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臨時 vol 213 「小児科医が見た阪神大震災 8」

医療ガバナンス学会 (2009年8月28日 06:16)


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          神戸市立中央市民病院・元修練医
          濱畑 啓悟
 今回の震災では、全国から多数のボランティアが自然発生的に続々と神戸に集
まり、一種の社会現象として注目された。その中で多くの団体や個人と知り合い
、様々な形で協力し、共に活動した。それらのボランティアについて、最後にま
とめて記しておきたい。
 1. 阪神大震災地元NGO救援連絡会議  代表:草地 賢一
 この組織は牧師である代表の草地氏が、今回の震災で様々なNGO(非政府組織)
が活動するであろうことを震災の初期から予測し、それらのお互いの連絡調整の
ための受け皿として設立されたもので、中央区栄町通りの毎日新聞ビルの3階に
事務所を構えている。僕がこの連絡会議を知るようになったのは、京都から来ら
れ中央市民病院内でボランティアとして働いていた、橋本恵子さんとの立ち話が
きっかけだった。中央市民病院にも全国からたくさんのボランティアが集まって
来られ、院内で水運びなどを手伝って下さっていた。1月25日、あるきっかけで
橋本さんと話している時、中学時代からの剣道部の先輩の実吉さんの名前が出た。
ちょうど東灘での活動が一段落した頃だった。実吉さんはこの時、NGO連絡会議
の中心人物として活動していた。10年ぶりの再会だった。
 この頃はテレビを見る暇はほとんどなく、情報源はもっぱら車の中で聴くラジ
オだった。中でも最も的確な情報を流していたのは、普段ほとんど聴くことがな
かったNHKのラジオ第1放送だった。他の放送が被災地の様子を外に伝えることに
重点を置いているのに対して、NHKラジオは神戸市役所8階に置かれた生活情報セ
ンターから、被災者の生活に直接関係のある生活情報を全国ネットで放送してい
た。安否情報に始まり、どこの病院が開院し、どこの銭湯が営業しているとか、
様々な相談に関する電話番号、受験やホームステイの申し出についての電話番号
などを、延々と休みなく放送し続けていた。
 そのどれもがよい情報だったが、実際に避難所を見ていて感じるのは、その情
報を最も必要としている被災者が、実際には紙も鉛筆も持っていないことだった。
東灘での活動から情報の重要性を強く感じていた。そこでこれらの情報を整理し
て、ボランティアの力で壁新聞のような形に編集し、常に最新の情報を避難所に
張り出すのがよいと考えた。このアイディアを実吉さんにお話しし、ボランティ
アの力を動員してもらうようお願いした。そして市役所8階のNHKのスタジオを訪
ね、チーフディレクターの中村さんにお話しすると大変乗り気になって、ラジオ
で放送した情報をすべて提供し全面的に協力して下さるとのことだった。この時
期には良いアイディアさえあれば、立場を越えてどんな人とも協力し合うことが
できた。
 東京から来ている2人の若いボランティアを中心に、このプロジェクトをお任
せすることになった。当初は保健所の帰り、毎日のようにこの事務所に立ち寄り、
編集方針等について話し合った。またボランティアの間でインフルエンザがはやっ
ていたので、保健所に集まった救援物資の中から風邪薬やトローチ等を調達して
は、彼らに届けたりもした。この頃にはすでに長田区の「デイリーニーズ」や中
央区の「なんでもかわらばん」など、各区ごとに壁新聞的な情報誌が生まれつつ
あり、結果的にこのプロジェクトはこれらの情報誌やその他のボランティア団体
に向けて、FAXで各種の情報を提供するという形になった。
 またNGO連絡会議では、定期的に参加団体の全体ミーティングを開いていた。
当初は様々な団体が、それぞれの活動報告をし合うことから始まったが、その中
で次第に互いに協力し合って活動する団体が出てきたり、物資の融通や情報の交
