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Vol.211 福島第一原発・廃炉作業現場に見た地域社会との隔壁 ~地域社会との交流を進めなければ本当の復興はできない

医療ガバナンス学会 (2015年10月22日 06:00)


※このコラムはグローバルメディア日本ビジネスプレス(JBpress)に掲載されたものを転載したものです。

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/44792

南相馬市立総合病院
山本 佳奈

2015年10月22日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jp


東日本大震災から4年半が経った。町の様子も様変わりし、社会の関心も薄れた。

原発も例外ではない。最近の報道は、もっぱら汚染水に関するものだ。しかしながら、報道内容はまちまちで、しかも専門家によって意見が異なる。専門家ではない私は、果たして何が真実なのか、さっぱり分からない。

南相馬に住んで半年が経った。メディア報道を通じてではなく、自分の目で福島第一原発を見たいという思いが募ってきた。そんな矢先、福島第一原発を見学する機会をいただいたことは、私にとって本当に貴重な経験となった。だからこそ、自分の目で見て感じたこと、考えたことを正直に書きたい。

Jヴィレッジをご存知だろうか。楢葉町と広野町にまたがる、このスポーツ施設は、幸か不幸か福島第一原発から半径20キロメートル、つまり避難対象地域との境目に位置している。このため、原発事故収束のための拠点施設としての役割を担うこととなった。
毎朝、6700人もの作業員が、Jヴィレッジからバスに乗り込み、片道40分をかけて福島第一原発へと向かう。バスは、早朝から夜遅くまで動き、150回もJヴィレッジと原発を往復する。
我々もJヴィレッジからバスに乗り込み、福島第一原発へと向かった。道中、楢葉町と富岡町を通過した。楢葉町は、つい数日前に避難指示が解除されたばかりだった。除染作業で発生した土砂を入れるまっ黒なフレコンバックの数が原発に近づくにつれて増えていく。この景色は、何度見ても心を締め付けてくる。黒い大量の袋が整然と並べられている様だけは慣れることができない。

国道6号線を北上し福島第一原発へと着いた途端、視界の半分を巨大な大量のタンクによって占領されてしまった。一日に約300トンもの地下水が原子炉建屋内に流れ込んでいるため、そのタンクは今もなお増え続けている。
施設内では厳重な管理体制のもと、放射性物質のスクリーニングが徹底して行われていた。作業員の方々は、流れ作業の如く大きな器械の中を通り抜けてセキュリティーを通過していく。その光景はまるで機械に人間が支配されている近未来の映画の世界のようだった。

構内には救急医療室が一つあった。「近隣に病院が無いため、医師一名に常駐していだだき、24時間体制で救急対応が出来るようにしている。」と東電の担当者は説明する。ざっと見渡した限り、初期対応が最低限行える医療設備があるのみで、あとはパソコンが一台置かれていた。そのパソコンを用いて、福島県立医大をはじめ、全国の関係者の先生と連絡を取り合っているそうだ。一方で、血液成分を分析する機械は置いていないため、採血は行っていなかった。
多くの患者は怪我や普通の病気だろう。大量被曝した場合のケアに留意していることはわかるが、現場の作業員が置いてきぼりにされているように感じた。その後、防護服とマスクを着用し、バスに乗り込み1号機へと向かった。防護服とマスクに覆われると、想像以上に動きにくく、視界も制限された。二重に重ねたゴム手袋は手に重くのしかかり、思い通りに指先を動かすことが出来なかった。

バスは、鉄格子がはりめぐらされている鉄の扉を通り抜けた。斜面を下ると目に飛び込んできたのは、鋼鉄の骨組みがむき出しの建物と、かたわらで黙々と作業している作業員だった。想像をはるかに超えた破壊の凄まじさと、見上げるほどの大きさの原子炉建屋を目の当たりにした私は、言葉を失ってしまった。日常生活とはあまりにもかけ離れた世界が、そこにあった。
手元の線量計の数値は、建屋に近づくにつれてどんどん上がっていく。瞬く間に300マイクロシーベルトを越えてしまった。水素爆発の威力を目の当たりにすると同時に、自然の力にはかなわない人間の無力さをまざまざと見せつけられたような気がした。

