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臨時 vol 201 「小児科医が見た阪神大震災 7」

医療ガバナンス学会 (2009年8月21日 06:51)


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          その後の中央市民病院
          神戸市立中央市民病院・元修練医
          濱畑 啓悟

 1月19日に東灘診療所へ向かって以来、昼間はほとんど毎日院外で活動してい
た。しかし保健所などの帰りには、ほぼ毎日のように病院に寄って、救急の患者
数や空床状況を見たり、院内の状況について色々な人に話を聞くようにしていた。
病院では一時2階の外来の一部を病棟として使っていたが、やがて解消し1月の末
には一部外来を再開した。また検査も出来るものから順に徐々に再開していった。
 最初の数日は西市民病院からの転送が中心で、入院患者は少なかった。やがて
1月22日、東神戸病院からの転送を皮切りに東灘、灘区から転送される患者が増
えてきた。また疾患別では当初、骨折や挫傷など整形外科的疾患が多かったが、
やがて避難所肺炎と呼ばれる肺炎や心不全が多くなった。また怪我や病気は治っ
ても、帰る家が無いために入院が長期化するケースが多くなった。避難所からの
紹介は、ほぼ無条件に入院させることになっていたため、軽症の入院も見られた。
1月末には1日の緊急入院が10人を超えるようになった。やがて2月に入ると、ス
トレス性の胃潰瘍によると思われる消化管出血が異常に増えた。また道路事情の
悪化からバイク事故が増え、二次災害とも言うべき復興関連の作業中の事故と並
んで、多発外傷増加の原因となった。
 まず整形外科、呼吸器内科の病棟がいっぱいになる一方、小児科の患者は次々
と退院し、長期入院の子どもも他の病院に治療の継続を依頼しなければならなく
なったため、小児病棟の患者はどんどん減り、やがて整形外科や呼吸器内科の大
人の患者も受け入れるようになった。暖房のきかない病棟で、夜の冷え込みは厳
しかった。結局暖房の再開は約3週間後、水道の復旧は1ヶ月を過ぎた2月20日だっ
た。ちなみに僕のマンションの水道の復旧はそれより更に1ヶ月後の3月24日だっ
た。
 やがて病院機能の回復とともに、小児病棟にも徐々に以前の活気が戻ってきた。
2月は少なかった小児科の入院患者も、一時避難していた子供達が神戸に戻り始
めた3月頃から増え始め、交通が回復した4月には以前からの患者も来るようにな
り、ほぼ以前の状態に戻った。入院患者の中には地震の心理的影響と思われる嘔
吐なども見られたが、さほど数は多くなかった。
 震災直後から神戸市職員に対して、大規模災害時に発令される「防災指令第3
号」が発令されていた。これによると全職員は配置につき、または常に連絡が取
れるような状態で待機することになっていた。また公休以外の休みも取れないこ
とになっていた。
 しかし当初ポートアイランドへの交通手段は徒歩以外全く無く、事実上孤島と
化していたため、当日出勤できなかった職員も多かった。ポートアイランド内の
寮に住む研修医や看護婦以外のあらゆる職員は、通勤に非常な困難を強いられた。
1、2時間歩いての通勤もざらにあった。看護婦さんの中には阪急西宮北口駅から、
食料や水を背負って徒歩で病院に来た人もいた。遠方からの人は一度病院に来る
と数日は病院に泊まり込む他無かった。病棟では看護婦さんは普段の3交代制か
ら、2交代制に勤務を組み替えて対応していた。 その後もポートアイランドへ
の交通のアクセスは非常に悪かった。神戸大橋は上下2段になっており、普段は
それぞれ4車線で通行していたが、当初上段の道は使えず、3月いっぱいまで下段
の道を対面通行にして使う状態が続いた。このため神戸大橋は入口での渋滞がひ
どく、特に朝夕のラッシュ時は普段なら10分余りで行ける病院・三宮駅間が、1
時間から2時間かかる状態であった。これではいくら外来を再開しても、ポート
アイランド外の患者は、余程元気な人以外はなかなか通院できないだろう。この
神戸大橋も応急に修理を済ませ、4月から上下の橋でそれぞれ2車線ずつの交通と
なり、ポートアイランドへの渋滞は著しく改善された。また同じく4月からJRが
全線開通したため、街全体の交通の流れも良くなった。それに伴って、外来患者
数も回復してきた。