換がなされるようになった。やがて医療、情報、物資、外国人救援等の分科会も
生まれ、共通の問題について話し合うようになり、3月になると学生ボランティ
アなどの撤退に伴う問題に重点が移った。現在では長期的な復興支援と今回のボ
ランティア活動の記録を中心に、遠方からの団体に替わって、地元学生、主婦な
どが主に活動している。
 2. 中央区ボランティアルーム  代表:上田 敏晴
 これは行政とうまく協力し合って活動したボランティアとして注目される。神
戸市は震災当初から市役所にボランティア登録の窓口を置いていたが、実際には
その力をあまり有効に利用できなかったと聞いている。どこにどれどれだけのボ
ランティアが必要であるかという情報を、行政側が十分に把握していなかったた
めだろう。実際登録はしたもののいつまで経っても要請が来ず、しびれを切らし
て現場に駆けつけたというボランティアの話をよく耳にする。そんな人たちが各
区ごとに自然発生的に区役所に集まるようになり、区役所は彼らに部屋を提供し
た。彼らは活動の場を得たことで、自然と組織作られ動き出した。彼らの年齢層
は下は高校生から上は中年ぐらいまでと幅広いが、その中で中心となるのは20代
の大学生、大学院生、フリーターなどの若い力だった。実際代表の上田君は21歳
の京大生だが、数が多くしかも出入りが激しいこの個性豊かな集団をうまくまと
めていた。各区のボランティアルームの中でも、この中央区ボランティアは行政
との協力がうまく行っているようだった。彼らは隣の市立図書館の床に毛布を敷
いて寝起きしていた。それはまさに避難所生活そのものだった。ここでもインフ
ルエンザが流行していたので、   「仮設住宅が当たるといいですね」 など
と言いながら風邪薬やマスクを届けたりもした。
 2月の半ば、ちょうど中央保健所に出務していた頃、偶然保健所の1階に張って
あった、「中央なんでもかわらばん」を見たのがきっかけで、このボランティア
ルームに出入りするようになった。この「なんでもかわらばん」は多くの情報か
ら被災者の生活に本当に必要な情報を的確に選び出し、一つの紙面にうまくまと
めて、週3回発行されていた。それはまさに僕がNGO連絡会議でやろうとしていた
もの
だった。さっそく区役所4階のボランティアルームを訪ね、このかわらばん
を作っている米田さんと船田さんという2人の神戸市外大の大学院生と話した。2
人ともミニコミ誌などの編集の経験があるとのことだった。さらに「CHUO
WEEKLY」という6ヶ国語版の情報誌の発行も計画しているとのことだった。その
後中央保健所出務が終了したあとも、仕事の帰りによくこのボランティアルーム
に立ち寄り、彼女らといろんなアイディアを話し合ったり、情報を提供したりす
るようになった。「なんでもかわらばん」はその後もイベント情報や求人情報、
リサイクルなどその時々のタイムリーな情報を送り続けてきたが、他の情報網が
整うにつれて4月28日版の第30号を最終号としてその役割を終えた。
 その後中央区ボランティアルームは、区役所内の一室に社会福祉協議会中央区
ボランティアセンターとして残り、現在も仮設住宅支援などの活動を続けている。
 3. 外国人救援ネット  代表:神田 裕
 これは前述のNGO連絡会議の分科会の一つで、今回の地震で被災した外国人に
何らかの支援をしている団体が集まり、互いに情報交換し合う目的で発足した。
そもそも今回の地震で僕が外国人問題に関心を持ったきっかけは、1月18日にさ
かのぼる。元々ポートアイランド内にはたくさんの外国人が住んでいる。地震の
翌日、ポートアイランド内を歩いている時に、車に4人ぐらい相乗りして辺りの
様子を窺っている東南アジア系(?)の外国人を見たのがきっかけだった。日本
人の我々でさえ情報が不足し、不安で仕方がないこの事態に、まして言葉の通じ
ない彼らは、一体何が起こったのか、これからどうなるのかといった不安でいっ
ぱいだっただろう。また普段からの近所づきあいがなければ、避難所で排斥され
