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臨時 vol 206 「21世紀の日本が目指すべき知識社会の理念」

医療ガバナンス学会 (2009年8月25日 06:58)


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                カーボンブラック協会  清郷伸人

1.知識社会の具体的定義
 知識社会とは、知識の多い、知識の進んだ社会のことではない。それは、合理
的価値観が優位にあり、その基準に基づいて公的決定や社会的態度・行動を取る
ことが最も正しく、快適であるという黙示的合意のある社会である。
 知識の質と量でいえば、いかなる時代のいかなる場所においても知識は痕跡を
とどめている。いつでも人間は可能な限り考えを巡らし、工夫を凝らし、デザイ
ンの手を加えてきた。知識社会の前段階と位置付けられている工業社会でさえ、
その時代の知識集約の成果と考えられるのである。
 では現在、唱えられている知識社会とはどのようなものだろうか。普通に使わ
れている意味の知識社会とは、IT(情報技術)の発展、ネットワーク社会の構
築・進化、知的財産の優越性といった基盤を確立した社会を指すと考えられる。
しかし私は独断的かもしれないが、知識社会をそのような知識・技術の過程段階
を意味するものとは考えない。私の考える知識社会は、知識・技術が社会の人々
に新しい価値観を示し、新しい態度や行動を要請するものでなければならない。
 情報技術やネットワークなどは素晴らしく画期的な知識・技術であるが、人間
社会にとっては利便性・効率性の向上という一分野の発展に過ぎないともいえる。
知識産業の象徴であるマイクロソフト社もコンピュータというハード機器を前提
にした知識・技術の代表選手といえるが、それがもたらした膨大な情報量やスピー
ドは18世紀の産業革命ほど人間社会に価値観や生き方の変革を迫るものだっただ
ろうか。
 本稿は、そのように私が定義する知識社会で優位にあるべき合理的価値観やそ
れに基づく公的決定、社会的態度・行動を明らかにすることで、私の考える知識
社会の理念といったものを提示するものである。この難しいテーマに取り組むに
あたって、私は非力なので一つの分野に絞って考察したいと思う。それは、科学
的知識・技術のみならず倫理的知識、哲学の最大集約分野といえる医学・医療で
ある。
2.定義の根拠
 なぜ知識社会を価値観に基づく社会的態度、行動と定義するか─それはいくら
知識が豊富にあり、進んでいても、人々がそれを尊重し、活かす態度と行動をと
らなければ知識「社会」とはいえないからである。言い換えれば知識社会では、
知識を利用し、技術が高度化し、人々の生活が豊かになるだけでなく、政治・行
政・経営・教育・医療などあらゆる公的な分野で合理的な価値基準に基づく決定
が最優先される必要があるからである。
 私は外国のことは知らないが、日本の社会では公的決定の基準となる価値観が
権力や富、人間関係といった利権や支配の要素で色濃く染められていることが多
い。今回取り上げる医学・医療は、人間の命に直接関わっていることから、日進
月歩の知識とめざましい技術の発展が繰り広げられ、しかもそれらが即座に情報
化され公開されている分野である。知識社会を構成する分野としては最も進んだ、
模範的段階にあるといえる。さらに医療は知識・技術の人間に対する安全性・有
効性を厳しく検証するEBM(Evidence Based Medicine)の理念に貫かれてい
る点で、倫理、哲学をも包含しているといえるのである。
 ところが、医療ほど意思決定において合理的価値基準にほど遠く、知識社会に
似つかわしくない態度や行動に覆われた分野もないのである。
3.医学の知識社会性
 医学の知識集約性については今さらいうまでもないが、改めて私の力の及ぶ限
りでまとめてみる。医学の父といわれる古代ギリシャのヒポクラテスに始まって
