「ドラッグラグ」という言葉がメディアに登場したのは5,6年前のことだろう
か。この用語は,1973年,米国における新医薬品の上市がヨーロッパに比べて遅
いことを指摘した論文の中ではじめて用いられた。これ以降,ある地域では販売
されている医薬品が他の地域では使用できない,あるいは使用できるまでに時間
がかかるという”drug lag”に関する議論は世界的に活性化した。
日本において調査結果が報告されるようになったのは2005年以降のことである。
製薬協政策研は,2004年の世界売上げ上位88製品を対象とした調査を行い,日本
で上市されているものは60製品(68.2%)であることを報告した。また,世界初
上市から日本での上市までの平均期間(上市ラグ)を算出し,日本の上市ラグは
約4年,最も短い米国と英国(約1.5年)に比べ約2.5年遅れていると指摘した。
さらに,日本で創製された抗癌剤オキサリプラチンが欧米から10年以上遅れて承
認されたことなどがメディアで大きく取り上げられ,ドラッグラグはさらに国民
の興味を引くテーマとなった。
このような社会的関心の高まりを受け,厚生労働省は,2005年から「未承認薬
使用問題検討会議」,「有効で安全な医薬品等を迅速に提供するための検討会」
などの一連の検討会を開催し,ドラッグラグ解決策を打ち出した。それは,従来
の治験促進に加え,2009年までにPMDAの審査官236人を増員することにより審査
を迅速化し,2011年までに上市ラグを2.5年短縮して米英並みにするというもの
である。
このドラッグラグ解決策ははたして妥当であろうか。実効性はあるのだろうか。
「上市ラグ2.5年短縮」という数値目標の基となった売上げ上位88製品のデータ
は全体像を表していない。売上げ上位にある薬剤群は,高血圧治療薬,高脂血症
治療薬,抗うつ剤などであり,製薬企業が積極的に開発・マーケティングを行う
ことから,同じ作用機序を有する数種類の薬剤が売上げ上位に名を連ねている。
一方,ドラッグラグが臨床的に問題となる治療領域は,標準的治療法が確立され
ていない重篤稀少疾患,治験実施が困難な小児科領域である可能性が高い。政策
研のデータは議論の契機となったという意味で有意義ではあったが,ドラッグラ
グの本質的な問題を理解し,適切な解決策を見出すためには,全体像を把握し,
要因について分析を行う必要がある。
筆者は,1999年から2007年に米国,EU,日本のいずれかで承認された新医薬品
398薬剤を網羅的に対象とした分析を行った(1)。以下に結果を抜粋しながら,ド
ラッグラグの現状と要因,現行施策の実効性について考えてみたい。
1.世界の新医薬品の約半数が日本では未承認。そのうち半数以上は開発未着手
対象398薬剤のうち日本で承認されているものは220薬剤(55.3%)であり,未
承認薬のうち半数以上(101/178薬剤)については,2007年末時点で日本での開
発が行われていない。承認されている薬剤について世界初承認から日本での承認
までの承認ラグを算出すると,ラグは広い範囲に分布しており,中央値は約3.5
年,全体の25%の薬剤で承認ラグは6年以上に及んでいた。
臨床的重要度が高い薬剤群に着目するため,既存治療に比べて明らかに高い有
用性を有するとして審査上の優遇措置を受けた146薬剤(Fast Track指定,
Priority Review,優先審査)を抽出して分析すると,日本での承認は72薬剤
(49.3%)と半数を下回った。売上げ上位に名を連ねる薬剤の大半は重要度が高
い薬剤群には含まれていない。重要度が高いにもかかわらず日本で開発が行われ
ていないものは,稀少癌や先天性対代謝異常症治療薬であり,日本におけるニー
ズも認識されている。ドラッグラグの議論はこれらの薬剤群に着目して行われる
べきである。
2.日本におけるドラッグラグは「海外オリジンの薬剤の承認の遅れ」
対象398薬剤の約9割は欧米で創製された薬剤である。日本オリジンの薬剤は55
薬剤のみであったが,これらの大半は日本で最初に開発され,日本で世界初承認
となっている。「日本企業が海外での開発を優先させるからドラッグラグが起き
ている」という批判がしばしば聞かれるが,実際は逆である。海外開発が先行し
ている薬剤もわずかにあるが,海外で先に治験を始めるということと日本の承認
が遅れることとは必ずしもイコールではない。ごく一部の薬剤を取り上げて日本
