建」にとって有効適切なのか?必ずしも目先の組織整備や届出の手続整備だけでは十分とはいえない。このことを踏まえ、「検討会」では腰を据えて議論してもらうことを望む。
著者略歴
昭和56年 東京大学法学部卒業
昭和61年 弁護士登録(東京弁護士会所属)
平成元年 井上法律事務所開設
平成16年 医療法務弁護士グループ代表
病院顧問、病院代理人を務めるかたわら、
医療法務に関する講演会、個別病院の研修会、
論文執筆などの活動をしている。
現在、日本医事新報に「病院法務部奮闘日誌」を、
MMJに「医療の法律処方箋」を連載中。