人類は人体という未知の領域に挑んできた。そして医学は未知なるものを解明す
る科学であると同時に病気と死という人類不可避の運命を解決する医療の役割を
も期待されてきた。人々が頼る医療はやがて医学発展の最大のモチベーションと
なっていく。そして現在到達した医学の知識集約性は、きわめて高度な勉強によっ
て得られる医学取得の資格を持つ専門家が過去の蓄積と最新の知見を得るために
生涯にわたり努力することで保たれている。かれらは知識の進歩への信仰を持つ
と同時に知識の錯誤がもたらす重大性をも認識している。そのため情報は世界中
で公開され、共有される。病気の解明、治療のための仮説、実験、証明、治験な
どが慎重に確実に進められ、薬や技術が開発される。
 このように医学という知識社会では、年齢や学歴などによる区別といった不合
理な価値判断は排除されていると思われる。若い才能ある個人やチームが活躍す
る自由は相当程度保障されている。ここでは発見や論文や発信された内容が問題
なのであって、純粋にその真偽、当否が議論されていく。
4.医療の反知識社会性
 医学の知識社会性が高いだけに、医療の反知識社会性は際だって見える。純粋
な気持ちで学部に学んだ医学生は、病院に足を踏み入れた途端に、医学とはほど
遠い不合理性に直面することになる。医療社会で不合理な価値基準と思われるも
のは数多く存在するが、大きく分けると医療界や病院の人事制度、医療行為自体、
保険や行政など医療制度の3つとなる。
 人事制度では、医局制という権力主義がどこまでもついて回る。医療という目
的を逸脱したヒエラルキー(階級社会)の固定化で若い才能、純粋な道徳心はつ
ぶされる。低報酬のインターン、過労死寸前の勤務医、権威と高報酬に包まれる
医療界や病院の幹部、医師会というバリヤーで恵まれた境遇を謳歌する開業医と
いうヒエラルキーである。そこでは学歴や年齢、経験がモノをいう。無医村や医
療過疎という問題もそこから派生する。
 医療行為では、医者の知識不足、技量不足、医療過誤は論外としても、患者へ
の説明不足、同意欠如、カルテ等情報隠蔽、人体実験などであり、患者本位の医
療という医者の最低限の倫理・道徳を謳ったヒポクラテスの誓いに反するような
行為である。
 医療制度では、血友病エイズ禍や薬剤C型肝炎等に見られる厚生行政の欠陥・
怠慢・無責任、中医協や審議会による医療行政の偏向・私物化、患者軽視で産業
重視の医療・厚生行政が、医師会に弱い政治の後ろ盾を得て続けられている。医
療制度は最も公的な部門だけに社会的影響も広範で深いので、一つだけ典型的な
例を挙げる。
 それは健康保険制度にあって、混合診療を一律禁止する特定療養費制度である。
現在、日本は国民皆保険制度を敷いている。全員が健康保険料を負担している被
保険者である。被保険者は医療の支払いに対して保険による療養の給付というも
のが受けられる。現在、70歳未満の被保険者は医療費の7割を受け取ることがで
きる。
 ところがその保険がまったく使えず、医療費全額が自己負担になる場合がある。
受けた医療の中に一つでも保険で認められていない薬や治療がある場合である。
健康保険制度では、保険治療と非保険治療の併用(混合診療)を禁じているので
ある。例えばがんになって、保険治療だけではもう効果がないので、海外で有効
とされている薬や治療も使うと今まで保険が利いていた薬や治療まで自費となり、
莫大な医療費が全額自己負担になるという制度である。この巨額な負担に耐えら
れる個人、家族は少ない。だから命の綱とも思える治療をあきらめて倒れる患者
も多い。せめて非保険治療だけが自己負担で、保険治療には今まで通り保険が利
いてくれたら助かるのである。
 混合診療には賛否両論ある。しかし医者の自由競争と医療の高度化・専門化を
恐れる医師会と許認可権限を維持したい行政は結託して混合診療禁止制度の牙城
を守っていることは事実である。その陰で多くの貧困層・中間層の国民が医療難
民となって倒れていることも事実である。これは不合理な、さらにいえば非人道
的な話ではないだろうか。