る可能性だってある。
 外国人の中でも神戸に長く住んでいる韓国・朝鮮人や中国人、インド人は日本
語が話せるので、比較的問題が少ないかもしれない。また留学生や正規のビザで
入国している人達は、学校や大使館などの保護が受けられる可能性もあるだろう。
そう考えると情報も全く入らず、最も困っているのはオーバーステイなど不法滞
在の外国人達に違いない。彼らは人前に出ると出入国管理局に通報されると思い、
どこかに隠れているかも知れない。今回の震災の特例措置として、不法滞在の外
国人を見つけても出入国管理局へは通報しないという方針は早くから打ち出され
ていたが、そのこと自体が彼ら自身に伝わっていない可能性がある。特に医療面
で緊急事態が発生していることも考えられる。そこまで考えてみたが、彼らに関
する情報はどうすれば得られるのだろう。そもそもそういった在留資格のない外
国人達が、実際神戸にどのぐらいの数いるかという情報すらなかった。一時は必
要があれば外国人救援のため、英語が話せる医者を集めて医療班を組織し、診療
活動を行うことも考えたが、外国人の実態に関する情報がなければ動きようがな
かった。その後も外国人の問題は常に頭の片隅にあったが、彼らの話は噂として
は聞くものの、なかなか正確な情報を得られずにいた。
 そんな時NGO連絡会議の分科会としての外国人救援ネットの存在を知り、何ら
かの医療的貢献が出来ないかと考え、参加してみた。そこには様々な形で外国人
支援活動をしている団体の代表が集まっていた。会合は大体週に1回のペースで、
中山手カトリック教会で開かれている。なかでも外国人地震情報センターは、震
災早期から外国人向けに電話相談窓口を設置し、10ヶ国語が話せるボランティア
を常駐させて相談にのっていた。彼らは入管には通報しないということを前面に
押し立てて広報していたため、不法滞在の外国人からも、様々な相談が寄せられ
ている。また長田区には元々多くの定住ベトナム人が住んでおり、ケミカルシュー
ズ関係等の仕事をしていた。その多くが被災して長田区の南駒江公園という所に、
約130人のベトナム人が集まりテント生活をしていた。この南駒江公園のボラン
ティアと、近くの全焼した鷹取商店街の中にある鷹取カトリック教会が協力しあっ
て、それら被災ベトナム人の支援をしていた。また神戸学生センターのように留
学生・就学生の被災者に一律3万円の見舞金を支給している団体もあった。
 外国人救援ネットの会合では外国人被災者についての様々なケースが報告され
ていた。当初日赤は不法滞在外国人に対しても日赤が窓口となり、同様に義援金
を支給すると発表していた。しかし実際に支援者が申請に行ってみると、書類上
の不備などを指摘して、必要以上に支給を遅らせているという。申請のため日赤
の窓口に通っている中山手カトリック教会のシスター・マリアが日赤の不適切な
対応に怒りをこめて言った、「法を守るから人権があるのではなく、人権を守る
ために法がある」 という言葉は印象的だった。
 一方外国人の医療面に関しては、震災によるクラッシュ(挫滅)症候群で透析
を受けるなどして多額の医療費が発生している外国人が、少なくとも10名はいる
らしい事が分かった。しかも市内の病院から、大阪や和歌山の病院へ転送されて
いるケースもあるらしい。一般被災者は健康保険の自己負担分が免除されていた
が、不法滞在、あるいは短期滞在のため健康保険に加入していない彼らの医療費
が問題になっていた。また超過滞在の外国人の中に震災で死亡した人が少なくと
も2名おり、そのうち1人は1月16日にビザが切れたばかりの、5時間46分の超過滞
在であるという。さらに留学中の夫を訪ねて神戸に来ていた韓国人の奥さんが、
震災で亡くなったそうだ。そこで外国人被災者の医療費については災害救助法に
基づいた公的負担を求め、震災犠牲者については日本人と同様な弔慰金の支給を
求めていく一方で、「医療費肩代わり基金」を設立して募金を集め、一時的に彼
らに支給していくことになった。一方で当時は既に医療的な問題は急性期を過ぎ
