「タミフル耐性菌が発生したんですってね」
先日、風邪で来院した園児の母親にそう言われた。
「耐性『菌』でなくて耐性『ウイルス』でしょう?」
と私は口をはさんでみたのだが、それを無視して母親は、
「この冬はどうなってしまうんでしょうか?新聞には、その患者さんは、リレン
ザを使ったら回復できた、と書いてあったからひとまず安心しましたけど。でも、
リレンザの耐性菌もいずれ出てくるんでしょう?」
と少々興奮気味。
「もともと元気なひとなら特別な薬なんか使わなくたって、自然に治るんだか
ら、あんまり心配しなくていいんですよ」とその場はそれで終わらせたが、実際
冬場になったら、このようなやりとりが一日に何度も交わされることになるので
あろう。
高度な情報社会で、インターネットも多くのひとが当たり前に使いこなせる現
在では、患者さんの医療に関する知識が以前に比べて格段に増えた。しかし、残
念ながらそのすべてが正確な知識というわけではない。今まで医者しか使わなかっ
た専門用語が当たり前のように世間一般に浸透し、診察室で、あまり専門用語に
気を遣わなくてもよくなってきたのは、ある意味助かるのだが、この母親の「耐
性菌」のように中途半端な知識に基づいた専門用語を耳にするたびに、何とも言
えない気持ちになる。
中途半端なのは世間一般の医学知識だけではない。
この母親が読んだ「タミフル耐性ウイルス」の記事は私も読んで知っていたの
だが、その新聞記事には、読者に誤解をもたらす可能性がある、ひとつの中途半
端な表現があった。
「国内初のタミフル耐性、大阪で確認・潟激塔Uは効果」
大阪府内の新型インフルエンザ患者から、治療薬タミフルが効かない耐性ウイ
ルスが検出されたことを厚生労働省が2日、明らかにした。6月末にデンマーク
で世界初の耐性ウイルスが発見されており、国内での確認は初めて。
厚労省によると、5月15日に発症した別の患者と濃厚接触した人で、予防の
ためタミフルを服用中に発熱し、新型インフルと診断された。大阪府公衆衛生研
究所の遺伝子解析で、タミフル耐性を示す突然変異が確認された。この患者は、
別の治療薬リレンザを投与されて回復。周囲への感染拡大は認められていない。
デンマークでは「公衆衛生上の危険はない」として、タミフルを治療薬として
使い続けている。日本も同様に、タミフルを使用する方針は変えない見通しだ。
(2009年07月03日 読売新聞)
この記事を読まれて、なにかお気づきの部分はあっただろうか?
私の頭にまっさきに浮かんだのは、耐性ウイルス出現の不安ではなく、この記
事の読者は「この患者は、別の治療薬リレンザを投与されて回復。」という一文
の意味を間違って捉えてしまわないだろうか、という心配だった。
おそらく「タミフル耐性ウイルスではあるが、リレンザは効く」という意味で
書かれた一文であろうが、「されて」という部分に私は強いひっかかりと不安を
感じてしまったのである。
この一文には「リレンザを投与されて(やっと)回復した」すなわち「投与さ
れなければ回復しなかった(かもしれない)」と読者に誤解させてしまうニュア
ンスが含まれていると思うのだ。先日の母親の言葉からも、その誤解の存在を感
じさせる。
メディアの表現の仕方が中途半端であると、いとも簡単に読者に誤解をもたら
してしまう、ということを今回改めて実感してしまった。タミフルやリレンザを
使わないとインフルエンザで大変なことになってしまう、治らない、と思い込ん
でいるひとが驚くほど多いのは、このような報道の蓄積が原因なのだと私は思っ
ている。
中途半端で奇妙なことは、まだほかにもある。
7月22日、新型インフルエンザの届け出基準についての改正省令が厚労省よ
り公布された。これは、新型インフルエンザ患者の全数把握は終了させて、今後
はクラスター(集団発生)サーベイランスに移行させるというものだ。
正式には7月24日からの施行だが、実は、もうすでにかなり前から全数把握
などされてはいない。ほぼ全国的に感染者の報告が出た時点であったにもかかわ
らず、インフルエンザA型陽性患者発生の報告を所轄の保健所にすると、「関西
方面に行っていなければ、通常の季節性インフルエンザとして対応してください」
と患者の容態すら確認せずに対応されていたのだ。
このような対応をされると、診察室内でわれわれ医者と患者さんは、「多分、
新型だよね~」と目を見合わせるわけだが、「PCR必要なし」と言われてしまえ
ば、現場としてはせいぜいタミフルを処方して自宅で十分休んでいただくよりほ
かに、なす術はないのである。
では、単発症例は今までどおり報告しないとして、今後クラスターサーベイラ
ンスは本当に機能するのであろうか?