過酷な作業を行っている人が、現場にはたくさんいた。先の見えない廃炉作業に立ち向かう人たちがいた。汚染水を何とかして減らそうと懸命な人たちがいた。そして、事故から目を背けないで、福島復興のために尽力されている東京電力の人たちがたくさんいた。福島第一原発のことを何も知らなかったと思い知らされた。

終始、東京電力の方々は真摯な姿だった。少なくとも10名もの方が対応してくださったのだが、愚痴をこぼすことなく丁重であった。けれども、二言目に出てくるのは、「国や県と協力し、復興に尽力したい」という言葉と「申し訳ない」という事故に対するお詫びの言葉だった。何度聞いたか分からない。もちろん、賠償はきちんとするべきだと思う。国や県と協力することも重要だ。だが、賠償と復興は別の問題だ。地域ではなく、国や県の様子伺いをしているかのような印象を受けたことは、非常に残念だった。

東京電力の方々には、地域に根ざして頑張っている人がたくさんいることを知って欲しい。南相馬だけでなく、相馬やいわきには医療に携わるために移住してきた若者がたくさんいる。私の同期は、九州・関西・東京とみな県外からやってきている。それに、福島の教育のために福島に移住して活動している先生もいれば、福島や相馬にきて高校生に授業している予備校の先生もいる。
だから、東京電力の社員の方にも地域に根ざしていただきたい。福島に移住すれば、住民税を納めることが出来るだろう。東京電力の本社を福島に移すことは難しくても、子会社を移せば法人税を納めることが出来るだろう。

東京電力は高度な専門家の集団であることに間違いはない。高度な技術集団として我々が使わない手はない。高度な技術を生かして福島に何ができるか、東京電力の方には考えて欲しい。実際に医療現場や教育現場に出向けば、本当に抱えている問題が見えるだろう。そして何が必要で、何が出来るのか、具体的に考えつくに違いない。

医療の面からいえば、南相馬では社会的孤立が大きな問題となっている。震災を契機として、子供や子育て世代がいなくなってしまい、孤独死する老人が増えている。彼らの血圧や脈拍を自動で測定し、異常な値を示した時にはかかりつけ医に連絡するシステムがあれば、どれだけ有用だろう。東京電力の持つオール電化の技術、あるいはネットワークと、我々のような現場の医師がうまく連携できれば、社会的孤立を防ぐ道筋が開けるのかもしれない。

もちろん、自分も福島第一原発の廃炉に協力したい。廃炉が進まなければ、福島の復興はないからだ。

今回の見学を通じて、自分にも出来ることがあるのに気づいた。例えば、施設内の救急医療だ。今は、全国から来る日本救急医学会の医師と福島医大の協力のもとで成り立っているが、廃炉作業が終わるであろう40年間も続くわけがない。そもそも、県立医大から86.5キロメートルもの道のりを、山を越えてやってくるのは現実的ではない。
一方、いわきや南相馬・相馬から常磐道を利用すれば30分で着くことが出来る。こちらの方が遥かに楽だし、往復の交通費もかからない。
浜通りが医師不足であることには間違いないが、地元の医師で助け合うようにしていかないと、長期にわたる廃炉作業をサポートすることは不可能だろう。それに、今回の見学でも実感したが、福島第一原発の廃炉現場で働くことは、私のような若手医師にとって貴重な経験となる。もし、私でよければ、真っ先に手を上げて行きたい。

事故で失われたものはあまりにも多い。今でも自分の故郷に帰ることの出来ない方のことを思うといたたまれなくなる。だが、東京電力をこれ以上吊るし上げても意味がない。福島の人のために何もならない。東京電力と地域が一緒に街の再生を行っていく時が来ているのではなかろうか。最後になったが、貴重な機会を下さった坪倉先生、そして真摯な対応をしてくださった東京電力の方々に感謝の意を表したいと思う。

<経歴>
山本佳奈
医師。滋賀県出身。私立四天王寺高校卒業。2015年3月滋賀医科大学卒業、医師免許取得。2015年4月より福島県の南相馬市立総合病院に勤務。

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