医療ガバナンス学会 (2009年10月19日 17:29)
自国民が安心して生活できるよう、いい医師を育て、医療提供体制を整える―これが医療制度
の目的である。現在、世界を見渡してもパーフェクトな医療制度を実現している国はなく、各国
がよりよい医療制度を求めて足掻いている。日本もその一つである。しかし、どの国でも通用す
る医療制度があるとは考えにくい。なぜなら、医療は国民の生活に密着しており、その国の文化・
人口・歴史・宗教など様々な背景を抜きに語ることはできないからである。
日本の医療制度がドイツを参考にしていることはよく知られている。従って、ドイツの背景を
考察することは非常に有意義である。本稿は、ドイツの歴史に焦点を当て、現在のドイツ医療が
できるまでにどのような変遷があったか、またその下地にはどのような時代の流れ、価値観があ
ったかを調べることを目的とした。
統一国家としてのドイツの誕生
ドイツという国家が誕生するまでを中世から振り返ってみよう。10世紀から19世紀まで、ド
イツには神聖ローマ帝国が存在し、多くの諸侯が加盟していた。しかし、1618年から1648年ま
での30年戦争などにより神聖ローマ帝国はまとまりを失い、代わってフランスが力を伸ばして
いた。
1800年初め、フランス帝国のナポレオンは神聖ローマ帝国に侵攻した。ナポレオンの圧力に
より、諸侯は神聖ローマ帝国を脱退してフランス帝国と同盟を結び、ライン同盟が成立した。こ
うして帝国内の全諸侯が脱退を宣言したのを受け、ハプスブルグ家のフランツ2世は1806年に
神聖ローマ皇帝の称号を返上し、神聖ローマ帝国は消滅した。その後のヨーロッパの秩序再建の
ためウイーン会議が開催された。「会議は踊る、されど進まず」と評された小田原評定の末、ド
イツ連邦というゆるやかな国家連合が結成された。ドイツ連邦の中では、フランツ2世がオース
トリア皇帝フランツ1世として君臨するオーストリア帝国の影響力が非常に強く、保守的な体制
を保持していた。しかし、フランス革命に代表される自由主義の波を止めることはできず、諸民
族が民族自治などを求めて蜂起する。こうしてドイツ人の一体化を求める声が高まり、1848年
革命が起きる。
ドイツの統一に際し、オーストリアを中心としてドイツを統一しようとする大ドイツ主義と、
オーストリアを除いた統一を目指す小ドイツ主義が対立していた。1866年にはプロイセン王国
とオーストリア帝国の間で普墺戦争が起こり、大敗を喫したしたオーストリアは影響力を失う。
以降、プロイセンが中心となってドイツ統一が進められ、1871年ドイツ帝国(プロイセン)が
成立する。ここに、統一国家としてのドイツがようやく誕生する。
世界初の社会保険制度の確立
ドイツ国内においては産業革命によって資本主義社会が発展し、工業化が進んでいた。職を求
めて農村から都市に移住するものも多かった。しかし彼らの大半は劣悪な環境で働く無産階級を
形成することとなった。次第に無産階級の不満は蓄積し、社会主義運動を招いた。ドイツ帝国の
初代宰相ビスマルクは「アメとムチ」政策の中で、社会主義者に対する攻撃を強める一方、1883
年、労働者が疾病にかかった際に疾病金庫より保険金などが給付される「疾病保健法」、1884年
には労働災害に遭った際に保険が受けられる「災害保険法」、1889年、労働者が老後に年金を給
付される「養老保険法」を制定し、労働者の環境改善を推進した。
疾病保険の実態は以下のようなものであった。ビスマルク以前にも、工場労働者が自らの賃金
の一部を出し合って助け合う疾病金庫という共済組合が存在し、疾病、失業によって雇用が中断
した際のセーフティネットとなっていた。疾病保険はこの既存の疾病金庫を利用したものであっ
た。しかし、自助的な組合から法的に認められるようになったことで、被保険者の使用者が疾病
保険に出資することとなり、被保険者が毎月粗所得の一割、使用者が同様に一割を支払うという
仕組みが成立した。この伝統は第二次世界大戦後まで受け継がれることとなった。
近代医学の発展