改正省令では、所轄の保健所長から集団発生が疑われる施設の情報が医療機関
に提供され、その集団に属する患者さんがインフルエンザ様症状を呈し、インフ
ルエンザの診断がついた場合に、感染症法第12条の規定に基づく届け出を行う
ことになっている。したがって、クラスターの存在を医療機関が知って感染者を
報告するには、まず保健所からの情報が必要ということになる。わが国では、ど
の医療機関を患者さんが選ぶかは自由であるため(フリーアクセス)、個別の患
者さんがどの集団に属しているのかを医療機関側が把握するのはかなり難しい。
よって保健所からの通達がなければ、患者さんの周辺情報をもとにクラスターの
存在を推測するしかないわけだ。
しかし、実際は保健所からの情報より案外有力な情報ソースがある。
それは「お母さん情報」だ。
先日、近隣のある
中学校で集団発生があるとの情報を得たが、その情報は保健
所からではなく、皮肉にも「お母さん」のウワサから得たものだ。このような経
験をしてしまうと、今回の中途半端なクラスターサーベイランスはシステムとし
て機能しないということを、早くも実感してしまう。
そこで近隣2ヶ所の保健所に、今回の改正省令につき問い合わせをしてみた。
どのように医療機関側がクラスターを把握すればいいのかを問うと、「学校なら
ば、学校から教育委員会を通じて保健所に連絡が入るので、その情報を医療機関
に連絡します」とのことであった。
このやり方では、かなりのタイムラグを生じる上に、会社や事業所など営利団
体からの報告が正確になされるのかどうか不明であり、極めて曖昧で中途半端な
施策であるといわれても仕方がない。そもそも、複数の患者さんがすでに発生し
ている集団からさらに新しい感染者が出たからと言って報告する意義があるのだ
ろうか。それを多忙の中、煩雑な手続きをしてまで行う医療機関がいったいどの
くらいあるのだろうか。私にはわからない。乱暴な言い方をすれば、すでに特定
されたクラスターから有症状者が出たなら、検査せずともインフルエンザとして
対応してもいいくらいなのではないか、とさえ思ってしまう。
新型の検出キットがない状況で、もはや現場では新型か季節性かの区別などで
きないし、するつもりもなくなってしまっているのが実情だ。今回の改正省令の
通達も7月22日に公布されたものの、私の勤務する現場の医療機関に地域の医
師会経由で届いたのは、驚くべきことにそれから2週間近くも過ぎた8月4日だ。
現場はもはや、新型インフルエンザ対策についての興味と熱意をすっかり失って
しまっていると言っても言い過ぎではないだろう。
それでも、もし新型を季節性と区別して、その流行状況を把握し感染拡大を防
止しようとするのであれば、まったく周囲に感染者の心当たりがない単発症例だ
けをピックアップし、その患者さんが属する集団に注意喚起するほうが、よっぽ
どパンデミック対策として有効ではなかろうか、と私は思う。
中途半端ついでに、マスクについての私見をひとつ。
もともと外科医である私は、清潔不潔の区別を新人のころからさんざん叩き込
まれてきた。その感性からすると、手術室の外はもはや不潔区域であり、その汚
い空間で、いくら高性能のマスクを着けたとしても、どうも中途半端さを感じず
にはいられない。それこそ冬場に一日に何十人も、数分おきにインフルエンザ感
染者を診療していると、いちいちマスク交換などしておれず、顔中にインフルエ
ンザ患者さんの咳のシブキを直接浴びながら一日過ごしているのが実情だ。そん
な一日の終わりころには、眼鏡はシブキで曇っているし、汚い話、顔中がツバ臭
くなっている。感染予防のマスク着用について否定するつもりは全くないし、正
直本来なすべき感染対策を十分しているとは到底言えない状況であるが、やむを
得ないいわゆる「裸顔」でインフルエンザに対峙している医者集団も一部には存
在するのだ、ということをここに記しておきたい。
医学の進歩も、医療技術の発達も、医者の技量も知識も、患者さんの医学知識
も医療機関の使い方も、メディアの報道内容も方法も、医療機関や行政の感染症
対策も、まだまだ「中途半端」である。その「中途半端さ」が杓子定規で融通の
利かない、硬直した人間関係を心地よくやわらげてくれるものであればよいのだ
が、誤解や不安を助長するものであったり、人間どうしの信頼関係を損なってし
まう原因になっているのであれば、時間はかかってもひとつひとつ修正していか
なければならないのではないだろうか。
著者紹介
1968年カナダ国オタワ生まれ。大学病院で一般消化器外科医として診療しつつ
クリニカルパスなど医療現場でのクオリティマネージメントにつき研究中、2004
年大学側の意向を受け退職。以後、「総合臨床医」として「年中無休クリニック」
を中心に地域医療に携わるかたわら、看護師向け書籍の監修など執筆活動を行う。
AFP認定者として医療現場でのミクロな視点から医療経済についても研究中。著
書に「医者とラーメン屋-『本当に満足できる病院』の新常識」(文芸社)。