ており、我々が直接診療面で関われる問題はあまり無くなっていたが、
これら外
国人被災者の実態には大変興味があったので、自分では特に外国人支援活動はし
ていないが、その後もこの会合に出来るだけ参加するようにした。
 現在「外国人地震情報センター」は「多文化共生センター」と改称し、継続的
に広範な在日外国人支援活動を行っているが、彼らと協力して月に一回、中山手
カトリック教会で外国人医療相談を行っている。
 4. 神戸わんぱくまつり実行委員会  実行委員長:船田さやか
 今年は震災の影響で神戸まつりは中止された。また学校の校庭は避難所となり、
空地には瓦礫が積み上げられ、子供達が十分に遊ぶ場所がない状態だった。そこ
で被災地の子ども達に、母の日である5月14日、神戸総合運動公園を借り切って、
まる1日思いっきり遊んでもらおうと、前述の中央区ボランティアルームを中心
に、各区からボランティアが集まって「神戸わんぱくまつり」が企画され、前述
の「なんでもかわらばん」を作っていた船田さやかさんが実行委員長となった。
ビラ配りから、参加団体や後援、協賛団体を募ったり、当日の進行や警備などす
べてボランティアの手で進められた。実際にこれだけのイベントを計画、実行す
るためには相当なエネルギーが必要であったが、「神戸の子どもたちのため」と
いうことで、各方面から多くの人々の協力が得られた。
 ちょうどその頃、外国人救援ネットでもエスニック料理の屋台などを中心とし
た外国人のためのイベントをやろうという話が持ち上がっていたので、この両者
を組み合わせて、エスニック屋台をわんぱくまつりの目玉の一つにするというこ
とになった。そこで僕もこの実行委員会に加わって、外国人救援ネットとの連絡
役と、当日救護班について担当した。当日は雨のため、予定されていた「ミッキー
マウスパレード」等の企画は中止されたが、それでも2万人あまりの入場者を集
め、盛況であった。
 こうしてボランティアとして集まった人達は、それぞれに様々な経歴を持って
おり、また色々と隠れた才能を持っていた。ほとんどの人にとっては、初めての
ボランティア活動だったが、一部には震災前から様々なボランティア活動を経験
してきた人もいた。NGO連絡会議代表の草地さんは財団法人PHD協会で、アジアの
国々の村作りの支援をしていた。南駒江公園でベトナム人の支援をしている日比
野さんは、8年間勤めた新聞社を辞めてボスニアへ向かう準備をしていた。外国
人地震情報センターの田村さんは、ボランティアでタイ語の新聞を発行したり、
アジア各国のビデオを集めてレンタルする活動をしていた。わんぱくまつりの船
田さんは昨年、国連ボランティアとしてモザンビークで活動していた。また中央
区ボランティアの代表の上田さんはカンボジアとケニアでのボランティア経験が
あった。これらの人々が核となって、ボランティア経験のない他の人々を巻き込
んで様々なグループが形作られ活動していた。
 年齢、経歴、出身地、宗教など様々な背景を持った人達がそれぞれ勝手に集まっ
て、一緒に活動する上での共通の原動力といえば「神戸のために何かしたい」と
いう気持ちだけだった。いちいち出会う度に互いの氏素性を確かめ合っている暇
はなかったが、皆お互いの善意を信じ、協力できそうなあらゆる人達と協力し合っ
て活動してきた。ずっと後になって、実はこの人は普段こういう事をしている人
だったのか、と知ることもしばしばだった。それぞれ様々な才能を秘めた人々が
地震を機会に神戸に集まって、互いのネットワークが出来ることにより、より大
きな力を発揮することが出来た。日本の各地でそれぞれ別々に生きていたこれら
の人々がここでこうして一緒に活動しているのは、ほんの数十秒地面が揺れた結
果なのだと思うと、とても不思議な縁のような気がする。
 この地震で、見、聞き、経験したことと、この機会に知り合うことの出来た多
くの人達との交友は、僕にとって大きな財産だと思っている。
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