これまでドイツの歴史について振り返ってみたの歴史に触れてみる。17世紀から19世紀は、
ドイツ大躍進の時期である。ナポレオンに対する敗戦から立ち直り、また統一国家を実現するた
め、ドイツはナショナリズムに燃えていた。イギリスやフランスに比べて後進国であったが、科
学振興を目指し研究機関を充実させ、電気(ジーメンス)、化学(リービヒ)、医学分野などで大き
な業績を挙げた。
当時は近代医学の礎が築かれた重要な時期でもある。病理学、生理学、細菌学などが飛躍的な
発展を遂げ、血液循環の発見、毛細血管や精子の発見、麻酔術の確立、結核菌などの発見など多
様な成果が生まれた。ドイツはコッホ(パスツールと並ぶ「現代細菌学の父」)、レントゲン(X
線の発見)、ランゲルハンス(ランゲルハンス島の発見)など多くの医学者を輩出し、西洋医学
の発展の第一線を担っていた。これら医学の大発展により、医療は実際に命を救うものとして社
会的にも重要なものとなってくる。
例えば、ナポレオン率いるフランス軍が赤痢、チフスなどの感染症に苦しめられていたように、
各国の軍隊において戦場での衛生は重要課題だった。パスツールによって伝染病の原因が細菌に
よるものと判明すると、ワクチンによって伝染病を抑えることが可能になった。
専門職としての医師の自律
医療の価値が上がるとともに医師の価値も高まっていく。外科医が床屋のギルドを脱し、専門
職としての外科医が誕生したのもこの頃である。医師の社会的評価も格段に上がり、政治的な影
響力を及ぼすまでになった。ビスマルクによる保険制度の成立もあいまって、医師の役割は国家
制度の担い手としても認識されるようになった。19世紀のヨーロッパを席巻していた自由主義
では身分制が否定され、エリート層と呼ばれる新たな上層市民が生まれた。医師は国家の福祉の
担い手として機能することで、エリート層の一角を形成することとなった。
エリートである一方、専門職である医師は国家が医療に干渉しないことを望んできた。ここは
自由主義の流れを汲んでいる。1871年、ドイツ帝国が医療政策の中で、国家干渉や医師の専門
性についての覚書を設けたことに伴い、医師は「ドイツ医師連盟」を作り対抗した。最初の医師
組織であるドイツ医師連盟は凝集力もなく、単な
る医師の集まりに過ぎなかったが、後には医師
会への発展し、大きな力を持つこととなる。
それまで医師は、保険制度の担い手であると同時に、患者の診療義務を負っていたが、1873
年に自由診療に変わった。これにより、国家のエリートであった医師が競争にさらされた。そこ
で医師は、専門職としての利益を代弁する職能団体の必要性を認識し、「医師会」が誕生した。
各職業を組織化するという帝国の施策もあり、1887年の皇帝令によって、全ての医師は医師会
の会員になった。医師会は州ごとに組織され、年に1回州の代表が集まって連邦医師会が開催さ
れた。医療政策についての働きかけは強く、これに応えたのがビスマルクの疾病金庫法制定など
の一連の社会政策であった。医師個人と疾病金庫が契約関係を結び、国家は第三者となった。こ
うして、医師会は医師との契約関係に国家が介入することを防いだ。
疾病金庫と医師
疾病金庫とは、例えば現代は地域疾病金庫、企業疾病金庫、同業組合疾病金庫など7種類の金
庫に分かれており、それぞれが自主性を持って運営されている。財源は労働者、使用者それぞれ
が収める保険料が主であり、国家補助はほとんどない。地域個々の疾病金庫によって保険料、給
付サービスが異なり、加入者は疾病金庫を選択することができる。当時、個々の医師と疾病金庫
がそれぞれ個別に契約をし、保険医となっていた。診療報酬などでは保険者である疾病金庫が決
定していた。疾病金庫に加入している患者には、その疾病金庫と契約関係を結んでいる―つまり
患者が無料で診察が受けられる―医師の名前が記された診察券が発行されていた。クーポン券の
ようなものであろう。
この医師個人と疾病金庫との関係については具体的な規定は設けられず、個別契約に基づく関
係が継続していたが、転機が訪れる。医師が急激に増えたのだ。19世紀から20世紀にかけて大
