医療ガバナンス学会 (2016年4月18日 06:00)
「空気を読んで常に自分を抑えて全体に合わせる」過度な従順さは、こころの深層において「決して誰に膝を屈することなく唯我独尊を貫く」頑なさと表裏をなしている。そして、このような心性を理解するためには、こころの深層を扱う精神分析の「分裂:split」の概念が有効である。(参考:「ナルシシスティック・パーソナリティーはこころの中にたくさんの分裂(split)を抱えている」http://www.huffingtonpost.jp/arinobu-hori/narcissistic_b_7651150.html)
かつて加藤周一は『日本文学史序説』で、司馬遼太郎の小説の主人公について、「私生活においては型破りで、仕事においては正確な状況判断と強い意志により優れた指導性を発揮する実際家である」と評し、管理社会のなかで型にはめられた会社員の「型からの脱出と型のなかでの成功の願望」という分裂した夢が反映されていると分析した。
「日本的ナルシシズム」の病理においては、型と自分との関係を抽象的に考える自我の機能は育っていない。その代わりに、「型」に丸っきり同一化してしまうか、丸っきり型破りの行動を示すかの、どちらか極端の言動が出現しやすい。そして、「日本人」「日本社会」の問題について論じられる場合に、多くの考察の対象が、オモテの面である型に丸ごと同一化してしまう傾向に限定されてきた。しかし今回は、あらゆる型を忌避するような、また、あらゆる権威を尊重しないような、日本人のウラの側面についても目を配り、統合的な考察を試みる。この日本人のウラの面については、社会的な場面での性的な抑圧がとても弱い社会であることや、普遍性に訴える人権や論理の価値が理解されにくい点を、例にあげることができるだろう。
これは決して日本人が全く不真面目であると言っているのではない。極端な生真面目さと極端な不真面目さが同居している心理的メカニズムについて、より精緻な記述を行うことが本論の目的なのである。
例えば天皇陛下への忠誠について、誠心誠意の思いからそうした多くの人がいたことは、もちろん間違いない。しかし、歴史的な文献を見る限り、口では尊王を語りながらもそれは名目に過ぎず、かえって天皇陛下の権威を恣意的に濫用して私利私欲を確保することに執着したように思える人々もいた。天皇制について考察した政治学者の藤田省三は、戦前の天皇の地位について、道徳的絶対者でありながら、周囲の輔弼を必要とする絶対権力者でないことを指摘した上で、臣民一般が解釈操作によって自らの恣意を絶対化して、相対的絶対者となる可能性を秘めていたことを指摘した。つまり、「君側の奸」のような人物が現れる余地があり、天皇の道徳的価値を認めるようでありながら、現実には自分の恣意を解釈によって「天皇の真意を実現するもの」と主張して専横を振るうことが、原理的に起こりやすい傾向があり、これが太平洋戦争へと向かってしまった国家運営の一因であったと考えられる。
この点、日本人は実に不思議である。上下関係をある面では絶対化しながらも、ある面では決して人と人との上下関係を認めない。社会的に権威ある地位にあるものが、本当の権力を得ることを許さない国民性である。古典的な日本論の著者たちもこの点はとらえていて、『菊と刀』であれば、「権威の象徴となる人物は、常に実権から切り離されている。むき出しの権力を行使する者の正体を見破ると、日本人はそれを、私利私欲の追及に走るものであって、日本人の体制にふさわしくないと見なす」と書かれている。
『タテ社会の人間関係』ならば、他の「民主主義」の社会でも認められるような能力差を決して認めない、「極端な、ある意味では素朴ともいえるような、人間平等主義(無差別悪平等ともいうものに通ずる、理性的立場からというよりは、感情的に要求されるもの)」が指摘された。ここには、公的な場面で私を抑えることを強制されている日本人からの、公の場で権力を行使する者への、強力で破壊的な感情である羨望が働いている。「軽く」て、うるさいことを言わず、ひたすら国民の経済をよくするためだけに奔走するリーダーが理想的だと考えられている。このようなリーダーの法解釈がいい加減であることには日本人は寛容だろうが、その同じリーダーが経済の水準を保てないことに同じように寛容であるかは疑問である。
ここで話題を変えて、人のこころの発達についての理論を参照する。精神分析のような西欧由来の理論では、まず母子共生の境地があり、そこに父のような第三者が介入することで、父親への殺意が刺激されるようなエディプス葛藤が賦活され、それを超えて個人としてのこころが成立していくと想定された。そのような個人が法や契約を媒介にして構成するのが、社会である。
しかし、この理論で日本人の患者をみているとしっくりとこないことが多い。日本人の場合には、母子一体の境地が人生の相当遅い時期にまで保存されている。母親との一体感は、家族や学校・会社などの「場」との一体感に転移されていく。新しい場に馴染む度に、その場が要請する社会的役割を果たすことを通じて、日本人は自らの人格の型を作り上げていく。年齢と経験によって次第に人格は成熟していく一方で、そのような「型」にはまらない、幼児的な母子一体感の境地を引きずる心性が深層に温存されているのだ。