企業の行動に帰するのは妥当ではないだろう。日本におけるドラッグラグは海外
オリジンの薬剤の承認の遅れと同義である。
3.問題は審査の長期化ではなく「開発着手の遅れ」
臨床的重要度が高い海外オリジンの薬剤群(135薬剤)に着目すると,承認割
合は46.7%,承認ラグは41.5カ月と顕著なドラッグラグが観察される。この薬剤
群での審査期間(中央値)をみると,米国6.2カ月,EU 15.2カ月,日本13.3カ月
である。日本の審査期間は米国より6カ月長い程度であり,EUよりもむしろ短い。
したがって「ドラッグラグは日本の審査が遅いせいだ」という批判も正しくない
ことがわかる。別の調査では米国と日本の治験期間は同程度であることがわかっ
ている。ではどこで遅れが生じるのか。それは日本でのアクション開始が遅いと
いうことである。
この135薬剤のうち,世界初承認時に日本における開発(ここでは治験実施を
指す)が開始されていたものは57薬剤(42.2%)にすぎない。開発が開始されて
いなかった78薬剤のうち38薬剤については2007年末時点で開発が行われていない。
これらの中には,学会・患者団体からの承認要望が出され,「未承認薬検討会議」
が開発促進すべきと結論づけた稀少癌治療薬,先天性代謝異常症治療薬が多数含
まれるが,いまだ開発を手掛ける企業が決定していないものが12薬剤もある。開
発が行われ,承認申請がなされなければ審査は行われない。自明のことであるが,
審査官を増員したところで,これら重要な薬剤のドラッグラグは解決できないの
である。
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iv>4.開発着手を遅らせる要因
ここでは簡単に分析結果について紹介する。詳細は拙著(1)を参照いただけれ
ば幸いである。臨床的重要度は早期開発のインセンティブとはなっておらず,む
しろ市場の大きい薬剤が優先される傾向がみられる。開発着手を遅らせる要因と
して挙げられるのは,(1) 患者数がきわめて少数であり,治験成立が困難 (2)
市場規模が小さくリターンが見込めない (3) 日本法人が存在しない,あるいは
日本でのライセンス先が決まらない などである。ドラッグラグが最も顕著にみ
られ,かつ問題となるのは神経系(特に小児てんかん治療薬),稀少癌,先天性
代謝異常症であるが,これらの領域では複数の要因が重複してみられる。
米国ではここ数年バイオベンチャーによる承認取得が急増しているが,これら
の多くが日本法人を持たないことは特筆すべきである。バイオベンチャーは専門
特化しており,稀少癌治療薬や先天性代謝異常症治療薬など,いわゆるウルトラ
オーファンドラッグを手掛けている。欧米での開発段階では日本市場は視野に入っ
ておらず,承認されて話題になって気づいたときには遅い,という事態となって
いる。
以上より,治験と審査のスピードアップを目指した現行施策は,実効性に乏し
いと言わざるを得ない。「未承認薬使用問題検討会議」は海外での承認後の対応
であることから,それまでの遅れは回収不可能である。先ごろ発足した製薬協
「未承認薬等開発支援センター」も同様である。このような,欧米で承認されて
からどうするかを考える追従者的姿勢では,厚生労働省の掲げる「ドラッグラグ
をなくす」という目標を達成できる見通しはほとんどないと言っていい。
ドラッグラグを解消するためには,世界での開発着手段階で,日本での承認申
請を視野に入れた計画が立案されていることが重要である。情報の共有化と企業
が早期開発のリスクを取れるインセンティブの仕組みの構築が必要だ。薬剤の特
性や治療領域によってドラッグラグの要因が異なることから,一律の施策で効果
がない。オーファンドラッグ制度の見直しや仮承認制度の導入,一定のドラッグ
ラグの存在を前提としたコンパッショネートユース制度の整備も同時に考える必
要があろう。現時点で考えうる解決策については,稿を改めて議論したい。
[引用文献]
(1) 辻 香織.日本におけるドラッグラグの現状と要因‐新有効成分含有医薬品
398薬剤を対象とした米国・EUとの比較‐.薬理と治療 2009; 37(6): 457-495
オンライン版
http://www.lifescience.co.jp/yk/jpt_online/review0906/index_review.htm