学医学部が次々と新設された。この背景については後ほど触れるが、とにかく1920年頃、医師
間の競争は激化した。保険加入の患者も増加したが、不況の影響もあり経済的に余裕のある患者
はむしろ減っていた。このような疾病金庫の財政的な困難に直面し、医師と疾病金庫との協調関
係の維持は難しくなった。1913年、医師会は保険医認可と診療報酬認定の決定について団体と
して関与することを求めるストライキを行った―教養階級がストライキを行うというのは極め
て異例のことである。その結果、ベルリン協定が成立し、保険医の認可、保険医との契約条件に
関して医師会と疾病金庫が対等の立場で関与することになった。この内容は、ワイマール共和国
成立後の1924年に法的拘束力を持つこととなる。医師が団結して自らの利益を守ったのだ。
第一次世界大戦
20世紀前半はヨーロッパが荒れに荒れた時期である。社会保障などを制定したものの、国内
の貧富、身分格差は残っていた。この国内の不安を外部へと発散しようとヨーロッパ諸国は考え
た。つまり、民族主義(ナショナリズム)によって国内を一色に塗りつぶし、格差から来る不満
の解決を図ったのだ。ナショナリズムは隣国への対抗心を煽る。工業化の原材料調達の目的も重
なり、各国はより多くの植民地を求め、植民地をめぐってさらに対抗意識が激化した。この対抗
意識を反映し、ヨーロッパ諸国は同盟を結んだ。主なものは、1882年の三国同盟(ドイツ・オ
ーストリア・イタリア)と1907年の三国協商(フランス・イギリス・ロシア)である。こうし
て、東西をフランス、ロシアに挟まれるドイツは、両面作戦を想定し、軍事力増強に力を注いだ。
軍隊には軍医が不可欠であるので、新設の医学部が次々と誕生し、医師数は大きく増加した。こ
れが前述の医師間競争の激化を生んだのである。
話を戻そう。ヨーロッパに高まっていた緊迫状態はサラエボ事件をきっかけに爆発する。ドイ
ツ、フランス、ロシア、イギリス、オーストリアなどヨーロッパの国々が、自国の利益を求めて
参戦した。誰もが、最小限の犠牲を払って勝利することを想定していた。
しかし、戦争は泥沼化する。戦闘機、毒ガス、戦車に代表される兵器の使用により、死傷者の
数は当初の予想を大幅に上回った。前代未聞の損害により、戦争は兵士のみならず全国民を巻き
込むことになった。ドイツでは大規模なストライキが起き、それはやがて暴動へと発展した。終
戦後もドイツ国内の混迷は終わらず、1918年に起きたドイツ革命によってヴィルヘルム2世が
退位し、ワイマール共和国の成立が宣言された。ワイマール共和国では帝政を廃し議会制民主主
義を導入したため、医師会はドイツ帝国時代よりも大きな発言力を発揮することとなる。
ここでカネの問題が起こった。ドイツなどの三国同盟諸国は第一次世界大戦によって全面的な
敗北をした。さらにヴェルサイユ条約の中で、ドイツは敗戦国の中でも最も厳しい扱いを受けた。
1320億マルクもの懲罰的な損害賠償(後に減額、最終的には支払い廃止)やドイツ革命に続く
国内の経済混乱、さらには1929年の世界大恐慌の波に襲われ、ドイツ経済は破綻し、疾病金庫
は存続自体が揺るがされた。疾病金庫破綻の危機に際し、国家もこの問題を放置できなくなり、
医療費を削減するために様々な方策をとった。保険から独立した営業を行う医師を利用し、監督
医師として保険医を厳しく規制する医療保険法改正案が制定された。この結果、保険医の権限と
収入は大きく縮小されることとなった。
しかし、権力基盤が不安定な政府は選挙を意識し、集票力を持つ医師らの要求を無視すること
はできなかった。財政的な危険を押し切った政府の決断により、保険医協会は経済的な効率性も
含め自らの仕事を組織、監督する公法上の組織に昇格した。
1931年以降、職別に個々に組織された疾病金庫は、全ての保険医を代表する保険医協会を相
手に、保険組合ごとに個別に交渉しなければならず、医師側に大きく有利になった。医療費削減
政策という大ピンチに医師たちは果敢に挑み、むしろ自分達の影響力の拡大まで果たすという大
戦果を挙げた。