メランコリー親和型という元来はうつ病の病前性格と理解され、私を含む何名かの精神病理学者が日本人の性質を表していると考える性格の発達について、内海健は『うつ病の心理』という書物のなかで、次のような6つの発達段階を想定した。その6段階とは、(1)依存欲求の強い個体とその依存の挫折、(2)幻想的な一体化願望の形成、(3)強迫的防衛の発動、(4)権威の内面化、(5)強迫機制の性格防衛としての発展・勤勉の論理の発動、(6)一定の社会的成功と権威への依存である。
分かりにくいと思うので説明をすると、(1)は母子共生的な段階から、個人のこころが立ち上がることの失敗を語っている。母子分離の事実は否認され、その代わりに生じるのが(2)の幻想的な一体感、「母子の美しい一致した姿」を理想化し、それを核にパーソナリティーがつくられていくことである。(3)以降の段階で語られているのが、母子の幻想的な一体感が、学校や会社で権威を体現する人物への一体感へと横滑りし、その場が要求する社会的な役割を果たしつつそれを内面に取り込んでいくことで人格も安定し、一定の社会的成功を収めていくという発達図式である。しかし、社会的な役割を剥ぎ取られるような事態が発生すると、内面にある未熟さが露呈する脆さもこの性格には含まれている。
戦前や高度成長期の日本では、多くの日本人が母子関係で生じた「幻想的な一体感」を、日本全体の「幻想的な一体感」へと転移させて一致して頑張って、それぞれが「権威への依存」を前提に「一定の社会的成功」を果たしていたと考えられる。
ちなみに、自他未分化な幻想的な一体感が、日本人の個人・集団病理の中核にあると考えるのならば、「出る杭は打たれる」や「村八分」などの心性を理解しやすくなる。自我が確立されていないこころで、「幻想的な一体感」への幻滅によって生じるのは、クライン派の精神分析が「妄想分裂ポジション」という概念で記述した原始的で激烈な攻撃性である。したがって、集団の中で一体感を共有していた人物が、上であっても下であっても一体感から外れる時には、その人物に対する集団全体の敵意が刺激されてしまう。だから、個人を社会的な場面で主張することがきわめて困難となる。
この考察から導かれる教訓は何だろうか。
「日本人のこころの問題を乗り越える」という問題設定がなされたときに、それは「タテ社会の人間関係」のような、封建制を連想させる上下関係や組織に隷属するような人間のあり方を否定する議論が中心に行われてきた。反権威的な風を装ってさえいれば、日本人のこころの問題に真剣に関わっているかのような印象を与える誤解が、広い範囲で行われてしまった。かつての日本社会のように社会的な権威関係があまりにも強固であった時には、これにも意味があった。しかし、現在のように社会が流動化した後には、このような姿勢ばかりを強調するリベラルさが、疑問に思われる場面も増えてきた。
反権威的な姿勢を強調するだけでは、先の内海の発達論による(2)以降の問題しか扱うことができなくなる。つまり、(1)の水準での母からの分離独立・個としての自我の確立という課題が果たされないままに、(2)以降の社会的役割を引き受けて経験することの否定へとにつながった。しかしこれでは、社会的な役割を果たすことで実際の経験から学ぶことから疎外されることになる。その結果生じたのは、本論の冒頭部で論じたような、今まではウラに隠れていた、漠然とした周囲への甘えに支えられた幼児的な万能感の発露である。
したがって、日本人のこころの課題を乗り越えるために重要なのは、(1)の水準の「全体との一体感」の中から、いかにして責任主体たりえる自我の力をこころに持った「個人」を立ち上げるのか、ということである。この水準を果たしていないこころは、自らの問題を指摘された時にそれを受け止めること(象徴的に去勢されること)を拒否し、自分のことを否定しないで心地よい感情で満たしてくれる仲間を周囲に集めることで、その問題を否定し忘却することで対応する。ここで維持される万能感とそれによる現実の否認は、「日本的ナルシシズム」と呼ぶのがふさわしい。このような防衛機制ばかりに頼る傾向があったのだとしたら、かつて日本が勝ち目のない戦争にのめり込んでいったことも容易に理解できる。
日本人のこころの成熟に必要なのは、一体感を損ない分離固体化をうながすような現実・外部・他者などの第三者性を帯びたものに出会うことを通じて、情緒的な一体感に留まることを断念し、自律的な個としてのこころを立ち上げることである。一方で、生のままの「現実」が受け止めるのに厳しすぎる時に、情緒と現実の外部の仲介役を果たすのが「父」の機能の一つである。しかし、この「父」の機能も弱まっていることが指摘されて久しい。
私がこの数年取り組んでいる福島の原発事故をめぐる議論について考えることで、本論をしめくくりたい。原発推進の立場も反原発の立場も、(2)の水準の「幻想的な一体感」の醸成を目的として行われる傾向が強く、その水準にとどまる限り、それらの議論は不毛である。しかし、原発をめぐる議論は、(1)の水準の課題を乗り越えた、個人的な判断が可能な自立したこころによって考えられたものへと少しずつシフトしてきている。この場合には、各論において意見の不一致が認められたとしても、日本がより良くなってほしいといった意図を共有しての協働作業が可能となるだろう。
狭い集団内での情緒的で幻想的な一体感にこだわることは、かえって分断や対立を深刻化させてしまう。私が結論として強調したいのは、一時は情緒的な一体感が損なわれるとしても、それぞれが自律したこころのあり様を目指した方が、大きな意図を共有することが容易になるということである。その時に生まれているのは、もはや幻想的とは言えない、現実的な一体感である。