 当初出足の鈍かった中央市民病院から院外への動きも、東灘診療所を足場に御
影公会堂、本山南中学校の救護所を担当するようになり(後に御影公会堂はJICA
に引き継いだ)、さらに中央区の山の手小学校の救護所も担当するようになって
いた。それでも一部の人からはもっと院外に出て行って出来ることがあるのでは
ないかという声があがっていた。この頃、医局会会長である外科のDr.小縣の呼
びかけで、医局会員だけでなく看護婦や技師など職種を越えた人々が集まって話
し合いが持たれた。とりあえず医局会を中心に、職員全体での話し合いを続け、
意見を出していくということになった。
 一方震災後1ヶ月あまり経った2月末になって、神戸市の災害対策本部から中央
市民病院に対して、救護所の撤退に伴って、3月から医師25名、看護婦50名の派
遣要請があった。病院としては手術や外来診療を再開しつつあるこの時期に、医
師25名の派遣は現実的ではなかった。一方受け入れる側の保健所にも、医師派遣
について本部からの事前の打診や相談はなかった。少なくとも灘保健所ではDr.
大倉の調整で、この時期に中央市民病院からの医療班は必要としていなかった。
災害対策本部は、その辺の調整が出来ているとは言い難かった。結局中央市民病
院からは、各診療科に割り振って、3月から15班の医療班を派遣することになっ
た。
 灘保健所、中央保健所での仕事は2月いっぱいでほぼ終了し、3月からは月、土
の週2回東灘診療所の小児科外来(3月からは小児科はPM8時まで診療することに
なっていた)と週2回の院外出務、および病院の当直も週1回担当することになっ
た。この頃昼間院内を歩いていると会う人ごとに、「先生、どうしたんですか」
 と聞かれるようになっていた。しばらく病院を離れていたが、別にやめた覚え
はない。そろそろ病院の生活に復帰すべき時が来ていた。3月の半ば頃、以前か
ら担当していた患児の容態が急変した頃から病院にいることが多くなった。
 3月8日中央市民病院でおよそ2ヶ月ぶりの小児科当直をしていた時のこと。救
急部にいると救急隊からの連絡で、須磨区の飛松中学校という避難所で、60歳位
の女性がケンカで心肺停止、意識レベル300(深昏睡)だという。まさかと思っ
たが、実際来てみると63歳の女性が、頭部を鉄パイプで殴られ、腹部を蹴られて
いた。頭蓋内出血、腹腔内出血が見られ、蘇生で心拍だけは一時再開したが、そ
の日のうちに亡くなられた。ケンカの原因は不明だが、相手は若い男性だと言う。
救急部に4年間係わってきたが、これほどひどい話は初めてだった。長期化する
避難所での生活が、予想以上にすさんできていることにショックを感じた。普段
でもそうだが、病院の救急部は世の中の負の面を映し出す鏡のようだ。
 また院外出務として、兵庫、長田、須磨の保健所に入る機会があった。各区で
被害状況も医療状況も様々だったが、どの区でも救護所での医療需要は少なくなっ
ていた。医療班撤退後の各救護所は巡回診療に切り替えられ、順次閉鎖の方向に
向かっていた。各保健所での夜間診療も行われたが、受診者数は4、5人になって
いた。これら中央市民病院からの医療班の出務は4月いっぱいで終了した。
 4月になって街の機能が回復すると共に、またやがて8月になって病院と三宮を
結ぶポートライナーが再開すると外来患者数も増え、中央市民病院も何事も無かっ
たかのように、ほぼ以前の姿に戻ってきた。ともすれば地震があったことすら忘
れてしまいそうになる程だ。しかし決して何事も無かった訳ではない。震災から
4ヶ月も経つとマスコミの報道も少なくなり、人々の関心も薄れていった。この
時点でもまだ4万人あまりの人々が避難所生活を続けていたが、この頃には既に
自立できる人は自立し、避難所に残された人々は、自力で生活の再建が困難なお
年寄りなどが中心となっていた。また仮設住宅が当たっても、遠方である等の理
由でそこには入らず、避難所に残っている人もいた。その頃には既に避難所の中
に一種のコミュニティーが出来ており、お年寄り達にとっては見知らぬ土地の仮
設住宅に入るよりも、避難所の方が居心地が良くなっているようだった。これら
の人々の生活をどう再建していくのか、さらに現在仮設住宅に入っている人たち
の医療、福祉面を含めてどのようにまちづくりを進めていくのか、まだまだ課題
は山積している。
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