医療ガバナンス学会 (2007年10月27日 14:36)
厚生労働省の「診療行為に関連した死亡に係る死因究明等の在り方に関する検討会」が07年4月に発足した。いわゆる「医療事故調」の設立のための検討会である。私は、第2回の会合で意見を述べる機会を得たが、各委員がキーワードの「医療関連死」という言葉さえ異なるニュアンスで使っているような状態で、議論が全くかみ合っていなかった。驚いたのは、議論をかみ合わせようとする努力なしに、猛スピードで議論が進められたことだ。議論をしたという実績を残そうとしているとの強い印象を受けた。その後漏れ聞く情報によれば、「医療事故調」に、社会保険庁解体に伴って生じた余剰人員を吸収したいという意図があるとのことだった。本当かどうか知る立場にないが、これが本当なら、厚労省は、省益のために、将来の日本の基本設計の議論をないがしろにしたと非難されても仕方がない。
07年8月末に公表された「これまでの議論の整理」も何の方向性も見いだせておらず、成果はないに等しい。私は検討会の座長である刑法学者の前田雅英氏と07年8月14日の讀賣新聞朝刊で誌上討論を行った。前田氏との主張には「法的責任追及に活用」、私の主張には「紛争解決で『医療』守る」の見出しがつけられた。この議論から、厚労省の狙いが、法的責任追及に向いていることが強く懸念された。07年10月17日、厚労省は検討会の議論とは別に、独自の第二次試案を発表した。案の定、「行政処分、民事紛争及び刑事手続における判断が適切に行えるようこれらにおいて委員会の調査報告書を活用できることとする」と明記されていた。
「医療関係者の中に悪いことをしている奴がいる。そいつらを見付け出して罰してやろう」というスタンスである。罰則で報告を義務付け、医療事故を広い範囲で収集して、罰をあたえるかどうか網羅的に検討しようとするものである。医療について十分理解していない法律家が評価を下し、政治の支配をうける行政官が事務方を担当することになれば、医師は逃げ出さざるを得なくなる。法律家は医療がどのようなものかほとんど知らない。通常の患者と同じく、しばしば、医療は無謬でなければならないという前提に立っている。現代医学は万能であり、医療行為が適切であれば、有害なことは起こり得えないと信じているふしがある。有害なことが起きれば、それは善悪の問題であり、システムや費用のかけ方の問題ではないと思っているし、なによりも、医療が不確実で限界があることを理解していない。
さらに、本邦特有の問題がある。行政官、とりわけ、厚労省の行政官は政治とメディアから、正当なもの不当なものを問わず、激しい攻撃を受け続けている。このため、攻撃をかわすこと、すなわち、自己責任の回避が行動の基本原理の一つにならざるをえず、しばしば大衆メディア道徳とでもいうべき現実無視の論理に同調して、同僚を切り、あるいは、現場に無理な要求をしてきた。
司法、政治、メディアはものごとがうまくいかないとき、規範や制裁を振りかざして、相手を変えようとする。これに対し、医療、工学、航空運輸など専門家の世界では、うまくいかないことがあると、研究や試行錯誤を繰り返して、自らの知識・技術を進歩させようとする。あるいは、規範そのものを変更しようとする。社会学者ニクラス・ルーマンは、司法・政治・メディアなどを規範的予期類型、医療・工学・航空運輸などを認知的予期類型に大別し、両者の考え方の違いを整理した。「(違背にあって)学習するかしないか それが違いだ」とルーマンは表現している。地動説に対する宗教裁判は、規範的予期類型が認知的予期類型を押しつぶした歴史的一例であるが、結果としてこの事件は、神学の権威を大きく失墜させる方向に働いた。
このことは演繹と帰納という観点からも理解できる。法律家は規範を絶対視し、規範から演繹的に物事を判断することを当然とする。科学者は、仮説を証明するために、一定条件の対象を適切な方法で検討し、帰納的に仮説が真かどうかを検証する。科学的真理とは、対象と方法に依存した仮説的真理である。真理の表現方法、精度、限界は方法に依存している。司法は、この仮説的真理という醒めた見方を共有できないため、白か黒かを無理やり決めようとする性癖がある。さらに規範が適切かどうかを、現実からの帰納で検証する方法と習慣を持たない。このため規範が落ち着いたものにならない。
