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臨時 vol 203 「権力と人間―裁判から見えるもの」

医療ガバナンス学会 (2009年8月22日 19:52)


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清郷伸人


1.チャップリンの予言性
 1939年に作られた「独裁者」は、ヒトラーに似せた人物を創造して、絶大な権
力というものが一個の普通の人間をどれだけゆがんだ、異常な性格にしていくか
を描いた作品である。それより3年前に作られた「モダンタイムス」は、もっと
暗示的な、恐ろしい作品である。人間がなんのためかも知らず、歯車の一部となっ
て、忠実に与えられた仕事をこなす姿を描いて、現代の悲劇性をえぐっている。
70年前に作られた映画だが、この2本は今のわれわれにとって最もアクチュアル
な問題を突きつけている。芸術家チャップリンが放った予言的なメッセージを私
はそこに見る。
 それは「権力と人間」という問題である。この問題は、プラトンの昔から多く
の哲学者、思想家が格闘し、時代と国を超えて人間に突きつけられた、永遠に解
けることのない命題である。ナチス・ドイツの思想的バックボーンと誤解された
ニーチェの「権力への意志」、すなわち人間は力への意志そのものであるという
哲学は人間の半面を衝いている。人間は複数いれば、友人でも恋愛でも家庭でも
職場でもどこでも自分の力の優位を目指す本能を持つという言葉は耳障りだが、
虚飾を剥いで人間を透視すれば真理であるといえる。自然界を見渡せばそれはもっ
と赤裸々な実相である。しかしチャップリンが問題にしたのはそんなものではな
い。個々人の権力は小さく、影響力もない。彼が取り組んだのは、国家社会にお
ける権力と人間の問題であり、その巨大な影響力である。
 チャップリンにとって権力と人間の現代における最大の問題は、その関係の不
可解性、仮面性にあった。「独裁者」では、権力者はわかりやすい姿をしている。
そしてこの権力の所在の顕示こそは現代以前の人々の、あらゆる時代、あらゆる
地域で命がけで争われたテーマであった。しかし「モダンタイムス」では、誰が
権力者なのか、工場労働者は誰のために、何のために働くのか、わからない。す
べての人が歯車である。どこにも権力者などいないように見える。政治家も官僚
も巨大企業も大手メディアもそして大衆も権力者のような顔はしていない。この
不可解性、仮面性こそ現代の権力の最も不気味なところである。
2.現代の権力の不気味さ
 2008年3月、最高裁はエイズ薬害裁判上告審で、元厚労省薬務課長の業務上過
失致死罪の刑事罰を確定した。公務員の不作為、怠慢によって起きた国民の身体、
生命への危害が重大であれば犯罪となりうるという初めての判断が司法から行政
に下された。また薬害肝炎訴訟も今年多くが高裁和解となったが、その内容は国
の全面謝罪、一律補償というものであった。国の怠慢、不作為による国民の生命、
健康への重大な危害があったからである。さらに私の混合診療裁判は高裁での控
訴審が進行中である。前の2件が国の不作為による犯罪とすれば、混合診療禁止
制度は国の作為、加害による犯罪である。私の告発の本質はそこにある。まだ若
い勤め人が重度のがんに罹る。保険治療を尽くしたが良くならない。幼い児もい
る家族は貯金をはたいても助けたい。医師も日本では未承認だが海外で認められ
た抗がん剤や治療技術を使いたいが、禁止されているためできない。患者は放り
出され、ホスピスに行くほかない。国は混合診療禁止がもたらすこの惨状を十分
認識していると思う。だから私は国の作為によるこの犯罪を未必の故意による殺
人とあえて告げる。
 しかし私が裁判で相手をしている公務員たちは犯罪者の顔はしていない。きわ
めて善良でまじめな市民の顔である。私はそこで普通の大人が国家権力、国家組
織の歯車となって、忠実にまじめに仕事をすればするほど社会が狂い、人間が押
しつぶされるということを目の当たりにする。公務員たちはそれが何のためかは
問わず、与えられた自分の庭をきれいにすることしか考えていないように見える。
そして公務員たちを使う国家権力もまた何のためかは問わず権力の維持、拡大と
いう手段の目的化に翻弄されているとしか思えない。
 最高裁で有罪とされた元厚労省課長はおそらく犯罪の意識はない。上告審まで
行くということは約600人以上の死に対する罪悪感や責任感も感じていない。組
織、上司からの指示、命令を守って、与えられた仕事をやり遂げただけであると
思っている。では誰が責任者か。誰がこのような怠慢や不作為を指示し、このよ
うな重大な結果を招いたのか。おそらく誰もいない―それがこの国の権力の真の
恐ろしさである。この権力の責任の空白は日本では今に始まったことではない。
明治後期、清やロシアに戦勝した頃から日本の軍部は統帥権を発明し、近代国家
の大原則である三権分立を蹂躙した。その本質は天皇の名の下にあらゆる独裁を
ほしいままにするが責任は誰も取らず天皇に帰するというもので、しかも天皇が
責任を取ることなどありえない存在であることは承知の上である。こうして外国
人が決して理解できない責任の空白が生まれ、今の日本の権力にそれは受け継が
れている。
 今評判の映画「明日への遺言」の岡田資中将が突き当たった問題もそれである。
横浜戦犯裁判で、無差別空襲は国際法違反の犯罪だから米空軍兵は捕虜ではなく
犯罪者であり、裁判抜きの斬首も状況によってはありうるという主張と、斬首実
行は上官を通じての天皇命令とされる日本軍では誰も責任を取らないが、それは
連合軍に通じるはずもなく、敗軍の将である自分が負うほかないという認識であ
る。この岡田中将の認識はある意味で組織と人間、権力と人間の普遍的な問題を
含んでいる。組織や権力の命令なら国際法違反でも人道違反でもどんなことでも
実行すべきか、個人の良心はどうすべきかという究極の命題を持っている。さら
にそれは当然、その実行あるいは不実行が招いた結果への責任は誰が取るべきか
という問題にもつながる。
 チャップリンが「独裁者」で描いたように国家権力は歯車が狂って回転すると
ナチスのユダヤ人大虐殺にまで行ってしまうことを示している。しかしそれを推
し進める人間たちには殺人や犯罪の意識はない。「モダンタイムス」のオートメー
ション工場でねじを締めるように淡々と自分の仕事をこなすだけである。誰も殺
人者、犯罪者の顔をしていない。
 権力と人間というこの問題には解がない。社会に必然の権力という宿命を背負
わされた人間は、永遠に重荷を運ぶシシュフォスのような絶望的な闘いを強いら
れているのである。
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