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Vol.186 憲法第9条の危機

医療ガバナンス学会 (2015年9月16日 06:00)


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精神科医 堀 有伸

2015年9月16日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp


平和とは何でしょうか。
平和は、当然達成されているはずのものではありません。ほとんど常にそれは、何らかの意味で破られています。しかし同時に、闘争状態がむき出しになることも避けられねばなりません。現状に埋没し過ぎることなく、今後達成が求められる目標として平和が設定されるべきなのです。

平和だけではなく、民主主義や基本的人権、科学的知識や主体的に一貫した判断を行う自我の働きといったものは、通常は私たちの前にそれらの理念を裏切る形で現れます。その完成した姿は将来において到来することが期待されるものなのです。
これらを理解するためには、日常性を越えた無限や永遠についての構想力が必要です。そして、私たちが求めることをやめてしまったら、これらは決して達成されません。

憲法第9条に代表されるように、日本国憲法は平和についての高い理念を掲げています。そして現在、この理念は現政権の安保法案の提出などによって、大きな挑戦を受けていると言えます。

しかし私は、憲法第9条の理念に外的にもたらされた今回の試練は、それが潜在的に抱えていた内的な問題に比べれば、軽微な内容だと思うのです。

それは、日本国民の多くが主体的に日本国憲法の理念を達成するために努力する意欲に乏しいということです。高い理念には常に現実の困難が付きまといます。しかし、その困難を自らのものとして引き受ける覚悟が乏しいまま、平和について、それを誰かが成し遂げてくれるのを享受するのが当然の権利だと考えられています。

民主主義や基本的人権、科学的知識や近代的自我についても同様です。これらが、人類によってその歴史を通して大変な努力の末に獲得されたなかの最良の部分であり、失われやすいものであることが忘却されています。

憲法第9条が抱える最大の内的危機とは、これが一部の日本人にとって、精神的な依存を続けるための道具として利用されていることです。守られた平和のなかで生活していることへの感謝の思いを抱くことなく、何らかの意味で闘争に巻き込まれたり、志願してそれに加わったりした人々を道徳的に見下すような精神性は、自らの依存性についての強力な否認を含んでおり、非常にナルシシスティックです。

現在の日本国憲法には、これが戦後にアメリカから押し付けられたものだという批判があります。戦後70年経った今の時点において、日本人が第9条に代表される憲法の理念を守りたいのならば、精神の経験の次元において、それを自らのものとしてもう一度主体的に選び直し、先に述べたような依存性を克服していく決意が必要です。

私には、安保法案を提出した現政権の危機意識も、一部は理解できるように思えるのです。あまりにも、平和や人権の保護、民主主義的な手続きが、国民全体の積極的な理解や協力なしに、当然に与えられるものであるという思いが強くなり過ぎています。安全や豊かさもそこに入れられるかもしれません。

そのような中で、実務担当者の担わなければならない作業は増大していく一方です。そして問題が起きた時には、普段は何のコミットメントもしていなかった人たちからの強烈な攻撃がなされてしまう、そのような社会になっています。これでは公共的な責任を担ってくれる人は減っていきます。その結果、国がまとまりを失ってバラバラになっていってしまう可能性があるのです。もし、平和についての依存的な意識の維持と醸成に憲法第9条が利用されているのだとしたら、その理念に何らかの意味で挑戦したいと政権担当者が考えることは、ありうると想像しました。
たしかに、現政権の意図には共感できる部分もあります。しかし、それを実施しようとする方法には賛成できません。

国際情勢の変化にともなう、中国などの外的な脅威の高まりに対抗しなければならないという説明を聞くことがあります。残念ながら、この当否について判断する能力は私にはありません。是非、関連する領域のさまざまな専門家の信頼できる意見を聞いてみたいと望んでいます。その時に気をつけたいのは、軍需に関連した産業の影響力です。日本が不安定になることで経済的な利益を得ることのできる人々は、その方向に国論を誘導することを強く望むのではないかと警戒しています。

外なる脅威と並んで私が警戒するのは、内なる脅威、日本人が抱くナルシシズムの問題です。それは、日常性の延長ではない理念についての、日本的精神からの極端な評価の低さに由来します。例えば、国防のような大きなテーマについて主体的な責任を担う判断を積み重ねた当事者間の合意形成による決断という政治的なプロセスに、日本人は習熟しているように思えません。それよりも、短絡的な熱狂による一体感の出現による解決を求める傾向があります。日本の第二次世界大戦における失敗と敗北は、そのように日本が国民全体として加速を強め暴走していった結果に思われます。しかしその後、そのことについての真剣な国民的な振り返りが不十分なまま、同じような失敗がくりかえされているように思えるのです。

私が「日本的ナルシシズム」という言葉で警戒している内容に関連して一部のみ、政治学者の藤田省三の指摘を引用しつつ振り返っておきます。日常道徳を越えた普遍性や論理性への信頼の欠如が、そこにはあります。戦前のファシズムにおいては、「近代日本においてはとくに権力が道徳と情緒の世界に自らを基礎付けた」「権力の自己主張が、日常道徳の世界において自らの道徳性の顕示で行われる場合には、反権力行為が道徳悪とされることは勿論、権力の対外的危機に対する敏感ならざる反応もまた道徳性の喪失現象とみなされる」(藤田省三『天皇制国家の支配原理』より)とされました。特に引用した後者は、安保法案に賛成する人々が中国の脅威を強調しつつ国民を現政権に協力する方向に駆動しようとする時の論法と、共通点が多いように思えます。

もし日本を戦争に対してよりフレキシブルに対応できる体制へと変えていきたいのならば、国全体が短絡的に一つの方向に暴走しないような法的・制度的整備が今まで以上に進められることと、国民の間に責任を負える個人としての精神性が涵養されていくことが、必須の条件です。その中でも、司法やマスコミが、行政から独立して政権への批判や検証を行う役割を果たしているというのは、外すことのできない要件となるでしょう。現政権には、それと逆行する動きが多々認められ、その点には非常に危険なものを感じています。

前掲の藤田の著作には「政治権力が「権力に内存する真理性」(ヘーゲル)への自覚を喪失して、政治外(堀注:この場合は日常道徳のこと)に存在理由を求めていく過程は、他ならぬ権力が全生活領域に普遍化し、したがって、日常化し、権力の放恣化を帰結していく過程」であったと言います。このようなことが再現することは、避けられねばなりません。

そのために重要なのは、現政権を日常性の水準から道徳的に非難することではないと考えます。「反権力」が一つの権威として高まり過ぎることにも、問題が潜んでいます。それよりも、抽象的な水準を含む法や政治についての概念への理解が深まり、平和や民主主義についての共有できる理念を彫琢していくことが重要です。それは、より一層の精神的な献身よりも、技術的な修練によって獲得されるものだと考えます。
政治的な議論は、将来についての共有できる理念を模索しそれを実現していくためになされるべきです。日常的な水準における優位性と権威をめぐる争いに終始するべきではありません。

憲法第9条の危機の乗り越えは、そのように目指されるべきです。

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