「医療事故調」が議論されるようになった背景には、医療崩壊の危機がある。医師が患者の無理な要求や、それを支持するマスコミ、警察、司法から不当に攻撃されていると感じるようになり、士気を失い病院を離れ始めた。崩壊を食い止めるための方策の一つとして、患者と医師の軋轢を小さくするという文脈で「医療事故調」の議論は始まった。このような状況で、なぜ、医師を処罰の対象として考え、何かあれば取り締まってやろうという立場で調査制度を設けようとするのか。
私は、医療事故に関する調査機関を設けること自体には賛成である。科学的調査を行い、事故原因を究明することは医療の安全向上に不可欠である。調査結果を患者側に説明をすることは紛争解決に不可欠である。過去に医療がこのような仕組みを組み込んでこなかったことを、われわれは真摯に反省しなければならない。しかし、調査機関への事故報告を義務付けて、報告しなかった場合には罰則を科すというやり方には賛成できない。このようなことをすれば、激しい軋轢の原因となる。今の日本社会は大きな欠陥を持っている。何か不都合が生じたとき、「悪いやつを探し出して罰しろ」と主張する「被害者感情」が、制御なしに一人歩きをしている。人間の感情は個人の心の中に限定された現象である。攻撃を受ける側にも感情がある。感情をそのまま社会的コミュニケーションに持ち込むと、当然ながらコミュニケーションそのものが成立しなくなる。社会的コミュニケーションに感情を持ち込むためには、感情を社会で扱えるような形にする必要がある。社会で扱えるように整理された感情はたぶん感情というようなものではなくなるが、このような作業がないと社会は成立しない。日本のメディア、司法、政治は感情の社会化ということをもっと意識して考える必要があるのではないか。感情面の軋轢を小さくして事故を冷静に検討するためにも、事故調査と医師の処分は制度として分離すべきだと思う。
医療、工学、航空運輸など専門領域は、内向きの世界として、国家横断的に大きく発展している。航空運輸の分野では事故をシステムの問題と捉え、将来の安全向上のために調査を行う。航空運輸は国際的な分野であり、国際民間航空条約(ICAO条約)の第13付属書に、事故調査についての取り決めが記載されている。付属書は「調査の唯一の目的は、将来の事故又は重大なインシデントの防止である。罪や責任を課するのが調査活動の目的ではない」とする。また「罪や責任を課するためのいかなる司法上又は行政上の手続も、本付属書の規定に基づく調査とは分離されるべきである」と明記している。ところが、日本では警察が法的責任追及のために事故調査を行い、検察は航空・鉄道事故調査委員会の報告書を刑事裁判の証拠として使用してきた。システムの問題を直接事故にかかわった個人の罪として追及してきた。警察が収集した情報は警察内にとどめられ、事故防止に利用できない。ICAO条約に抜け道の条項があったのも確かだが、日本の司法が条約の基本思想を受け入れていないことは間違いない。
日本学術会議の工学系を中心とする専門家はこの状況を憂慮し、05年6月23日「事故調査体制の在り方に関する提言」(日本学術会議のホームページで入手可能)をまとめた。この提言ではシステム性事故を科学的に扱うこと、そのために各種事故を対象とする独立性を持った常設の機関(3条委員会)を設置することを提案している。報告書ではこの機関が扱うべき事故の種類を広くとり、医療事故も含めている。機関そのものに専門性を持たせるのではなく、各種専門知識を持つ機関を動員して結びつける役割を想定している。故意や重過失に対する刑事処分は容認しているが、関与者の過失については、人間工学的な背景分析も含めて当該事案の分析を十分に行い、被害結果の重大性のみで、短絡的に過失責任が問われることがないよう配慮することを求めている。処罰を目的とする調査は当事者からの証言を得にくくし、真相究明の阻害要因となる。また、事故の引き金を引いた直近の当事者を処罰してもなんら問題解決にならないと刑事司法の欠点を指摘する。調査報告書については、民事裁判での証拠としての使用は容認しているものの、事故当事者の証言に対応する部分については、刑事裁判の証拠としての使用を認めていない。
