医療ガバナンス学会 (2015年12月10日 06:00)
この文章は、東京保険医協会雑誌「診療研究」15年12月号に掲載されたものです。
日本医療法人協会医療事故調運用ガイドライン作成委員会委員
東京保険医協会勤務医委員会委員
東京 葛飾区 おその整形外科 於曽能正博
2015年12月10日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 http://medg.jp
*「医療事故」とは
ここで注意しておきたいのが「医療事故」という言葉の定義です。今回の法律で医療事故とは「当該病院等に勤務する医療従事者が提供した医療に起因する(又は起因すると疑われる)死亡又は死産であって、“当該医療機関の管理者(以下、管理者)”が予期しなかったもの」と定められました。
医療を受けても残念ながら亡くなる方は多くおられます。その中から管理者がどうしても死亡を予測できなかった今後の医療安全の向上につながる事例を「医療事故」として報告することになりました。今後この要件に該当しない“できごと”はインシデント(出来事、事件、事案、事象、事例)アクシデントなどの語が用いられます。
*「医療事故」が起きたと判断された時
それでは、医療事故調査制度の実際の流れを見てみましょう。
医療機関の管理者は、「医療事故」が実際に起きたと判断した時、事故発生報告を「医療事故調査・支援センター」(以下、センター)に行います。この報告の際には、ご遺族の方に「今後の医療安全のために患者さんの情報を使わせていただきます」という説明を行います。その後管理者は院内調査を行い、その調査結果をご遺族にご説明し、センターに報告します。
ご遺族はなぜ直接センターに報告できないのでしょうか。患者さんが亡くなった時にそれが「医療事故」にあたるのか、つまり本来の病気が原因で亡くなったのか、あるいは提供した医療に起因するのか、死亡することは予期できたかどうか、という判断はかなり専門性が高く、高度な医学の知識・技術が要求されます。そのため、事故発生の報告は医療機関の管理者に委ねられているのです。
重要なのは、「医療事故調査制度」は純粋に医学的に「医療事故」を集積し再発防止を目指すためのもので、調停や紛争解決を行うための制度ではありません。医療ミスを報告するためのものでもありません。あくまでも管理者が医療事故と判断した事例を報告する制度です。
もし遺族の方が医療機関の対応に納得できないものがあるときはもう一度、医療機関に説明を求めてください。それでも納得いかない場合は、医療事故調査制度とは別枠の方法にゆだねることになります。
※有害事象が起きたときには
医療を受けて思いもよらなかった結果が起きたときは、まずその医療機関に説明を求めてください。残念ながら意外に病気の進行が早かったということもあります。また、現代の医療はかなり高度なことが行われていて、治療に使われる薬などは、よく効きますが、それだけに副作用や合併症なども強いものがあります。疑問に感じる点があれば、遠慮なく医療者にお尋ねください。医療者には医療の経過を説明する義務があります。説明を聞いてもどうしても納得がいかない時は、遺族は、第三者に相談されてもよいと思います。
*集積した後に再発防止策を出す理由
先ほど、管理者が院内調査を行い結果をセンターに報告すると記しましたが、個々の事故について再発防止策を出すことは通常はありません。なぜでしょうか。
1つには、医療従事者の数・ベッドの数・診療科目・備わっている設備の質や量といった条件が医療機関ごとに異なり、医療機関によって医療の仕組み自体が変わってくるということがあります。ある医療機関で有効な防止策が他の医療機関にはそぐわない、ということは珍しくありません。個々の事例での防止策にこだわると、真の普遍的な再発防止策作成の妨げになってしまうのです。
もう1つの理由は、個々の事案で無理に再発防止策を出そうとすると医療従事者個人の追及になりやすく、冤罪を生んでしまうこともあるからです。(実際、これまで個人の責任追及により冤罪が発生してきた歴史があります)
現在の「医療事故」は特定の個人の責任によるものは少なく、システム(さまざまな人的・物的要素が相互に影響しあいながら、全体として機能するまとまりや仕組み)のエラーとして起こるものがほとんどなのです。
システムに不備があるのですから、たまたま最後のスイッチを押す役目にあたった当事者を罰しても同様の事故が起こってしまうのは当然の事なのです。当事者を罰する事により「一件落着」したかの誤解を招き本当の原因(システムエラー)の改善は先送りにされてしまうのです。ヒューマン・エラーが起こったとしても、それをカバーするシステムの構築こそが必要なのです。具体的には「フェール・セーフ(故障や操作ミス、不具合などの障害が発生することも予め想定し、それが発生した際の被害を最小限にとどめる工夫を盛り込んだ設計思想)」や「フール・プルーフ(利用者が誤った操作をしても危険に晒されることがないよう、設計段階で安全対策を施しておくこと)」の考えを取り入れなければなりません。
※薬の誤投与
ウログラフィンという造影剤があります。本来尿路や関節撮影などに使うこの薬を間違って脊髄造影に用いて死亡させてしまった例がわが国で過去9例あり、うち6件7例が刑事事件となり全例で医療者個人が有罪となりましたが再発を防ぐことはできず、去年4月に同様の事例が起こってしまいました。いずれの裁判も被告人個人の責任を追及し、過失を認定しましたが、次の事故の発生を防ぐことはできませんでした。刑事裁判が医療安全、再発防止の役に立たない典型的な例と言えるでしょう。
*非識別加工
「個人の責任追及」になってしまうことを避けるという観点から、ご遺族への事故発生報告・調査結果説明、センターへの医療事故発生報告・調査結果報告の際には「非識別加工」がなされ、事故にかかわった医療者個人が特定できないようになっています。ただ単に匿名化されているだけでなく、他の情報との照合によっても個人の特定が不可能な報告となります。
*おわりに ~医療の限界について~
医療は決して安全なものではありません。例え検査とは言っても危険を伴うものなのです。例えば血管カテーテル検査や大腸内視鏡検査などは病気や加齢で既にもろくなっている血管や腸管にある程度の硬さのある管を入れていくので慎重に操作を行っても血管や腸管を傷つけてしまうことがあり、その傷が場所と大きさによっては致命的となることがあります。「たかが検査で命を落とすなんて」と思われるかもしれませんが、これが現在の医療の現実であり限界なのです。
癌や狭心症あるいはその疑いで悩んでいるところへ「検査で命を落とすかもしれない。検査を受けなければそのまま死んでしまうかもしれない。」となると、さらに悩みが増えてしまいます。今まで医療者は患者さんの心の負担を軽くしようとして気を使い、検査や手術・投薬などでの危険性の説明を過小に行うことがあったかもしれません。
しかし、今後は医療の現状・限界を丁寧にご説明し、死亡もあり得ることを納得いただいたうえで、全力を尽くして不幸な事態を避けていくことになります。“医療側・医療を受ける側”ともに危険性を理解した上で、より真剣に協力して医療に取り組む。そのことによって不幸な事態の発生が減少し、医療安全・再発防止に結びつく。これが今回の制度の副次的な効用ではありますが、重要なポイントと言えるでしょう。