 このように医療の世界は反知識社会性に満ちあふれている。この傾向が進むと、
医学の知識社会性までも冒されるのではないかと懸念される。ロクに勉強もしな
い医学生が増え、知識、技量、モラルの劣った不良医がはびこる恐れが出てくる。
 合理的な価値基準による公的決定、社会的態度・行動が知識社会の基本理念で
あるという黙示的合意は、それほどに重要なことなのである。
5.合理的価値基準とはどういうものか
 ここで公的決定、社会的態度・行動が依拠すべき合理的価値基準というものを
明らかにする必要がある。
 端的にいうと、それは価値判断の基準を人間の品位の向上と社会の気高さの向
上という一点におくということである。このようなものを基準にするのは奇異に
思われるかもしれぬ。基準を幸福の向上や繁栄の拡大とするのが普通かもしれぬ。
しかし私には人間はもっと崇高になれるし、社会はもっと偉大になれると思われ
るのである。そして人々の精神が満たされ、社会が快適であるためには、品位や
気高さが不可欠であると考える。
 社会の様々なシーンにおける公的な決定が利権や支配といった不合理な、低劣
な基準でなく、テーマに副った正義や人道という普遍的倫理に依拠すること─抽
象的かもしれないが、これが私の考える合理的価値基準である。具体的にはそれ
に近い基準として日本国憲法を挙げることができる。誤解されるかもしれないが、
政治的な意味はまったくない。そこに述べられた気高い理念が公的決定を貫くこ
と─これこそが知識社会の理想の姿である。
6.知識社会の限界
 知識は新しい価値を生み、人間社会に豊かさをもたらしてきた。おそらく知識
はどこまでも進みつづけ、知識社会は広がりと深まりを実現するだろう。そして
公的決定や社会的態度・行動に合理的価値基準が少しずつ浸透していくかもしれ
ぬ。今までの人間社会の歴史が示しているように。
 人間が昔、神から理知を与えられたという神話には真実がある。しかしもう一
つ、魂も与えられたということは忘れられている。理知はプロメテウスの火であ
る。原子物理学というパンドラの箱を人間が開けたことにより広島・長崎の惨劇
は起こった。にもかかわらずプロメテウスはゼウスにこういった。─人間が火を
手に入れることで大きな力を得ると同時に禍ももたらされるだろう。だが人間は
それを乗りこえて行くだろう。
 禍は確かに大きかったが、開けた箱はもう戻らない。与えられたもう一つの魂
で火をコントロールする他ない。それが倫理・哲学を含む合理的価値基準であり、
品位・気高さに向かう知識社会の理念である。
 しかし矛盾するようだが、人間の心が謎に満ち、そういう人間が構成する社会
が不可解な部分を持つこともまた事実である。超一流の学者や芸術家は、人間の
理知がどんなに進んでも人間は何も知らないと同じである─生命の誕生も消滅も、
脳の働きも、宇宙の起源も将来も、心の姿も、創造の秘密も肝心なことは何もわ
からないということを知っている。私たち平凡な市井人にとっては、例えばゴッ
ホが亡くなって半年後、弟テオも急死したことについて、兄が亡くなって弟の一
番大事なものも死んだ、弟はその後半年しか生きられなかったと小林秀雄がいっ
た(『ゴッホの手紙』)ような、そういう人間の心の不思議さなど身近な話であ
る。だが私たちはわからないままで生きてゆけるのである。理知で解析・把握で
きなくても魂でその謎を感受し、共感できるから何の不都合もない。
 私が知識社会にも限界があるというのはこのことである。公的な社会では合理
的価値基準を求めなければならないが、社会を構成する個々の人間はある意味で
不合理の塊である。
 どんなに知識社会が進もうと、このことは忘れてはならない。それは否定的な
意味ではなく、どんなに混沌に満ちた人間の社会でも、理想を描き、気高さを求
めているという肯定的な世界観の裏返しなのである。
*混合診療については、拙著『違憲の医療制度』(ごま書房)より
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