日本学術会議の提言は事故調査の目的を安全においている。航空機事故は、件数が少ないため事故ごとに対応策を考えることが可能であるが、医療事故は発生件数が桁違いに多い。事故なのか、本来の病気のためなのか分からないようなものも少なくない。先に述べた厚労省の第二次試案では、委員会に「遺族の立場を代表する者」が参加し、「個別事例の分析に加え、集積された事例の分析を行い、全国の医療機関に向けた再発防止策の提言を行う」としている。個別性を持った情報を元に、遺族の立場を代表する者が参加する委員会が安全対策を策定すると、膨大なものになりかねない。これを現場に押し付けると現場は疲弊する。責任を伴わない権限で、整合性のない安全対策を強要されると、病院は経済的に破綻する。事故情報は匿名化して、既存の医療事故防止センターの専門家の下に集め、重み付けをして、総合的に対策を考えるべきである。航空機事故の調査は安全向上が第一目標になるが、医療事故の調査は、安全のみならず、医療の保全を常に考える必要がある。
医療について議論する刑法学者には、刑法の狭い枠にとらわれずに、航空機事故調査をめぐる議論の蓄積を学んで欲しい。検察官と裁判官の一部が医療現場を見学していることを知っているが、法律学者、弁護士(病院側の弁護士も)が医療現場を自分の眼でみて認識を広めているという例を聞いたことがない。認識が広ければ、狭いことの良し悪しを判断できるが、狭いままだと、広いことの必要性は判断できない。
私は、死生観を含めて、医療とはどのようなもので、医療に何を期待できるのか、できないのか、共生のための行動の制御はどうあるべきかなど医療に関わる根源的問題について、認識を一致させる努力を「医療臨調」のような場を設定して、国民に見えるように演出することを提案してきた。認識の違いを埋める努力なしに、医療制度の内部に司法を取り込むと、取り返しのつかないことになる可能性がある。医療事故調の調査報告書を刑事処分、行政処分の追及に使うことは、現在の業務上過失致死傷罪の医療への適用より危ない。
責任追及の在り方についての司法と医療の齟齬は、双方の考え方が異なる以上、考え方の変更なしに、一気に解決することは不可能である。互いの認識の変更を確認しつつ、一段ずつステップを重ねていくべきである。システム間の齟齬は、多段階で時間をかけて解決していくしかない。業務上過失致死傷は医療だけの問題ではない。多くの分野を巻き込んだ議論が必要である。法律が存在する以上、当面、医療事故調と関係なく、適用すればよい。個々の事例で認識の違いが生じれば、その都度、社会に見えるところで議論すればよい。
医療の問題は、ステークホールダー間の利害調整や、合理的判断を超えた権力の行使で無理に解決すべきではない。医療は、そのような危うい決定方法に委ねるには、重要すぎる。医療を良くすることは社会の共通利益である。互いに双方の立場を理解しつつ、多段階で時間をかけて解決していくべきである。
医療サイドがすべきことは、医師の自律的処分制度を作ることだろう。厚労省の第二次試案では、医療事故調の報告書を活用して、医道審議会の処分を拡充しようとしている。医道審議会は厚労省に所属する8条委員会であり、厚労省の支配を受ける。厚労省が医師を処分することには多くの問題がある。第一に、厚労省の行政官は日本国憲法の下では、政治の支配を受ける。政治はメディアの影響を受ける。日本のメディアの感情論が処分に影響を与えるようになると医療の安定供給は困難になる。第二に、日本やドイツでは政治の命令で医師が国家犯罪に加担した歴史がある。第三に、行政官は現行法に反対できない。ハンセン病患者の隔離政策に対し、一部の医師は科学と良心に基づいて、身を挺して反対した。しかし、行政官は法令に基づいていたが故に反対できなかった。第四に処分機関をもつことで厚労省と医師の関係が変化して、行政に支障を来たしかねない。
世界的に、医師の行動の制御は、政府ではなく、医師の知識と良心に委ねるべきであるとされている。
処分の端緒は、事故ではなく、医師の不適切な行動とする。当然、事故がきっかけで不適切な行動が判明したものも含まれる。申し立ては患者・家族、医療従事者、病院など広くする。事故調査と処分制度と完全に切り離す。未来の医療の質を高めるためのものなので、処分には教育的意味が大きくなる。被害がなくても、同僚の目から見て明らかに不適切な行動を取った医師は、処分の対象にする。こうした制度は国が行うのではなく、医師というプロフェッションの団体として自律的に行う必要がある。そして、その方が適切なものになると思う。